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隋宮 李商隠 :kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 49



隋宮 

紫泉宮殿鎖煙霞、欲取蕪城作帝家。
南に丹水の流れ有り、北に紫泉が廻る都長安の宮殿には、紫の荒淫の霞がたちこめている。 隋の揚帝は、江南の地、蕪城の賦にうたわれたこの地にも都とし、荒淫をしろうと思っていた。
玉璽不縁蹄日角、錦帆應是到天涯。
彪大な資材と人力を徴発したため、国力が衰えて天子の玉印に威力がなくなり各地で群盗蜂起し、遂に日角の形相の唐の高祖が蹄の音高くして天下をおさめた。それがなかったら、逸楽に狂う風流天子の錦の帆は、揚州にとまらず、そこを過ぎて天地の涯までも進んで行ったに違いないだろう。 
于今腐草無螢火、終古垂楊有暮鴉。
東都の景華宮で螢を集めさせ、山谷に放って楽しんだ。ところが今、草が腐って螢となるはずなのに、蛍も光らぬ雑草がおい茂っているだけだ。いつまでも、運河沿いのしだれ柳の樹だけは変りないが、夕暮れの烏が鳴いているだけだ。
地下若逢陳後主、豈宜重間後庭花。

煬帝は、晩年に、よみの国で陳の後主の亡霊にあい、その愛妃の舞いを見せてもらったということだが、その隋も滅ぼされたのだから、再び陳の後主にめぐりあったとしても、もう重ねて後庭花の舞いを見たいとは言えないだろう。


南に丹水の流れ有り、北に紫泉が廻る都長安の宮殿には、紫の荒淫の霞がたちこめている。 隋の揚帝は、江南の地、蕪城の賦にうたわれたこの地にも都とし、荒淫をしろうと思っていた。
彪大な資材と人力を徴発したため、国力が衰えて天子の玉印に威力がなくなり各地で群盗蜂起し、遂に日角の形相の唐の高祖が蹄の音高くして天下をおさめた。それがなかったら、逸楽に狂う風流天子の錦の帆は、揚州にとまらず、そこを過ぎて天地の涯までも進んで行ったに違いないだろう。 
東都の景華宮で螢を集めさせ、山谷に放って楽しんだ。ところが今、草が腐って螢となるはずなのに、蛍も光らぬ雑草がおい茂っているだけだ。いつまでも、運河沿いのしだれ柳の樹だけは変りないが、夕暮れの烏が鳴いているだけだ。
煬帝は、晩年に、よみの国で陳の後主の亡霊にあい、その愛妃の舞いを見せてもらったということだが、その隋も滅ぼされたのだから、再び陳の後主にめぐりあったとしても、もう重ねて後庭花の舞いを見たいとは言えないだろう。


隋宮
紫泉の宮殿 煙霞に鎖し、蕪城を取りて帝家と作さんと欲す。
玉璽 日角に帰するに縁らざれば、錦帆 応に是 天涯に到りしなるべし
今に于いて 腐草に蛍火無く、終古 垂楊に暮鴉有り。
地下に若し陳の後主に逢わば、豈に宜しく重ねて後庭花を問うべけんや。



隋宮 隋の第二代目の天子煬帝(ようだい)煬広(580-618年)は即位の年から大規模な運河工事を起し、長安より江都(江蘇省揚州)までを開通し、その運河沿いに離宮を四十余所も設けて美女を置いた。紫泉宮殿は、長安にすておかれた宮殿の方をさし、蛍狩りに興じたのは、東都の景華宮においてであり、運河沿いに楊柳を植えたのは、板渚から准水にいたる別の運河である。
詩題の隋宮はそれらすべてをふくめて、隋の煬帝の豪奢を諷したものではあるが、この運河をもって中国初の統一国家を成し遂げたということでもある。

吐谷渾に勝ち、琉球を攻め、運河を利用して次次と征略したが、再度高句麗を攻めて大失敗した。相続く戦争による国力の疲弊をかえりみず、洛陽や揚州へ巡遊し、離宮や遊覧船の建造に国費の大半を浪費した。この運河建設については、後世の中国発展の基礎となったもので評価は大きい。「隋傷帝柴」一巻が伝わるが、ただ、唐による編纂のため、煬帝の評価において問題があるが、李商隠の時代は煬帝について客観的しりょうはなかったであろうから、問題提議だけで煬帝について終わる。
taigennankin88
 長安と何将軍



紫泉宮殿鎖煙霞、欲取蕪城作帝家。
南に丹水の流れ有り、北に紫泉が廻る都長安の宮殿には、紫の荒淫の霞がたちこめている。 隋の揚帝は、江南の地、蕪城の賦にうたわれたこの地にも都とし、荒淫をしろうと思っていた。
紫泉宮殿 隋の首都長安の宮殿をいう。紫泉は長安の北にある沢の肇漢の文人司馬相如(紀元前179-117年) の上林の賦に「丹水其の南を更、紫淵其の北に徑れり。灞滻を終始し、涇渭を出入す。」とある。(長安の西と南に丹水、北に紫淵、東に灞水、滻水があり、すべて渭水にそそぐ。) 紫淵は、唐の建国の皇帝、高祖李淵(565-635年)諱(いみな:生前の名を呼ぶのを嫌う)をさけで紫泉といったもの。長安南東部滻水から太液池を経て西へ流れる。この川の淵を太液池とした。○煙霞 かすみ。〇蕪城 劉宋の詩人飽照が、漢代に呉王濞がよっていた広陵の故城を見て、蕪城の賦を作ったのに借りて、広陵(揚州の古名)を蕪城といったもの、かつて呉王濞は、ここで叛乱を起して滅ぼされた。○帝家 皇帝のすまい、つまりみやこ。隋は長安を首都とし、洛陽を東京としたが、大業の初め、楊帝は江都すなわち揚州を南都としようとした。揚州は物産ゆたかで、かつ風光明媚の土地であり、南朝の雅艶文化の地であったからである。
 

