漫成五章 其一 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 104


其一
沈宋裁詞矜變律、王楊落筆得良朋。
初唐の詩人、沈佺期、宋之問は言葉を操っては、律詩を一変させたと自慢ばかりしていた。同時期の王勃、楊炯は詩を作る以外によき仲間をもっていた。
當時自謂宗師妙、今日唯観封屈能。
その当時は文壇の宗匠だと自分から言うだけでうぬぼれというものだ、今日の詩のレベルからすると、ただ対句の才能を出しただけのものでしかない。


漫成五章  其の一

沈宋 詞を裁して変律を矜る、王楊 筆を落として良朋を得たり。

当時 自ら宗師のの妙と謂うも、今日 唯だ、対属の能として観る



漫成五章 現代語訳と訳註 解説
(本文) 其一

沈宋裁詞矜變律、王楊落筆得良朋。
當時自謂宗師妙、今日唯観封屈能。

(下し文) 其の一
沈宋 詞を裁して変律を矜る、王楊 筆を落として良朋を得たり。
当時 自ら宗師のの妙と謂うも、今日 唯だ、対属の能として観るのみ

(現代語訳) 漫成五章  其の一
初唐の詩人、沈佺期、宋之問は言葉を操っては、律詩を一変させたと自慢ばかりしていた。同時期の王勃、楊炯は詩を作る以外によき仲間をもっていた。
その当時は文壇の宗匠だと自分から言うだけでうぬぼれというものだ、今日の詩のレベルからすると、ただ対句の才能を出しただけのものでしかない。

(訳註)

○漫成五章 
ふとできあがった詩の五章。

漫成三首 其一 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集-8082

「五章」というのは、『詩経』の詩が複数の「章」から成るのをまねて、五章を連ねて一后の詩としたもの。
杜甫に曲江三章 章五句 杜甫特集 52  がある。


沈宋裁詞矜變律、王楊落筆得良朋。
初唐の詩人、沈佺期、宋之問は言葉を操っては、律詩を一変させたと自慢ばかりしていた。同時期の王勃、楊炯は詩を作る以外によき仲間をもっていた。
沈宋 初唐後期武則天に律詩の評価を受けた宮廷詩壇を代表する詩人、沈任期と宋之間。文学史上では律詩(近体詩)の形式を完成に近づけたとされる。○裁詞 布を裁断するように言葉を裁ち切って詩を作る。「詞」は「辞」 に同じ。言葉を操る。うそを言うので有名でもあった。○変律 新しいスタイルの律詩。○王楊 王勃と楊炯のこと。盧照鄰、駱賓王とあわせて初唐四傑、と称され、宮廷文壇の外にあって、南朝風の給靡な文学から脱皮して雄渾な唐代の文学を切り開いた。ここでは沈宋とともに対句の技巧に長けていたにすぎないと否定的にとらえる。○落筆 筆をくだす。○得良朋 王勃、楊けいが慮照郷、騒賓王という盟友をもって四傑と称されたことをいう。


當時自謂宗師妙、今日唯観封屈能。
その当時は文壇の宗匠だと自分から言うだけでうぬぼれというものだ、今日の詩のレベルからすると、ただ対句の才能を出しただけのものでしかない。
宗師 師としてあがめられる中心的存在。○対属 対偶表現。近体詩の特徴の一つは対句の技巧を用いることなのでこういう。

(解説と参考)
○詩型 七言絶句。
・押韻 朋・能。

六朝の文学のほうがはるかに優れていると思われる。それより、盛唐、中唐、晩唐と圧倒的に優れた詩人が出現するわけであるから比較にならないということか。 律詩については李商隠で完成されたというべきものである。
初唐までは詩人であるが、政治家、軍人のほうに力点が置かれていた。次第に、詩に王朝色が薄れ、軍人色が薄い詩人が多くなる。
 ここに挙げられた詩人は天子の謁見は叶ったがのち疎まれた人物である。しかし、初唐の詩人については宦官の讒言はなかった。


初唐
前代の六朝時代の余風を受け、繊細で華麗な詩風を身上とする修辞主義的な詩風が主流である。宮廷の詩壇における皇帝との唱和詩がこの時期の中心的作品となっている。代表的詩人には「初唐の四傑」と呼ばれる、①王勃・②楊炯・③盧照鄰・④駱賓王のほか、近体詩の型式を完成させた武則天期の沈佺期・宋之問などがいる。さらにこうした六朝の遺風を批判し、詩歌の復古を提唱して次代の盛唐の先駆的存在となった陳子昂が現れた。

魏徴 580年 - 643年 唐初の政治家・学者。癇癪を起こした太宗に直諫(じかに諫言)することで有名であり、魏徴死亡時太宗は非常に哀しんだという。曲城(山東省)の人。字(あざな)は玄成。太宗に召し出され、節を曲げぬ直言で知られる。「隋書(ずいしょ)」「群書治要」などの編纂(へんさん)にも功があった。

