漫成三首 其三 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集-82





其 三
霧夕詠芙蕖、何郎得意初。
夕霧のなかに開くハスの花を詠じた詩何遜「看伏郎新婚詩」がある、これぞ何遜公が詩名を得たきっかけになったものだ。
此時誰最賞、沈范兩尚書。

この詩が世に認められる時というのは、誰が最も称賛したかといえば、それは沈約と苑雲、時の文人で高級官僚の二人の尚書であった。


詩と解説
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(本文)其 三
霧夕詠芙蕖、何郎得意初。
此時誰最賞、沈范兩尚書。


(下し文)其の三

霧夕 芙を詠ず、何郎 得意の初め。

此の時 誰か最も賞する、沈苑の両尚書。



(現代訳)
夕霧のなかに開くハスの花を詠じた詩何遜「看伏郎新婚詩」がある、これぞ何遜公が詩名を得たきっかけになったものだ。
この詩が世に認められる時というのは、誰が最も称賛したかといえば、それは沈約と苑雲、時の文人で高級官僚の二人の尚書であった。




其三 訳註と解説
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霧夕詠芙蕖、何郎得意初。
夕霧のなかに開くハスの花を詠じた詩何遜「看伏郎新婚詩」がある、これぞ何遜公が詩名を得たきっかけになったものだ。
霧夕詠芙蕖 「芙蕖」は蓮の花の別名。『爾雅』釈草に「荷は芙蕖」。一句は何遜「看伏郎新婚詩」
霧夕蓮出水,霞朝日照梁。
何如花燭夜,輕扇掩紅妝。
良人復灼灼,席上自生光。
所悲高駕動,環佩出長廊。
「伏郎の新婚を看る」詩の前半四句に「霧の夕べに蓮は水を出で、霞の朝に日は梁を照らす。何如ぞ光燭の夜、軽扇 紅柾を掩う」と花嫁の美しさを朝日の光と蓮にたとえた句を用いる。
何遜に先行して魏・曹植「洛神の賦」(『文選』巻一九)が「遠くより之を望めば、鮫として太陽の朝霞より升るが若く、迫りて之を祭れば、灼として芙妾の操(緑)波を出ずるが若し」と女神の美しきを朝日と蓮の花にたとえている。この詩を少し詳しく末尾に掲載した。参照。○何郎 何遜を指す。「郎」は男子の美称として姓のあとにつける接尾語。



此時誰最賞、沈范兩尚書。
この詩が世に認められる時というのは、誰が最も称賛したかといえば、それは沈約と苑雲、時の文人で高級官僚の二人の尚書であった
沈范兩尚書 沈約と范雲。沈約は尚書令、薄雲は尚書右僕射の官にあったので「両尚書」という。



○詩型 五言絶句。
・韻  蕖、初、書。


絶句の形式を用いて何遜を中心とした梁の詩人を論評した、いわゆる論詩絶句。杜甫に始まる文学批評の新しいスタイルであるが、李商隠のこの連作はそれに連なる早い例。詩的表現の洗練を競った南朝の文学を対象としている。絶句という軽い詩型のためもあって、正面から詩を論ずるものではなく作った感がある。思いつくままに、時にいくらか斜に構えて語



何遜(かそん?~518)中国南北朝時代の文学者。東海郯の人。字は仲言。曾祖父は何承天。幼少より文才に優れ、8歳で詩を作り、20歳の時、州から秀才に選ばれた。南斉の永明年間に、当時の文壇の重鎮であった范雲に文才を認められ、年齢を超えた交際を結ぶ。現存する詩は110首あまり。生涯の大半を地方の幕僚として勤めたことから、友人や同僚たちとの間の応酬・離別の詩や行旅を主題とする詩が多くを占める。その詩風は、寒門の出身者であるが故の、官途の不遇から発せられた心情表現がしばしば見られることが特徴である。その一方で、詩中における自然描写は、精巧であるとともに、豊かな抒情性をたたえており、謝朓とならび、唐詩の先駆とみなされている。

沈約(しんやく441年 - 513年) 南朝を代表する文学者、政治家。呉興武康(現在の浙江省武康県)の人。字は休文。沈氏は元来軍事で頭角を現した江南の豪族であるが、沈約自身は幼いときに父を孝武帝に殺されたこともあり、学問に精励し学識を蓄え、宋・斉・梁の3朝に仕えた。南斉の竟陵王蕭子良の招きに応じ、その文学サロンで重きをなし、「竟陵八友」の一人に数えられた。その後蕭衍(後の梁の武帝)の挙兵に協力し、梁が建てられると尚書令に任ぜられ、建昌県侯に封ぜられた。晩年は武帝の不興をこうむり、憂愁のうちに死去したという。その彼が若い「何遜」に対して、「吾れ卿の詩を読む毎に一日に三復するも猶お己む能わず」と絶賛したという(『梁書』何遜伝)。「憐」は対象に対して深く心を惹かれること。気の毒に思うの意味はその一部に過ぎない。 


范雲 (はんうん451 – 503年) 南朝の梁を代表する文人。字は彦龍。451年(元嘉8年)、南郷舞陽(現在の河南省沁陽)で生まれる。斉及び梁に仕え、竟陵王蕭子良八友のひとりに数えられ、蕭衍を沈約と共に助けた。永明10年(492年)、蕭琛と共に北魏に派遣された際には孝文帝の称賞を受けている。梁では尚書左僕射(502年からは尚書右僕射)に任じられ、その清麗な風格の詩風は当時から高い評価を受けた。503年(天監2年)没。




