獨居有懐 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 100
五言排律


獨居有懐
麝重愁風逼、羅踈畏月侵。
濃密に麝香の香り漂う部屋にいる私は風評や圧迫に愁いに沈んでいるのだ、月の光が明るくて透き通ったとばりからはいってくるので心は落ち着かない。
怨魂迷恐斷、嬌喘細疑沈。
怨みに思う魂は迷い、おそれ、ちぎれそうだし、妓女の喘ぐ声をため息のように沈んだ声に消しているのだ。
數急芙蓉帯、頻抽翡翠簪。
妓女のところに何度も来て、芙蓉の帯を何度も締め直し、乱れ髪から抜け落ちる劣翠のかんざしを度々挿し直したのだ。
柔情終不遠、遙妒己先深。
あの情を交わす柔らかな心根はいつまでも薄れはしない、もう遙かなむかしのことにした妬む気持ちもすでにその先から深い所においてしまった。
浦冷鴛鴦去、園空蛺蝶尋。
寒々とした入り江の水辺にいた番いの鴛鴦はいなくなった、ひっそりしたなにもない小園に一羽の蝶がやってきた。
蝋花長遞涙、筝桂鎮移心。
蝋燭の頭が花になるほどの時が過ぎ、涙は途切れずながれている、こと糸を動かすように胸の思いはいつも定まらない。
覓使嵩雲暮、廻頭㶚岸陰。
手紙を届けてくれる青い鳥はいないかと捜そうにも、ここ嵩山は雲に覆われて日暮れ、㶚陵まで来て振り返っても、㶚陵橋の岸辺の楊は雲の影で暗くなっている。
只聞涼葉院、露井近寒砧。

ただ耳に聞こえるのは秋の木の葉音のする庭園のさびしさがつのり、屋根のない井戸端のあたりから冬着の支度を急ぐ砧の音が響きわたる。



独居 懐う有り
麝は重くして風逼(ふうひつ)を愁う、蘿は踈にして月侵すを畏る。
怨魂 迷いて断たれんかと恐れ、嬌喘 細くして沈まんかと疑う。
数しば急うす 芙蓉の帯、頻りに抽く 翡翠の簪。
柔情 終に遠からず、遥妒(ようと) 己に先んじて探し。
浦は冷やかにして鴛鴦去り、園は空しくして蛺蝶尋ぬ。
蝋花 長えに涙を逓し、筝柱 鎮に心を移す。
使いを覓むるも嵩雲暮れ、頭を廻らすも㶚岸陰る。
只だ聞く 涼葉の院、露井 寒砧近きを。


獨居有懐  現代語訳と訳註、解説

(本文)
麝重愁風逼、羅踈畏月侵。
怨魂迷恐斷、嬌喘細疑沈。
數急芙蓉帯、頻抽翡翠簪。
柔情終不遠、遙妒己先深。
浦冷鴛鴦去、園空蛺蝶尋。
蝋花長遞涙、筝桂鎮移心。
覓使嵩雲暮、廻頭㶚岸陰。
只聞涼葉院、露井近寒砧。


(下し文)
麝は重くして風の逼るを愁い、蘿は踈にして月の侵すを畏る。
怨魂 迷いて断たれんかと恐れ、嬌喘 細くして沈まんかと疑う。
数しば急うす 芙蓉の帯、頻りに抽く 翡翠の簪。
柔情 終に遠からず、遥妒(ようと) 己に先んじて探し。
浦は冷やかにして鴛鴦去り、園は空しくして蛺蝶尋ぬ。
蝋花 長えに涙を逓し、筝柱 鎮に心を移す。
使いを覓むるも嵩雲暮れ、頭を廻らすも㶚岸陰る。
只だ聞く 涼葉の院、露井 寒砧近きを。


(現代訳文)
濃密に麝香の香り漂う部屋にいる私は風評や圧迫に愁いに沈んでいるのだ、月の光が明るくて透き通ったとばりからはいってくるので心は落ち着かない。
怨みに思う魂は迷い、おそれ、ちぎれそうだし、妓女の喘ぐ声をため息のように沈んだ声に消しているのだ。
妓女のところに何度も来て、芙蓉の帯を何度も締め直し、乱れ髪から抜け落ちる劣翠のかんざしを度々挿し直したのだ。
あの情を交わす柔らかな心根はいつまでも薄れはしない、もう遙かなむかしのことにした妬む気持ちもすでにその先から深い所においてしまった。
寒々とした入り江の水辺にいた番いの鴛鴦はいなくなった、ひっそりしたなにもない小園に一羽の蝶がやってきた。
蝋燭の頭が花になるほどの時が過ぎ、涙は途切れずながれている、こと糸を動かすように胸の思いはいつも定まらない。
手紙を届けてくれる青い鳥はいないかと捜そうにも、ここ嵩山は雲に覆われて日暮れ、㶚陵まで来て振り返っても、㶚陵橋の岸辺の楊は雲の影で暗くなっている。
ただ耳に聞こえるのは秋の木の葉音のする庭園のさびしさがつのり、屋根のない井戸端のあたりから冬着の支度を急ぐ砧の音が響きわたる。


