「潭州」李商隠:kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 41
 41 潭州  李商隠

847年36歳の作品。
劉蕡にちなんだ詩。李商隠が劉蕡と最初、知りあったのは湖南観察使であった楊嗣復のもとでであったと推定される。なお揚嗣復は劉蕡の座主すなわち進士登第の時の試験官だった。李商隠は5,6年ぶりの再会を夢見て尋ねた。



潭州 李商隠
潭州官舎暮樓空、今古無端人望中。
潭州の役所、夕闇せまるころ楼台は誰もいなくて静かなたたずまい、今と昔、いつもどおり何の変りもなくされていることが世間の人々が寄せる信頼や、尊敬の念をもたせているのです
湘涙浅深滋竹色、楚歌重畳怨蘭叢。
湘水のほとりで劉蕡に流した涙は、むかし舜帝の死に泣いた二人の妃、その涙を写すまだらの竹が、雨に濡れて鮮やかに浮かび上がっているし、楚の国を追われた屈原が悲しみを托した蘭の茂みに繰り返し怨みの風が吹き付ける。
陶公戦艦空灘雨、賈傅承塵破廟風。
この地でかつて陶侃(とうかん)は、戦艦を建造して勝利を収めたが、その岩のある急流に今はただ雨が降り注いでいる。この地にかつて賈誼は太傅として流され、死の影に怯えて鵩鳥の賦を作ったが、その崩れかけた廟に今は風が吹き寄せているのだ。
目断故園人不至、松醪一酔與誰同。
ふるさとの故郷の田園に目を凝らしても何も見えず、待つ人の座主はかえって来る気配もない。松の酒で酔いながら劉蕡のことを偲びたかったけれど、誰とこの酒酌み交わそうというのか。



潭州の役所、夕闇せまるころ楼台は誰もいなくて静かなたたずまい、今と昔、いつもどおり何の変りもなくされていることが世間の人々が寄せる信頼や、尊敬の念をもたせているのです
湘水のほとりで劉蕡に流した涙は、むかし舜帝の死に泣いた二人の妃、その涙を写すまだらの竹が、雨に濡れて鮮やかに浮かび上がっているし、楚の国を追われた屈原が悲しみを托した蘭の茂みに繰り返し怨みの風が吹き付ける。
この地でかつて陶侃(とうかん)は、戦艦を建造して勝利を収めたが、その岩のある急流に今はただ雨が降り注いでいる。この地にかつて賈誼は太傅として流され、死の影に怯えて鵩鳥の賦を作ったが、その崩れかけた廟に今は風が吹き寄せているのだ。
ふるさとの故郷の田園に目を凝らしても何も見えず、待つ人の座主はかえって来る気配もない。松の酒で酔いながら劉蕡のことを偲びたかったけれど、誰とこの酒酌み交わそうというのか。

 


潭州
潭州の官舎 暮楼空し、今古 端なくも人望中る。
湘涙 浅深 竹色を涼し、楚歌 重畳 蘭叢を怨む。
陶公の戦艦 空灘の雨、晋博の承盛 破廟の風。
目断す 故図 人至らず、鋸跳う表禦現にか閉じゅうせん。




潭州官舎暮樓空、今古無端人望中。
潭州の役所、夕闇せまるころ楼台は誰もいなくて静かなたたずまい、今と昔、いつもどおり何の変りもなくされていることが世間の人々が寄せる信頼や、尊敬の念をもたせているのです。
潭州 湖南省にある地名。長沙のこと。湘水は昭山の山麓をめぐるあたり、深い潭となって流れる。この詩は彼が好意を寄せていた揚嗣復を潭州に訪ねた時、その人に会うことができずその寂蓼の中で作られたもの。揚嗣復は文宗の開成四年(839年)湖南観察使となってこの地に赴き、武宗の会昌元年(841年)に潮州別史としてさらに南方の広東省へ貶遷された。○無端 何の原因もなく。ゆえなく。わけもなく。端(はし)無く。これというきざしもなく。思いがけなく。はからずも。いつもどおり何の変りもなく。李商隠「錦瑟」○人望 世間の人々がその人に寄せる信頼や、尊敬の念。 ○ 空と対句で、無なしに対して、当たる。



