荊門西下 李商隠 :紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 57
848年37歳


荊門西下
一夕南風一葉危、荊門廻望夏雲時。
ある夕べ、激しい南風が吹いたが、長江を下っていくと木の葉のような小舟は危く顛覆するかのようになった。いま、荊門山の上に夏の雲がぎらぎら光るのを眺めながら、生きた心地もしなかったことと南の佳林でのことこの荊州でのことすべてをかえりみているのだ。
人生豈得軽離別、天意何曾忌嶮巇。
もともと、この南方からこの地へ、仕官の都合上、やむなき理由でこの地を去るのだが、なるほど、人生は別離を軽んじてはならないのだ。そして、天の意志は、必ずしも峻巇な地形を作ることを嫌わない。いかに上司が左遷され、周りが他党派であろうと、簡単に職を辞していいものだろうか。
骨肉書題安絶徼、蕙蘭蹊径失佳期。
各地を転赴しているので家族からの音信は絶えてなく、中央政府から遠隔地だと気も安らかに過ごせるのだが、かつては、再びこの洞庭湖のあたりを訪れることがあれば、かぐわしい蕙蘭の叢のある川辺の小径で逢瀬の約束をしておいたのだが、その約束をも逸失してしまったこともあるが、実は、師ともいうべき揚嗣復とあえなかったのだ
洞庭湖濶蛟龍悪、却羨楊朱泣路岐。
洞庭湖ははてしなく広い。広いゆえに、水底にすむ蛟龍も巨大で、食欲に人をのもうとする悪しき性をもつというのも、長江下流域を治める重要地点でわるいやつらに抑えられているのだ。むかし岐路に立って、北へも南へも進める故に泣いたという哲人楊朱の嘆きをうらやましくおもう。私は自愛主義、悦楽主義に徹することはできないのである。


ある夕べ、激しい南風が吹いたが、長江を下っていくと木の葉のような小舟は危く顛覆するかのようになった。いま、荊門山の上に夏の雲がぎらぎら光るのを眺めながら、生きた心地もしなかったことと南の佳林でのことこの荊州でのことすべてをかえりみているのだ。
もともと、この南方からこの地へ、仕官の都合上、やむなき理由でこの地を去るのだが、なるほど、人生は別離を軽んじてはならないのだ。そして、天の意志は、必ずしも峻巇な地形を作ることを嫌わない。いかに上司が左遷され、周りが他党派であろうと、簡単に職を辞していいものだろうか。
各地を転赴しているので家族からの音信は絶えてなく、中央政府から遠隔地だと気も安らかに過ごせるのだが、かつては、再びこの洞庭湖のあたりを訪れることがあれば、かぐわしい蕙蘭の叢のある川辺の小径で逢瀬の約束をしておいたのだが、その約束をも逸失してしまったこともあるが、実は、師ともいうべき揚嗣復とあえなかったのだ
洞庭湖ははてしなく広い。広いゆえに、水底にすむ蛟龍も巨大で、食欲に人をのもうとする悪しき性をもつというのも、長江下流域を治める重要地点でわるいやつらに抑えられているのだ。むかし岐路に立って、北へも南へも進める故に泣いたという哲人楊朱の嘆きをうらやましくおもう。私は自愛主義、悦楽主義に徹することはできないのである。




荊門 西より下る
一夕 南風一葉危うし、荊門に廻望す 夏雲の時。
人生 豈に離別を軽んじ得んや、天意 何んぞ曾って嶮巇(しゅんき)を忌まん。
骨肉の書題 絶徼に安んじ、蕙蘭の蹊径 佳期を失う。
洞庭湖濶く、蛟龍 悪し、却って羨やむ 楊朱の路岐に泣きしを