*******参考*******

『洛神の賦』 曹植

この作品の制作動機については、古来有名な説がある。『文選』李善注が引く『感甄記』によると、この洛水の女神のモデルは兄曹丕の妻甄氏であるという。 甄氏(182~221)は、曹操と対立していた袁紹の次男袁熙の妻だった。しかし、袁氏の本拠地鄴を落とした時、曹丕が自分の妻にした。この時、曹植も彼女を妻にと望んだが、結局叶えられなかった。 時は流れて、甄氏は曹丕の寵愛が衰えたため、不幸にも死を賜わった。 甄氏の死後、曹植が洛陽に参内したところ、文帝は、甄氏の枕を取り出し、それを弟に与え、曹植はそれを見て涙を流した。その帰途、曹植が洛水にさしかかった時、甄氏の幻影が現われ、彼女も本当は曹植を愛していたと伝えた。甄氏の姿が消えた後、曹植は感極まって、この賦を作ったという。よって、この賦のタイトルは、最初『感甄賦』だったが、明帝(曹丕と甄氏の息子)の目に触れるところとなり『洛神賦』に改められた


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其形也、翩若驚鴻、婉若遊寵、榮曜秋菊、華茂春松。』

髣髴兮若輕雲之蔽月、飄颻兮若流風之迴雪、遠而望之、皎若太陽升朝霞、迫而察之、灼若芙蓉出淥波。』

襛繊得衷、脩短合度。
肩若削成、腰如約素、廷頸秀項、皓質呈露。芳澤無加、鉛筆弗御、雲髻峩峩、脩眉聯娟。
丹脣外朗、皓齒内鮮、明眸善睞、靨輔承權。瓌姿豔逸、儀靜體閑。柔情綽態、媚於語言。
奇服曠世、骨像應圖。』

披羅衣之璀粲兮、珥瑤碧之華琚、戴金翠之首飾、綴明珠以耀躯。踐遠遊之文履、曳霧綃之輕裾、微幽蘭之芳藹兮、歩踟蹰於山隅。 』

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其の形や、翩たること驚鴻の若く、婉たること遊寵の若し、秋菊より栄曜き、春松より華やかに茂る。』

髣髴たること軽雲の月を蔽うが若く、飄颻たること流風の雪を迴らすが若し、遠くして之を望めば、皎 太陽の朝霞より升るが若し、迫りて之を察れば、灼として芙蓉の淥波より出づるが若し。』

襛繊 衷ばを得、脩短 度に合す。肩は削り成せるが若く、腰は素を如約ねたるが如し、廷びたる頸 秀でたる項、皓き質 呈露す。芳澤 加うる無く、鉛筆 御せず、雲髻 峩峩として、脩眉 聯娟たり。丹脣 外に朗り、皓齒 内に鮮やか、明眸 善く睞し、靨輔 権に承く。瓌姿は豔逸にして、儀は静かに体は閑なり。柔情 綽態、語言に媚あり。奇服 曠世にして、骨像 図に応ず。』

羅衣の璀粲たるを披り、瑤碧の華琚を珥にし、金翠の首飾りを戴き、明珠を綴りて以て躯を耀かす。遠遊の文履を踐み、霧綃の軽裾を曳き、幽蘭の芳藹たるに微れ、歩みて山隅に踟蹰す。』  



その姿かたちは、不意に飛びたつこうのとりのように軽やかで、天翔る竜のようにたおやか。秋の菊よりも明るく輝き、春の松よりも豊かに華やぐ。』

うす雲が月にかかるようにおぼろで、風に舞い上げられた雪のように変幻自在。遠くから眺めれば、その白く耀く様は、太陽が朝もやの間から昇って来たかと思うし、近付いて見れば、赤く映える蓮の花が緑の波間から現われるようにも見える。』

肉付きは太からず細からず、背は高からず低からず、肩は巧みに削りとられ、白絹を束ねたような腰つき、長くほっそり伸びたうなじ、その真白な肌は目映いばかり。香ぐわしいあぶらもつけず、おしろいも塗っていない。豊かな髷はうず高く、長い眉は細く弧を描く。朱い唇は外に輝き、白い歯は内に鮮やか。明るい瞳はなまめかしく揺らめき、笑くぽが頬にくっきり浮かぶ。たぐい稀な艶やかさ、立居振舞いのもの静かでしなやかなことこの上ない。なごやかな風情、しっとりした物腰、言葉づかいは愛らしい。この世のものとは思われない珍しい衣服をまとい、その姿は絵の中から抜け出してきたかのよう。』

きらきらひかる薄絹を身にまとい、美しく彫刻きれた宝玉の耳飾りをつけ、頭上には黄金や翡翠の髪飾り、体には真珠を連ねた飾りがまばゆい光を放つ。足には「遠遊」の刺繍のある履物をはき、透き通る絹のもすそを引きつつ、幽玄な香りを放つ蘭の辺りに見え隠れし、ゆるやかに山の一隅を歩んでいく。

さて、甄(けん)氏は曹丕との間に、息子の曹叡(そうえい)を産んでいる。曹植がひそかに甄氏を恋していたことは、曹叡にも気づかれていたと思う。なぜなら曹植が作った「感甄(けん)賦」を、後に名を「洛神賦」と改めたのは、曹叡自身であったからだ。曹叡は、母が殺されたことを片時も忘れることはなかった。