湘涙浅深滋竹色、楚歌重畳怨蘭叢。
湘水のほとりで劉蕡に流した涙は、むかし舜帝の死に泣いた二人の妃、その涙を写すまだらの竹が、雨に濡れて鮮やかに浮かび上がっているし、楚の国を追われた屈原が悲しみを托した蘭の茂みに繰り返し怨みの風が吹き付ける。
湘涙・・・句 紀頌之の漢詩ブログ 李商隠33「涙」に湘江竹上痕無限を参照。  紀頌之の漢詩ブログ李商隠40「哭劉司戸二首其二」の添恨涙を連想させる。 蛾皇と女英の故事にもとづく。古代の帝王舜は南方巡行の途中、蒼梧(湖南省寧遠県付近の山)で残した。二人の妃、蛾皇と女英は舜を追い求めて湘江のあたりまで来たが、二人の涙がこぼれた竹はまだらに染まった。そのためこの地の竹には斑紋がついているという(『博物志』、『述異記』)。湘江は長抄の西を通って洞庭湖に注ぐ。「浅深」はあるいは浅くあるいは深く、まだらになっていることをいう。この句は次の聯の「雨」 に繋がる。
○楚歌一句 劉蕡を屈原にたくして表現している。屈原・宋玉などの『楚辞』のなかには蘭をはじめとする香り高い植物がよくうたわれ、おおむねは美徳を備えた人を喩える。「重畳」は幾重にも重なり合って。この句は次の聯の「風」に繋がる。



陶公戦艦空灘雨、賈傅承塵破廟風。
この地でかつて陶侃(とうかん)は、戦艦を建造して勝利を収めたが、その岩のある急流に今はただ雨が降り注いでいる。この地にかつて賈誼は太傅として流され、死の影に怯えて鵩鳥の賦を作ったが、その崩れかけた廟に今は風が吹き寄せているのだ。
陶公一句 西晋の将軍陶侃(とうかん257―332年)は異民族から身を起こし、東晋が南方に勢力を築くのに貢献した武将。陶淵明の曾祖父でもある。字名は士行。明帝司馬紹(299-325年)の時、征西大将軍となり、杜位を討ち、配剛の乱を平らげ、長沙郡公に封ぜられた。陳敏・陳恢兄弟の乱の時、江夏大守だった陶侃は荊州別史劉弘と協力し、運送船を戦艦にしたてて戦いながらも、合戦のたびに必ず勝った。(『晋吉』陶侃伝)。「灘」はその岩のある急流。「空」はあるべき物がない空虚な感じをあらわす。○貢倖一句 ○賈生 漢の孝文帝劉恒(紀元前202-157年)に仕えた文人賈誼(紀元前201―169年)のこと。洛陽の人。諸吉家の説に通じ、二十歳で博士となった。一年後、太中大夫すなわち内閣建議官となり、法律の改革にのりだして寵任されたが、若輩にして高官についたことを重臣たちに嫉まれ、長沙王の傅に左遷された。のち呼び戻され、孝文帝の鬼神の事に関する質問に答え、弁説して夜にまで及び、孝文帝は坐席をのりだして聴き入ったと伝えられる。その後、孝文帝の少子である梁の懐王の傅となり、まもなく三十三歳を以て死んだ。屈原を弔う文及び鵩(みみずく)の賦が有名。賈誼が長沙にいた時、「目鳥 其の承塵に集まる」。目鳥はふくろうに似た鳥というが、詩文のなかのみにあらわれ、その家の主人の死を予兆する不吉な鳥とされる。賈誼はその出現におびえ、「鵩鳥の賦」(『文選』巻一三)を著した



目断故園人不至、松醪一酔與誰同。
ふるさとの故郷の田園に目を凝らしても何も見えず、待つ人の座主はかえって来る気配もない。松の酒で酔いながら劉蕡のことを偲びたかったけれど、誰とこの酒酌み交わそうというのか。
〇目断 視界が途切れる果てまで、まなこを凝らして見る。○故園 故郷。〇人不至 誰一人来ない、ではなく、特定の人が来ない。異土にある心細さゆえに、心通い合う友への思いを募らせる。○松謬 松の香りをつけた濁り酒。唐の貞元年間(785-805)に長沙の男が舟人に「松膠春」という酒をふるまう話が『太平広記』巻一五二、「鄭徳瑛」の条に見えるなど、長抄にまつわって語られることが多い。ここでは、劉蕡に初めて合わせてくれた揚嗣復座主と、死者を偲ぶという松膠を酌み交わそうと思って訪ねてきたのだ。



○詩型・押韻 七言律詩。空、中、叢、凰、同。