籌筆駅 李商隠 :紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 66 諸葛亮(1)
856年 長安 李商隠45歳。

この詩では杜甫と違い諸葛亮を教条主義者とみていたようだ。後世の我々から見ると李商隠の分析力が勝っているように見える。それは詩の題が廟でなく軍隊を鼓舞したその場所にしていること、且つ、諸葛亮の最大の弱点、後継者を育てていないこと、を見事に指摘している。


籌筆驛
魚鳥猶疑畏簡書、風雲長爲護儲胥。
ここに来るとほり池の魚や垣柵にとまる鳥さえ、まだ孔明の軍規律を恐れているように見える。風雲はながくとおりすぎたが、今なお昔の木柵と竹槍で作る陣地の守備垣を護ろうとしているかのようだ。
徒令上将揮神筆、終見降王走傳車。
上将である諸葛孔明が出兵に際し、神筆をふるって書いた出師の表は、ただただどこから見ても群を抜いた出来栄えのいいものだった。しかし、折角の名文も書いた孔明の死後、それを守らず、ついに魏の軍門に下った、玉輦ではないただの駅馬車で洛陽へ送られたのである。
管楽有才終不忝、関張無命欲何如。
孔明は春秋戦国時代の賢相良将である管仲と楽毅の才腕をそなえていて、永遠にその名をはずかしめないものであった。孔明のもとで動かせ、力を合わせるたらよかったのは、かの名将軍、関羽や張飛であるが、いかんせん、関羽は敵に、張飛は部下に殺されていた。
他年錦里經祠廟、梁甫吟成恨有餘。

いつになるかわからないが、成都、錦里の地には、劉備の廟、諸葛亮の廟を経る。そこで好んで誦したという梁甫の梁父吟を私も吟じたなら、尽きせぬ無念さは有り余っているだろう。



ここに来るとほり池の魚や垣柵にとまる鳥さえ、まだ孔明の軍規律を恐れているように見える。風雲はながくとおりすぎたが、今なお昔の木柵と竹槍で作る陣地の守備垣を護ろうとしているかのようだ。
上将である諸葛孔明が出兵に際し、神筆をふるって書いた出師の表は、ただただどこから見ても群を抜いた出来栄えのいいものだった。しかし、折角の名文も書いた孔明の死後、それを守らず、ついに魏の軍門に下った、玉輦ではないただの駅馬車で洛陽へ送られたのである。
孔明は春秋戦国時代の賢相良将である管仲と楽毅の才腕をそなえていて、永遠にその名をはずかしめないものであった。孔明のもとで動かせ、力を合わせるたらよかったのは、かの名将軍、関羽や張飛であるが、いかんせん、関羽は敵に、張飛は部下に殺されていた。
いつになるかわからないが、成都、錦里の地には、劉備の廟、諸葛亮の廟を経る。そこで好んで誦したという梁甫の梁父吟を私も吟じたなら、尽きせぬ無念さは有り余っているだろう。



籌筆駅
魚鳥 猶お疑う 簡書を畏るるかと、風雲 長く為に儲胥(ちょしょ)を護る。
徒らに上将をして神筆を揮わ令め、終に降王の伝車を走らすを見る。
管 楽 才有りて 終に忝(はず)かしめず、関 張 命無し 何如せんと欲す。
他年 錦里に祠廟(しびょう)を経ば、梁甫吟成って 恨余有らん。



籌筆駅
籌筆駅 四川省広元県北方にある地名。三世紀、三国鼎立時代、蜀の宰相諸葛亮(181-234)字名孔明が討魏の軍を率いて出陣する時、常にこの地に駐屯して作戦をねったと伝えられる。詩は文武兼備の才あれど天の利なかった諸葛亮の事蹟を哀傷する。「三体詩」にもとられている。なお、李商隠が杜甫の影響を強く
受けていることは、既に宋代から指摘されているがはたしてそうなのか。




魚鳥猶疑畏簡書、風雲長爲護儲胥。
ここに来るとほり池の魚や垣柵にとまる鳥さえ、まだ孔明の軍規律を恐れているように見える。風雲はながくとおりすぎたが、今なお昔の木柵と竹槍で作る陣地の守備垣を護ろうとしているかのようだ。
畏簡書 簡書は軍中のおきてのかきつけ。「詩経」小雅出車に「豈、帰るを懐わざらんや、此の簡書を畏れる。」とみえる。軍の規律の厳しいことをいう。○儲胥 木柵と竹槍で作る陣地の守備がき。漢の揚雄(紀元前54-紀元18年)の長楊の賦に「木もて擁し槍もて塁す、以て儲胥と為す。」とある。




徒令上将揮神筆、終見降王走傳車。
上将である諸葛孔明が出兵に際し、神筆をふるって書いた出師の表は、ただただどこから見ても群を抜いた出来栄えのいいものだった。しかし、折角の名文も書いた孔明の死後、それを守らず、ついに魏の軍門に下った、玉輦ではないただの駅馬車で洛陽へ送られたのである。
上将 総司令官。諸葛亮を指す。○揮神筆 はなはだ秀れた文字、あるいは文章を書くということ。ここは彼が建興五年(227年)の出兵に際してたてまつった上奏文「出師の表」を指す。それは、三国時代の代表的な名上奏文として有名で、梁の昭明太子の「文選」にも採られている。○降王走傳車 降王は降伏した亡国の王、蜀の後主劉禅(207―271年)をさす。詣葛亮の在世中はその輔佐によって帝位を保ったが、亮の死(234年)後、景耀六年(263年)魏の将軍鄧艾(197-264年)の軍門に降った。伝車とは、駅伝の馬車のこと。劉禅は降伏後、そうした馬車で洛陽へおくられた。


