漫成三首 其一 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集-80


其一
不妨何范盡詩家、未解昔年垂物華。
何遜と范雲の二人ともに立派な詩人であるのは間違いない。わからないのはなぜ当時誰も書かなかった、二人が自然描写について、精巧であるとともに、豊かな抒情性をたたえことができたのか。
遠把龍山千里雪、将来擬述洛陽花。

遥か千里も隔たった龍山に降り積もった雪をわざわざもってきて、まさに都洛陽の花と並べているかの表現の詩を書いているのだ。





其一
不妨何范盡詩家、未解昔年垂物華。
遠把龍山千里雪、将来擬述洛陽花。

漫成三首 其の一

何范 尽く詩家たるを妨げざるも

末だ解せず 当年 物華を重んずるを

遠く龍山千里の雪を把り

将ち来たりて洛陽の花に並べんと擬す



漫成三首
漫成 ふとできあがった詩の意。杜甫に五律の「漫成二首」、七絶の「漫成一首」末尾参照。があるのが「漫成」と題する詩の最も早いもの。杜甫に始まり、李商隠がそれを受け継いだ例の一つ。李商隠にはこの三首のほか、七言絶句の「漫成五章」がある。そのなかの二章もこの連作三首と同じく過去の詩を論評している。

漫成三首
不妨何泊盡詩家、未解昔年垂物華。

何遜と范雲の二人ともに立派な詩人であるのは間違いない。わからないのはなぜ当時誰も書かなかった、二人が自然描写について、精巧であるとともに、豊かな抒情性をたたえことができたのか。
何范 梁の詩人、(何遜か そん、467年? - 518年?)は中国南北朝時代の文学者。何遜が秀才に挙げられた時の答案を見て苑雲が称賛したと伝えられるように、范雲が年長であるが、二人は「忘年の交好(年齢の差を気に掛けない交友)を結ぶ」(『梁書』何逓伝)間柄であった。後世の詩名は何遜の方が高く、景物の描写にすぐれた詩人として知られる。○尽 どれもこれもみな、すべてと異なり、文語の「皆」、現代語の「都」と同様、二人、二つに対しても用いる。○物華 景物の美。自然描写は、精巧であるとともに、豊かな抒情性をたたえており



遠把龍山千里雪、将来擬述洛陽花。
遥か千里も隔たった龍山に降り積もった雪をわざわざもってきて、まさに都洛陽の花と並べているかの表現の詩を書いているのだ。
遠把二句 龍山は『楚辞』「大招」に見える遭龍という山。北方の寒冷の地にあるとされる。二句は苑雲と何遜の聯句にもとづく。「苑広州(范雲)の宅にての聯句」 の薄雲の手になる四句に「洛陽城の東西、却って作す 経年の別れ。昔去りしとき雪 花の如きも、今来たれは雪 花に似たり」。すなわち雪の舞う時期に別れ、花の舞う時期に再会したことを、花と雪の比喩を入れ替えて表現している。そこでは龍山の雪とは言っていないが、南朝宋・飽照「劉公幹体に学ぶ」詩(『文選』巻三一)に「胡風 朔雪を吹き、千里 龍山を度る」とあるのを併せて用いる。范雲・何遜のこの聯句、李商隠は「王十三校書分司を送る」詩、「韓冬郎 即席に詩を為り相い送る」詩二首の二にも用いているごとくお気に入りの句だったようで、ここでも理解できないと言いながら、実際は称賛している。


七言絶句。
○韻 家・華・花。


上元2年 761年 50歳 成都草堂
漫成二首
其 一 
野日荒荒白,春流泯泯清。渚蒲隨地有,村徑逐門成。
只作披衣慣,常從漉酒生。眼邊無俗物,多病也身輕。

(野の日びは 荒荒として白し,春の流れ泯泯としれ清。
渚蒲 地有に 隨い,村徑 門成を逐う。
只 衣慣 披いて作す,常從り漉酒を生ず。
眼邊 俗物 無く,多病 身輕に也。)
其 二 
江皋已仲春,花下複清晨。仰面貪看鳥,回頭錯應人。
讀書難字過,對酒滿壺頻。近識峨眉老,知予懶是真。

(江皐己に仲春 花下復精兵なり
仰面鳥を看るを余り 回頭錯って人に応ず
書を読むに難字過ごす 酒に対して満壷頻りなり
近ごろ識る峨帽の老 余が憮是れ兵なるを知る)

広徳2年 765年 54歳 夔州寓居
杜甫「漫 成」
江月去人只数尺、風灯照夜欲三更。
沙頭宿鷺聯拳静、船尾跳魚撥剌鳴。
(江月(こうげつ)  人を去ること只(た)だ数尺
風灯  夜を照らして三更(さんこう)ならんと欲す
沙頭の宿鷺(しゅくろ)は聯拳(れんけん)として静かに
船尾(せんび)の跳魚(ちょうぎょ)は撥剌として鳴る)
(江上にうつる月は  数尺の近くにあり
風に揺れる灯火は  闇を照らして真夜中に近い
砂浜でねむる鷺は  拳(こぶし)を並べたように動かず
船尾で魚が  元気に跳ねる音がした)
*音律的に非常に整った杜甫の作品の中でも、細やかな描写が重なり、芸術性の高いものとなっている。

范雲 (はんうん451 – 503年) 南朝の梁を代表する文人。字は彦龍。451年(元嘉8年)、南郷舞陽(現在の河南省沁陽)で生まれる。斉及び梁に仕え、竟陵王蕭子良八友のひとりに数えられ、蕭衍を沈約と共に助けた。永明10年(492年)、蕭琛と共に北魏に派遣された際には孝文帝の称賞を受けている。梁では尚書左僕射(502年からは尚書右僕射)に任じられ、その清麗な風格の詩風は当時から高い評価を受けた。503年(天監2年)没。



何遜 (か そん、467? - 518年?)は中国南北朝時代の文学者。東海郯の人。字は仲言。曾祖父は何承天。幼少より文才に優れ、8歳で詩を作り、20歳の時、州から秀才に選ばれた。南斉の永明年間に、当時の文壇の重鎮であった范雲に文才を認められ、年齢を超えた交際を結ぶ。現存する詩は110首あまり。生涯の大半を地方の幕僚として勤めたことから、友人や同僚たちとの間の応酬・離別の詩や行旅を主題とする詩が多くを占める。その詩風は、寒門の出身者であるが故の、官途の不遇から発せられた心情表現がしばしば見られることが特徴である。その一方で、詩中における自然描写は、精巧であるとともに、豊かな抒情性をたたえており、謝朓とならび、唐詩の先駆とみなされている。


何遜と范雲の二人ともに立派な詩人であるのは間違いない。わからないのはなぜ当時誰も書かなかった、二人が自然描写について、精巧であるとともに、豊かな抒情性をたたえことができたのか。
遥か千里も隔たった龍山に降り積もった雪をわざわざもってきて、まさに都洛陽の花と並べているかの表現の詩を書いているのだ。