玉璽不縁蹄日角、錦帆應是到天涯。
彪大な資材と人力を徴発したため、国力が衰えて天子の玉印に威力がなくなり各地で群盗蜂起し、遂に日角の形相の唐の高祖が蹄の音高くして天下をおさめた。それがなかったら、逸楽に狂う風流天子の錦の帆は、揚州にとまらず、そこを過ぎて天地の涯までも進んで行ったに違いないだろう。 
玉璽 天子の玉印。〇日角 嶺の左右の骨が角のように突き出ている人相。王者たるべき着がもつという瑞相。隋が統一国家を実現していたが、第2代煬帝の内政上の失政と外征の失敗のために各地に反乱がおき、大混乱に陥った。このとき太原留守(総督)であった李淵は617年(義寧元年)に挙兵、煬帝の留守中の都、大興城(長安)を陥落させると、煬帝を太上皇帝(前皇帝)に祭り上げて、その孫恭帝侑を傀儡の皇帝に立て、隋の中央を掌握した。翌618年(隋義寧2年、唐武徳元年)に江南にいた煬帝が殺害され、李淵は恭帝から禅譲を受けて即位(高祖)、唐を建国した。○錦帆 豪華な錦織の帆。煬帝は遊覧船の帆を金襴緞子で造らせたのである。



于今腐草無螢火、終古垂楊有暮鴉。
東都の景華宮で螢を集めさせ、山谷に放って楽しんだ。ところが今、草が腐って螢となるはずなのに、蛍も光らぬ雑草がおい茂っているだけだ。いつまでも、運河沿いのしだれ柳の樹だけは変りないが、夕暮れの烏が鳴いているだけだ。
○腐草 腐った草。それは古く、蛍のたねとなると信ぜられた。○蛍火 蛍の光。楊帝は東都の宮殿、景華官で蛍を数斗も徴発し、夜に山に遊び、これを放って遊興したことがある。このとき、蛍の光が山谷にあふれたと、「隋書」本紀はしるす。616年(大業末年)のことである。○終古 いつまでも。○垂楊 しだれ柳。楊の柳はしなやかな女性を示す。大業元年(605年)煬帝は西苑から穀洛二水を引いて黄河へ。板渚から熒沢を経て汴水へ。また汴水を泗に入れ准河に到る運河。及び刊溝を開き山陽から揚子江に入る、大運河工事を起し、その堤に街道を作り、楊柳を一千三百里にわたって植えた。その柳を指す(「隋沓」本紀及び食貨志)。〇暮鶉 夕暮のからす。



地下若逢陳後主、豈宜重間後庭花。
煬帝は、晩年に、よみの国で陳の後主の亡霊にあい、その愛妃の舞いを見せてもらったということだが、その隋も滅ぼされたのだから、再び陳の後主にめぐりあったとしても、もう重ねて後庭花の舞いを見たいとは言えないだろう。
地下 よみの国。○逢 偶然出会ぅこと。○陳後主 南北朝の末期、建廉(今の南京)に都とした陳の亡国の天子陳叔宝(553-604年)のこと。二代目または三代目の亡国の天子を通常後主と称する。紀頌之ブログ李商隠48「景陽井」で、井戸に逃げ隠れ捉えられた様を詠う。
陳の後主は、国運の傾いても逸楽に溺れ、妃嬪や客と日夜すごした。隋の文帝は開皇八年(588年)、皇子広即ち後の煬帝に命じて陳を討たせた。煬帝はさまざまに警告したが、後主はまた、空威張りして、伎楽や遊宴を続けた。かくて逃げられず、宮中の井戸にかくれたが、夜・隋将賀来廟の兵に発見され生捕にされた。輯本「陳後主集」一巻。○後庭花 陳の後主「玉樹後庭花」歌曲。
玉樹後庭花
麗宇芳林對高閣  新粧豔質本傾城
映戸凝嬌乍不進  出帷含態笑相迎
妖姬臉似花含露  玉樹流光照後庭

唐の顔帥古の「隋追録」によると、大業末年、隋の煬帝が江都で酒色に耽溺していた頃、ある日、楼閣で陳の後主の亡霊とあった。陳の後主の数十人の舞女のうち際立って美しい美女が居て煬帝が目を奪われていると、陳後主は、「これが私の愛妃麗華です。」と言った。そこで酒が入り、煬帝の請いによって、麗華は、玉樹後庭花の歌曲に合わせて舞をまった。一曲終ってから、陳の後主は、陛下の寵妃である粛妃とどちらが美しいと思われますかと尋ねた。煬帝は答えて、「春の蘭、秋の菊、どちらも各々時の秀。」と言ったという。