(訳註)
麝重愁風逼、羅踈畏月侵。

濃密に麝香の香り漂う部屋にいる私は風評や圧迫に愁いに沈んでいるのだ、月の光が明るくて透き通ったとばりからはいってくるので心は落ち着かない。
○麝重 麝香の香りが重く濃密に漂う。○愁風逼 ○羅疎 「羅」はうすぎぬ。目の粗い。薄絹を通り越す。○畏月侵 月の光がはいってくるので心は落ち着かない。


怨魂迷恐斷、嬌喘細疑沈。
怨みに思う魂は迷い、おそれ、ちぎれそうだし、妓女の喘ぐ声をため息のように沈んだ声に消しているのだ。
怨魂 怨魂は恋人を怨みがましく思う魂。魂が「断」たれるとは、茫然自失の状態になること。○迷恐斷 おそれ、ちぎれ、迷うのだ。○嬌喘 たおやかなあえぎ声。○細疑沈 ため息のように沈んだ声に消しているのだ。


數急芙蓉帯、頻抽翡翠簪。
妓女のところに何度も来て、芙蓉の帯を何度も締め直し、乱れ髪から抜け落ちる劣翠のかんざしを度々挿し直したのだ。
数急 急はきついこと。ここでは帯をきつく締めることをいう。何度もきゅっと締めなおす。○芙蓉帯 芙蓉、すなわちハスの花を模様に描いた帯。○頻抽 抽」は抜く。思い悩んで髪が乱れるために何度もかんざしを抜き取って髪を整える。○翡翠簪 翡翠の羽を飾ったかんざし。


柔情終不遠、遙妒己先深。
あの情を交わす柔らかな心根はいつまでも薄れはしない、もう遙かなむかしのことにした妬む気持ちもすでにその先から深い所においてしまった。
柔情 慕う気持ち。○終不達 いつまでも薄れはしない。○遥妬 もう遙かなむかしのことに妬む。


浦冷鴛鴦去、園空蛺蝶尋。
寒々とした入り江の水辺にいた番いの鴛鴦はいなくなった、ひっそりしたなにもない小園に一羽の蝶がやってきた。
鴛鴦 オシドリ。仲むつまじい男女の象徴。○蛺蝶 アゲハチョウ。ここでは一羽。飾り立てた妓女の象徴。
(地の果て、寂しいところにいることを想像させる。)


蝋花長遞涙、筝桂鎮移心。
蝋燭の頭が花になるほどの時が過ぎ、涙は途切れずながれている、こと糸を動かすように胸の思いはいつも定まらない。
蝋花 蝋燭の灯心の先。丁子頭。○長逓涙 逓は次々と送る。○琴柱 筝は十三舷のこと。柱はこと糸。李商隠1錦瑟。李白「前有樽酒行 其二」参照○ つねに。○移心 こと糸を動かすことに掛けて、心が定まらないことをいう。


覓使嵩雲暮、廻頭㶚岸陰。
手紙を届けてくれる青い鳥はいないかと捜そうにも、ここ嵩山は雲に覆われて日暮れ、㶚陵まで来て振り返っても、㶚陵橋の岸辺の楊は雲の影で暗くなっている。
覓使嵩雲暮 恋の使いをする青鳥は李商隠無題(相見時難別亦難) 杜甫「麗人行」にみえる。嵩山も道教の本山のあるところであり、仙界を印象付ける。
廻頭㶚岸陰 㶚水は長安東郊を流れる川。またその付近の㶚陵を指す。七哀詩三首に「南の方㶚陵に登り、首をめぐらして長安を望む」とある。王粲は長安を去って㶚水を上流に登り、峠を越えて、漢水にのり、荊州(湖北省江陵県)の劉表のもとに赴くのである。こちらの古道は南の道。李白の雑言古詩李白139灞陵行送別にイメージを借りている。


只聞涼葉院、露井近寒砧。
ただ耳に聞こえるのは秋の木の葉音のする庭園のさびしさがつのり、屋根のない井戸端のあたりから冬着の支度を急ぐ砧の音が響きわたる。
涼葉院 秋の木の葉音のする庭園のさびしさがつのる。○寒砧 冬の衣を打つきぬた。ここではきぬたの音。織りあがった布を和らげるために石の台の上に載せ叩くこと、冬着の支度を急ぐ砧の音は晩秋の夜のものさびしい風物として、また、女の夫を思う気持ちを表現するのにうたわれる。


○詩型 五言排律。
○押韻 侵・沈・啓・深・尋・心・陰・砧。平水韻、


出世ラインを外れた文人は女の思い、寡居の女になりかわってその胸中をうたう。長安のあたりであったり、洛陽の地であったり、さびしい心情は女が慕い続け、その揺れ動く心は同じなのだ。
 李商隠は自分のことを妓女に置き換えて表現しなければならなかったのだ。したがって、捨てられた女、出征兵士の女、表現は細やかなものになるほどあわれをさそうのである。