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茂陵 李商隠:紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 64
847年 鄭州と長安 李商隠36歳。


茂陵
漢家天馬出蒲梢、苜蓿榴華遍近郊。
漢の武帝は、遠征して大宛の国を討ち、天馬のように一日、千里をはしる馬を得た、その馬が蒲梢産であったから、蒲梢と名づけた。ある時は張鶱を西域に遣わし、その馬の好物である苜蓿をはじめ、石榴や胡桃などの珍樹を持ち帰らせ、それを国都の近郊に植えさせ、珍しい草木の花々が、一般化したということだ。
内苑只知銜鳳觜、属車無復插鶏翹。
宮中の庭苑内に多くの禽獣を飼い、弓を弾き狩猟のみした。弓の弦が切れたら、鳳の觜から作ったという接着剤を唾でとかすだけで剣でも接着するのにただ知っているだけだった。
武帝が巡行する時の属車に鸞鈴をつけた旗はどの車にもつき立てられていなかった。毎度、お忍びの夜遊びをしていた。
玉桃倫得憐方朔、金屋粧成貯阿嬌。
(晩年には、神仙に傾倒し、仙女の西王母と会うのを楽しみに次次と宮殿を建てた。)三千年にひとたび実る神秘な桃の実を三度もぬすんで俗界に貶められた侍臣の東方朔が武帝の憐れみを得ているのも西王母と会いたいがためだけだ。
誰料蘇卿老歸國、茂陵松柏雨蕭蕭。
誰も考えはしなかったことだが、忠臣の蘇武卿が、武帝の限りない欲望のため、匈奴に十九年も捕われていたが年老いて帰国した。武帝は茂陵にまつられ、松柏に、蕭蕭と雨が降りそそぐだけだった。



漢の武帝は、遠征して大宛の国を討ち、天馬のように一日、千里をはしる馬を得た、その馬が蒲梢産であったから、蒲梢と名づけた。ある時は張鶱を西域に遣わし、その馬の好物である苜蓿をはじめ、石榴や胡桃などの珍樹を持ち帰らせ、それを国都の近郊に植えさせ、珍しい草木の花々が、一般化したということだ。
宮中の庭苑内に多くの禽獣を飼い、弓を弾き狩猟のみした。弓の弦が切れたら、鳳の觜から作ったという接着剤を唾でとかすだけで剣でも接着するのにただ知っているだけだった。
武帝が巡行する時の属車に鸞鈴をつけた旗はどの車にもつき立てられていなかった。毎度、お忍びの夜遊びをしていた。
(晩年には、神仙に傾倒し、仙女の西王母と会うのを楽しみに次次と宮殿を建てた。)三千年にひとたび実る神秘な桃の実を三度もぬすんで俗界に貶められた侍臣の東方朔が武帝の憐れみを得ているのも西王母と会いたいがためだけだ。
誰も考えはしなかったことだが、忠臣の蘇武卿が、武帝の限りない欲望のため、匈奴に十九年も捕われていたが年老いて帰国した。武帝は茂陵にまつられ、松柏に、蕭蕭と雨が降りそそぐだけだった。



漢家の天馬 蒲梢(ほしょう)より出づ、苜蓿(もくしゅく) 榴華(りゅうか) 近郊に遍(あまね)し
内苑 只だ知る鳳觜(ほうし)を銜(ふく)むを、属車 復た 鶏翹(けいごう)を插(さしは)さむ無し。
玉桃 倫み得て方朔を憐み、金屋 粧い成って阿嬌(あきょう)を貯(たくお)う
誰か料(はか)らん 蘇卿老いて国に帰れば、茂陵の松柏 雨蕭蕭たらんとは




茂陵
茂陵 漢の武帝のみささぎ。紀元前39年に初めて茂陵郡をおき武帝自らみさきざを作った。陝西省長安の西北西60km。これは漢の武帝の事蹟を歌う批判的詠史詩。「三体詩」にも採られている。
長安と何将軍

 
漢家天馬出蒲梢、苜蓿榴華遍近郊。
漢の武帝は、遠征して大宛の国を討ち、天馬のように一日、千里をはしる馬を得た、その馬が蒲梢産であったから、蒲梢と名づけた。ある時は張鶱を西域に遣わし、その馬の好物である苜蓿をはじめ、石榴や胡桃などの珍樹を持ち帰らせ、それを国都の近郊に植えさせ、物珍らしい草木の花々が、一般化したということだ。
天馬 天上の馬のような駿足の馬。武帝は太初年間(紀元前104―101年)大宛国を撃ち二日に千里を走る馬を得た。それを蒲梢と名付け、天馬の歌を作った。その歌にいう、「天馬来れ。西極より、万里を経て有徳に帰す。」ことは「史記」楽書に見える。○蒲梢 上述のごとく馬の名なのだが、李商隠は地名のようにこの言集を用いている。○苜蓿 華名。うまごやし。「漢書」西域伝によると、大宛の馬はこの事を好むゆえ、武帝は張鶱に千金を持たせて大宛国に使いさせ、この事の種を持ち帰らせて離宮に植えたという。○榴華 ざくろの花。西晋の張華の「博物志」に、張鶱が西域に使いし、石榴・胡桃・蒲桃などの珍らしい樹を得てかえったとある。○近郊 国都をへだつ五十里以内を近郊といい、百里以内を遠郊という(「周礼」地官の鄭玄の注)。


