漫成五章 其三 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 106


漫成五章 其三 
生兒古有孫征虜、嫁女今無王右軍。
むすこを生むならば、曹操がこんなむすこを持ちたいと羨んだ、呉の討虜将軍孫権のような武人が昔はいたものだ。娘を政略で嫁がせようにも、郗鍳が気に入って婿にした王義之のような将軍で文人の人材が今は見あたらないのだ。
借問琴書終一世、何如旗蓋仰三分。
聞いてみたい、軍人でありながら官を辞して、琴や書物とともに一生を終えられる王羲之のような文人と、孫権のように天子の儀仗で活躍した武人、天下を三分していてもだれからも尊敬され仰ぎ見られる、はたしてだれが勝るといえるのかと。


其の三

児を生めば古には孫征虜有り、女を嫁がすに今は王右軍無し。

借問す 琴書もて一世を終わるは、何如ぞ 旗蓋 三分を仰ぐに。




漫成五章 其三 現代語訳と訳註 解説・参考


(本文)
生兒古有孫征虜、嫁女今無王右軍。
借問琴書終一世、何如旗蓋仰三分。

(下し文)
児を生めば古には孫征虜有り、女を嫁がすに今は王右軍無し。
借問す 琴書もて一世を終わるは、何如ぞ 旗蓋 三分を仰ぐに。


(現代語訳)
むすこを生むならば、曹操がこんなむすこを持ちたいと羨んだ、呉の討虜将軍孫権のような武人が昔はいたものだ。娘を政略で嫁がせようにも、郗鍳が気に入って婿にした王義之のような将軍で文人の人材が今は見あたらないのだ。
聞いてみたい、軍人でありながら官を辞して、琴や書物とともに一生を終えられる王羲之のような文人と、孫権のように天子の儀仗で活躍した武人、天下を三分していてもだれからも尊敬され仰ぎ見られる、はたしてだれが勝るといえるのかと。


(訳註)
生兒古有孫征虜、嫁女今無王右軍。

むすこを生むならば、曹操がこんなむすこを持ちたいと羨んだ、呉の討虜将軍孫権のような武人が昔はいたものだ。娘を政略で嫁がせようにも、郗鍳が気に入って婿にした王義之のような将軍で文人の人材が今は見あたらないのだ。
生児 「児」は男の子。○孫征虜 三国・呉の孫権をいう。200年(建安5年) - 急死した兄孫策から後継者に指名され、19歳で家督を継ぎ、江東一帯の主となる。曹操の上表により会稽太守・討虜将軍に任じられる。任地には赴かず、呉(現在の蘇州)に本拠を構える。「児を生めば」は、曹操が孫権の水軍のよく整備されているのに感心して「子を生めば当に孫仲謀(孫権の字)の如くなるべし」と羨ましがったという話を用いる(『三国志』呉書・孫権伝の裴松之注が引く『呉歴』)。○嫁女 権力者にとって女は女の子で政略の道具の一つである。○王右軍 東晋の王義之。書聖として知られるが、右軍将軍になったので「王右軍」という。太博の郗鍳が王導の子弟の中から婿を選ほうとして、使者が王家を訪れると、みな取り澄ましていたのに、一人だけ何知らぬ顔して寝そべったままの若者がいた。報告を聞いた郗鍳が気に入ったのがその王義之だった。むすめは彼に嫁がせたという。『世説新語』雅量篇に見える話。


借問琴書終一世、何如旗蓋仰三分。
聞いてみたい、軍人でありながら官を辞して、琴や書物とともに一生を終えられる王羲之のような文人と、孫権のように天子の儀仗で活躍した武人、天下を三分していてもだれからも尊敬され仰ぎ見られる、はたしてだれが勝るといえるのかと。
琴書 琴と書物。文人の生活をいう。陶淵明「帰去来の辞」に「琴書を楽しみて以て憂いを消さん」。王義之は政界への意欲はなく、静謐な生き方を好んだ。○何如 二つのものを較べて、どうであるかの意。ここでは「不如」(……に及ばない)というのに同じ。王義之のような文人か、孫権のような武人か、子供や女婿には後者がよいとする。○旗蓋仰三分 「旗蓋」 は天子のしるしである旗と申蓋。しばしば「黄旗紫蓋」 の四字で用いられる。「三分」 は天下が魏蜀呉、南北東西に三分されたこと、どちらも天下が戦時下にあり、軍人であり続けるのかどうか。