管楽有才終不忝、関張無命欲何如。
孔明は春秋戦国時代の賢相良将である管仲と楽毅の才腕をそなえていて、永遠にその名をはずかしめないものであった。孔明のもとで動かせ、力を合わせるたらよかったのは、かの名将軍、関羽や張飛であるが、いかんせん、関羽は敵に、張飛は部下に殺されていた。
管楽 管は春秋時代の斉国の賢相、管仲あざな夷考。楽は戦国時代の燕国の卿の楽毅のこと。管仲は桓公をたすけて覇業をなした。管仲は内政改革し、物価安定策、斉の地理を利用した塩・漁業による利益などによって農民・漁民層の生活を安定させた。楽毅は軍略にすれ、斉と戦って七十余城をくだした。晋の陳寿の「三国志一諸葛売伝によると、彼は若い頃、自分の才能を管仲や楽毅に比較して誇っていたという。○関張 局の名将軍関羽と張飛のこと。関羽は建安二十四年(二一九年)に死し、張飛は先主劉備の章武元年(二二一年)に死んだ。二人とも諸葛亮が活躍する以前に他界していた。


他年錦里經祠廟、梁甫吟成恨有餘。
いつになるかわからないが、成都、錦里の地には、劉備の廟、諸葛亮の廟を経る。そこで好んで誦したという梁甫の梁父吟を私も吟じたなら、尽きせぬ無念さは有り余っているだろう。
(その歌をうたいおわった時にも、なおその痛切なおもいはその歌をこえて溢れるであろう。)
他年 今年以外は、過去未来に拘らず他年である。いつになるかわからないが。○錦里 蜀の都、錦城とよばれ、四川省成都の地名。○祠廟 やしろ。覇王劉備の廟は錦里にあり、その西に諸葛亮の廟もあった。晋の常壌「華陽国志」その他の地志にのせる。○染甫 梁甫は泰山の傍にある山名である。○吟成 梁甫吟は山東地方の民謡。諸葛亮ははじめ、河南省南陽の都県に住んでいた。父の玄の死後、亮はみずから隴畝に耕し、好んで梁父吟を作ったと「三国志」の伝にある。既成のメロディに合わせて歌詞を作ったのである。「王者徳有りて功成らば、則ち東に泰山に封ず。泰山は以て時の君に喩え、梁父は以て小人に喩う。」とあるから、諸葛亮が梁父吟を作ったのだろうという。
晋の伏深の「三斉略記」ある梁父吟
「歩して斉の東門を出で、造かに蕩陰の里を望む。里中に三つの墳有り、塁々として正に相い似たり。借問す、誰が家の塚ぞ、田強・古冶子なり。力は能く南山を耕やし、文は能く地紀を絶す。一朝に讒言を被り、二桃にて三士を殺す。誰か能く此の謀を為すや、国相たる斉の妟子。」


 


杜甫における諸葛亮四首

 蜀相      (成都)
丞相祠堂何處尋,錦官城外柏森森。
映堦碧草自春色,隔葉黄鸝空好音。
三顧頻煩天下計,兩朝開濟老臣心。
出師未捷身先死,長使英雄涙滿襟。

蜀相
丞相の 祠堂  何處にか 尋ねん,
錦官城外  柏 森森たり。
堦に 映ずる 碧草は  自ら 春色にして,
葉を 隔つる 黄  空しく 好音。
三顧 頻煩なり  天下の 計,
兩朝 開濟す  老臣の 心。
出師 未(いま)だ 捷(か)たざるに身先(ま)づ 死し,
長(とこし)へに 英雄をして  涙 襟に 滿たしむ。


② 武侯廟(菱州)
遺廟丹青落,空山草木長。
猶聞辭後主,不復臥南陽。

(武侯の廟)
遺廟丹青落ち 空山草木長し
猶お聞くがごとし後主を辞するを 復た南陽に臥せず


③ 諸葛廟(菱州)
久游巴子國,屢入武侯祠。竹日斜虛寢,溪風滿薄帷。
君臣當共濟,賢聖亦同時。翊戴歸先主,併吞更出師。
蟲蛇穿畫壁,巫覡醉蛛絲。欻憶吟梁父,躬耕也未遲。

(諸葛廟)
久しく遊ぶ巴子の国 屡々入る武侯の祠
竹目虚寝に斜めに 渓風薄唯に満つ
君臣共済に当たる 賢聖亦た時を同じくす
切戴先主に帰す 并呑更に師を出す
虫蛇画壁を穿つ 巫碗蛛糸に綴〔酔〕う
放ち憶う梁父を吟ぜしを 窮耕するも也た未だ遅からず


④ 詠懷古跡 五首其五 諸葛廟 杜甫(菱州)
諸葛大名垂宇宙,宗臣遺像肅清高。
三分割據紆籌策,萬古雲霄一羽毛。
伯仲之間見伊呂,指揮若定失蕭曹。
福移漢祚難恢復,志決身殲軍務勞。

諸葛が大名宇宙に垂る、宗臣の遺像粛として清高
三分割拠筆策を紆らす、万古雲背の一羽毛
伯仲の間に伊呂を見る、指揮若し定まらば蒲曹を失せん
運移りて漢詐終に復し難く、志 決するも身は繊く軍務の労に
この第五首は諸葛廟について孔明の事に感じてよんだものである。

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