内苑只知銜鳳觜、属車無復插鶏翹。
宮中の庭苑内に多くの禽獣を飼い、弓を弾き狩猟のみした。弓の弦が切れたら、鳳の觜から作ったという接着剤を唾でとかすだけで剣でも接着するのにただ知っているだけだった。
武帝が巡行する時の属車に鸞鈴をつけた旗はどの車にもつき立てられていなかった。毎度、お忍びの夜遊びをしていた。
内苑 宮御苑。そこに禽獣を飼育する。○銜鳳觜 鳳常は、鳳のくちばしから作るという膠のこと。漢の東方朔に偽託される「海内十州記」に、道教の仙人が、鳳の嘴と麟の角からにかわをつくり、続舷の膠と名づけたという話をのせる。弓や琴の弦の切れたもの、或いは折れた剣をもつなぐことができたという。漢の武帝の時・西国の使者がこの膠を献じたのだが、武帝はその効用を知らず死蔵していた。たまたま、華林園で虎を射ようとして弓の弦の切れた時、はじめてこの「にかわ」の素晴しさを知ったという。銜は口にふくみ唾で膠をとかすこと。○属車 おともする車。○插鶏翹  天子が巡幸する時、鸞旗、つまり鳥の羽毛で飾り、鈴をつけた御旗を先頭に立てる。後漢の察邕の「独断」に、人民がその旗のことを鶏翹と呼んだとある。翹勉は鳥の尾の長い毛。右は、武帝が正式の儀仗をととのえず、お忍びで出遊するのを好んだ事をいう。

 
玉桃倫得憐方朔、金屋粧成貯阿嬌。
(晩年には、神仙に傾倒し、仙女の西王母と会うのを楽しみに次次と宮殿を建てた。ー李商隠「漢宮詞」)
三千年にひとたび実る神秘な桃の実を三度もぬすんで俗界に貶められた侍臣の東方朔が武帝の憐れみを得ているのも西王母と会いたいがためだけだ。
玉桃 玉のような桃の実。東晋の葛洪の「抱朴子」に「崑崙山に玉桃あり、光明洞徹して堅し。」と見える○憐方朔 憐は愛する。方朔は漢の武帝に仕えた文人東方朔、あざな愛情のこと。「漢武故事」に、仙女西王母が武帝の禁中に下降した時、東方朔の方を指さして、この児はもと私の隣りにいた者だが、天の法にたがい、いまは人間世界におとしめられている。むかし私の園で三千年に一たび実る玉桃を三度も倫んだ、と言ったとある。以後武帝は一そう方朔を愛したという。方朔は太中大夫給事中として侍従したが、評語に富む小説的な人物だったので、俗伝の中で非現実的な事蹟が多く伝えられる。○金屋 美しいやかた。「漢武故事」に、武帝が五歳、膠東王だった時、おばに当る長公主が王を抱いて、「あなた姉さんが欲しいかえ。」と尋ねたところ、「欲しいよ。」と彼は答えた。公主がむすめの阿婿を指して、どうかと尋ねると、幼い武帝は、「もし阿婦をよめにもらったならこがねのやかたを作って住ませてあげるよ。」と言ったとある。(吉川幸次郎博士の「漢の武帝」を参照)○阿嬌 長公主の娘、後の陳皇后。


誰料蘇卿老歸國、茂陵松柏雨蕭蕭。
誰も考えはしなかったことだが、忠臣の蘇武卿が、武帝の限りない欲望のため、匈奴に十九年も捕われていたが年老いて帰国した。武帝は茂陵にまつられ、松柏に、蕭蕭と雨が降りそそぐだけだった。
誰料 料は予想する。誰料何何で、一体そのことを誰が推測しえただろう、と反語になる。○蘇卿 漢代の忠臣蘇武(?―紀元前60年)あざな子卿のこと。漠の天漢元年(紀元前100年)武帝の命を受けて匈奴に使いして捕われたが、屈しなかった。北海、今のバイカル湖のほとりで牧羊させられること数年、先に匈奴を征めて捕虜となっていた将軍李陵(?-紀元前74年)が蘇武に降伏をすすめたがきかなかった。武帝の子昭帝劉弗陵(紀元前95-74年)の時、匈奴の国が乱れ、漢との和議が成立して、19年目に故国に帰ることができた。〇松柏 柏はひのきの塀。常緑喬木の総称。漠代の古詩十九首に「青青たり陵上の相」とあるように茂陵には松や柏が植えられる。○蕭蕭 ものさびてあわれなるさま。


武帝は五歳の頃、おばさんの長公主に、阿橋をお嫁さんに欲しいかえと尋ねられて、もし阿婿をもらったら、金の屋敷を作って住ませてあげるよ、と答える早熟ぶりだったが、事実、黄金の屋敷や宮殿を建て、陳皇后だけではない数多くの美女を侍らしたものである。
しかしその栄華をほこった武帝にも、死はおとずれた。

李商隠は漢の武帝の領土拡大欲、神仙道教への傾倒、我儘な性格、奢侈な生活これらは人民を苦しめるだけだと批判している。唐王朝も同じことをしている。やがて滅ぶぞと。