荊門 山名。湖北省宜都県の西北方、長江の南岸にある。河川に両岸が迫っているので呼ばれる。北岸の虎牙山と相対した江運の難所である。宜宗の大中二年(848年)、桂林刺史、桂管防禦観察使の鄭亜が循州(広東省恵陽県)に貶され、李商隠は幕を辞して都へ帰った。馮浩はその路中の作とする。偶成転韻と題する詩に「頃之職を失いて南風に辞す、破帆壊漿 荊江の中。」と歌われており、李商隠はこの荊門のあたりの難所で実際に危険な目にあったらしい。杜甫「詠懐古跡五首其三」李白「秋下荊門」「渡荊門送別」三峡をすこし下ってここに差し掛かることを詠う。



一夕南風一葉危、荊門廻望夏雲時。
ある夕べ、激しい南風が吹いたが、長江を下っていくと木の葉のような小舟は危く顛覆するかのようになった。いま、荊門山の上に夏の雲がぎらぎら光るのを眺めながら、生きた心地もしなかったことと南の佳林でのことこの荊州でのことすべてをかえりみているのだ。
一葉 小さき舟を一片の樹の葉に喩えでいう。○荊門 諸本みな荊雲とするが、恐らく誤りであろう。朱鶴齢の説に従ってあらためた。○廻望 ぐるりと視線をめぐらして背後をふりかえる。
*李商隠は前年847年、桂林から荊州に赴任したばかりだった。自らのことを一葉の舟に喩えている。



人生豈得軽離別、天意何曾忌嶮巇。
もともと、この南方からこの地へ、仕官の都合上、やむなき理由でこの地を去るのだが、なるほど、人生は別離を軽んじてはならないのだ。そして、天の意志は、必ずしも峻巇な地形を作ることを嫌わない。いかに上司が左遷され、周りが他党派であろうと、簡単に職を辞していいものだろうか。
嶮巇 巇は山が相対して危くけわしいこと。



骨肉書題安絶徼、蕙蘭蹊径失佳期。
各地を転赴しているので家族からの音信は絶えてなく、中央政府から遠隔地だと気も安らかに過ごせるのだが、かつては、再びこの洞庭湖のあたりを訪れることがあれば、かぐわしい蕙蘭の叢のある川辺の小径で逢瀬の約束をしておいたのだが、その約束をも逸失してしまったこともあるが、実は、師ともいうべき揚嗣復とあえなかったのだ
骨肉 兄弟親族。○安絶徼 絶徼は遠いくにざかい。東南僻地を徼と云い、西北を塞という(「漢書」注)。○蕙蘭 ともに香草の名であるが、「楚辞」以来、しばしば美人のたとえとなり、また美女への連想をともなって用いられる。○佳期 おうせ。愛人とあう約束。
李商隠「潭州」劉蕡にちなんだ詩。李商隠が劉蕡と最初、知りあったのは湖南観察使であった楊嗣復のもとでであったと推定される。なお揚嗣復は劉蕡の座主すなわち進士登第の時の試験官だった。李商隠は5,6年ぶりの再会を夢見て尋ねた。潭州 李商隠 :紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 41
 


洞庭湖濶蛟龍悪、却羨楊朱泣路岐。
洞庭湖ははてしなく広い。広いゆえに、水底にすむ蛟龍も巨大で、食欲に人をのもうとする悪しき性をもつというのも、長江下流域を治める重要地点でわるいやつらに抑えられているのだ。むかし岐路に立って、北へも南へも進める故に泣いたという哲人楊朱の嘆きをうらやましくおもう。私は自愛主義、悦楽主義に徹することはできないのである。
蛟竜 みずちと竜。蛇に似て足があり人を食うという。ここでは中央政府を牛耳るもの羅が、この洞庭湖周辺の人事を有利に配していることを示す。○楊朱泣路岐 楊朱は春秋戦国時代の思想家。原始的唯物論、快楽主義、及び徹底した利己主義がその思想の特色。個人主義的な思想である為我説(自愛説)を主張した。一本の毛を抜いて天下を利する事もせぬと主張する。「列子」楊朱篇に見える。この一句は、ある時、揚朱が岐路を見て泣き、何故泣くのかと問われて、北へも行け南へも行けるからだと云ったという有名な逸話による(「准南子」