上官儀 (じょうかんぎ) 608?年 - 665年 文才があり、五言詩をもっとも得意とし、多くは命を受けて作り献上した。詞句は婉麗にしてたくみで整っており、士大夫に模倣されて上官体と称された。皇后であった則天武后を廃そうと高宗に建議したことにより、則天武后(武則天)の怨みを買い、後に梁王・李忠の「謀反」事件に関連させられ、獄死した。

王勃 おうぼつ   650年 - 676年 "王勃の作品には、南朝の遺風を残しながら、盛唐の詩を予感させる新鮮自由な発想が見られる。「初唐の四傑」の一人。幼くして神童の誉れ高く、664年に朝散郎となり、ついで高宗の子の沛王・李賢の侍読となってその寵を受けたが、諸王の闘鶏を難じた「檄英王鷄文」を書いて出仕を差し止められ、剣南(四川省)に左遷された。虢州(河南省霊宝市)の参軍となったときに罪を犯した官奴を匿いきれなくて殺し、除名処分にあった。
 この事件に連座して交趾の令に左遷された父の王福時を訪ねる途中、南海を航行する船から転落して溺死した。"
・滕王閣 , ・送杜少府之任蜀州唐、・蜀中九日(九月九日望鄕臺)


楊炯 (ようけい、生年不詳-692年)は中国・唐代初期の詩人。字は不詳。王勃・盧照鄰・駱賓王とともに「初唐の四傑」と称せられる.華陰(陝西省)の出身。幼時から慧敏でよく文章を作り、661年に神童に挙げられ校書郎を授けられた。681年、崇文館学士になった。則天武后の時代に梓州司法参軍に左遷されて、のち盈川の令となった。著に『盈川集』がある
・従軍行    ・夜送趙縦 


盧照鄰 (ろしょうりん、生没年未詳) 范陽(河北省)の出身。幼少より曹憲・王義方に従って経史と小学を学び、詩文に巧みであった。初めは鄧王府の文書の処理係である典籤となり、王(唐高祖の子・元裕)に重用された。 のち新都(四川省)の尉となったが病のために職を辞し、河南省具茨の山麓に移住した。病が重くなって、ついに頴水に身を投じて死んだ。 その詩は厭世的で悲しみいたむ作が多い。長安の繁栄のさまを詠じた「長安古意」が最もよく知られ、『唐詩選』にも収められている。著に『盧昇之集』7巻と『幽憂子』3巻がある。
・長安古意

駱賓王 らくひんおう  640年? - 684年? "「初唐の四傑」の一人。7歳からよく詩を賦し、成長してからは五言律詩にその妙を得た。特にその「帝京篇」は古今の絶唱とされる。好んで数字を用いて対句を作るので「算博士」の俗称がある。(浙江省)の出身。初めから落魄し、好んで博徒と交わり、性格は傲慢・剛直。高宗の末年に長安主簿となり、ついで武后の時に数々の上疏をしたが浙江の臨海丞に左遷される。
 出世の望みを失い、官職を棄てて去った。684年に李敬業が兵を起こすと、その府属となり敬業のために檄文を起草して武后を誹謗、その罪を天下に伝えた。
・易水送別 , ・霊隠寺 , ・詠鵞

宋之問 (そうしもん) 652~712 "宋 之問(そう しもん、656年?-712年あるいは713年)は中国初唐の詩人。字は延清。虢州弘農(現河南省、『旧唐書』より)あるいは汾州(現山西省、『新唐書』より)の人。沈佺期とともに則天武后の宮廷詩人として活躍し、「沈宋」と併称され、近体詩の律詩の詩型を確立した。
 汾州出身。字は延清。科挙進士科に及第して武后に認められ、張易之と結んでいたために中宗復辟で瀧州(広東羅定)に流されたが、洛陽に潜行して張仲之に庇護され、仲之の武三思暗殺を密告して赦免・登用された。太平公主に与し、横暴・驕慢として越州長史に遷されたが、以後も素行を修めず欽州・桂州に流され、玄宗に自殺を命じられた。 娘婿の劉希夷に、詩(代悲白頭翁)の“年年歳歳花相似たり”の句の譲渡を求めて拒まれ、人を遣って土嚢で圧殺させたという。(或いは毒殺説もある)"


沈佺期 (しんせんき) 656年? - 716年?
宋之問とともに則天武后の宮廷詩人として活躍し、「沈宋」と併称され、近体詩の律詩の詩型を確立した。
字は雲卿。相州内黄の人。上元二年(675)、進士に及第した。協律郎・考功郎中・給事中を歴任した。張易之の庇護を受けたが、武周朝が倒れて張易之が殺されると、賄賂を取った罪で驩州に流された。その後、呼び戻されて起居郎・修文館直学士となり、中宗にとりいって、中書舎人・太子少詹事にいたった。宋之問とともに、「沈宋」と併称される。 "