(解説)

○詩型 七言絶句。
○押韻 軍。分。


 孫権の時代は、三権鼎立、王羲之の時代は、南北朝、時代を経て東西の晋、どちらも若い自分は優れた軍人であった。晩年は、悪酒に傲慢な振る舞いをした孫権だけれど、臣下の諫言には耳を傾けた。官を辞し会稽の地にとどまり、人士と山水を巡り、仙道の修行に励むなど悠々自適の生活を過ごした王羲之であるが、飢饉に見舞われた時は、中央への租税の減免を要請するなど、地方行政にも力を注いでいる。李商隠の時代には、自己の利益のためだけに動く軍人、文人、皇帝にしても宦官勢力に牛耳られて身動きが取れない。
だれも頼りとする人物がいない。
 七言絶句の中に込められた軍人、文人たちの対立、まとまっていかないといけないのにまとまらない。それでいて、媚びるものだらけの暗黒の時代を示している。


(参考)
三曹 
武帝(曹操)(そうそう) 155―220後漢末の武将、政治家、詩人、兵法家。後漢の丞相・魏王で、三国時代の魏の基礎を作った。建安文学の担い手の一人であり、子の曹丕・曹植と合わせて「三曹」と称される。現存する彼の詩作品は多くないが、そこには民衆や兵士の困苦を憐れむ気持ちや、乱世平定への気概が感じられる。表現自体は簡潔なものが多いが、スケールが大きく大望を望んだ文体が特徴である。 ・短歌行 ・求賢令 ・亀雖寿 ・蒿里行 ・薤露

孫権182年―252年 後漢末から三国時代にかけて活躍した武将。呉を建国し初代皇帝に即位した。字は仲謀。長命で帝位に昇る相があるとされ、三国時代の君主の中で最も長命した。なおよく並べられる曹操、劉備とは(父孫堅が同世代なので)およそ1世代下にあたる。時勢を読んだ外交を始めとして思慮深さを見せる人物であったが、一方で感情のままに行動を取り部下から諌められた逸話が複数残っている。

 

三国時代(さんごくじだい)は中国の時代区分の一つ。狭義では後漢滅亡(220年)から、広義では黄巾の乱の蜂起(184年)から[要出典]、西晋による中国再統一(280年)までを指す。229年までに魏(初代皇帝:曹丕)、蜀(蜀漢)(初代皇帝:劉備)、呉(初代皇帝:孫権)が成立、中国国内に3人の皇帝が同時に立った。黄巾の乱(こうきんのらん、中国語:黃巾之亂)は、中国後漢末期の184年(中平1年)に太平道の教祖張角が起こした農民反乱。目印として黄巾と呼ばれる黄色い頭巾を頭に巻いた事から、この名称がついた。また、小説『三国志演義』では反乱軍を黄巾“賊”と呼称している。「黄巾の乱」は後漢が衰退し三国時代に移る一つの契機となった。    



王羲之 303年 - 361年 東晋の政治家・書家。字は逸少。右軍将軍となったことから世に王右軍とも呼ばれる。本籍は琅邪郡臨沂(現在の山東省)。魏晋南北朝時代を代表する門閥貴族、琅邪王氏の出身である。羲之は会稽に赴任すると、山水に恵まれた土地柄を気に入り、次第に詩、酒、音楽にふける清談の風に染まっていき、ここを終焉の地と定め、当地に隠棲中の謝安や孫綽・許詢・支遁ら名士たちとの交遊を楽しんだ。一方で会稽一帯が飢饉に見舞われた時は、中央への租税の減免を要請するなど、地方行政にも力を注いでいる。王述が会稽郡にさまざまな圧力をかけてくると、これに嫌気が差した王羲之は、翌355年、病気を理由に官を辞して隠遁する。官を辞した王羲之はその後も会稽の地にとどまり続け、当地の人士と山水を巡り、仙道の修行に励むなど悠々自適の生活を過ごした。