漫成五章 其四 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 107



其四
代北偏師銜使節、關東裨將建行臺。
代北軍の昭義軍という偏隊から節度使の割り符を受けるまでに出世し、関東の副将の身から一城の主になれたという。
不妨常日饒軽薄、且喜臨戎用草莱。
かつてはその卑賎な出を軽んじる者ばかりだったが、ともかくも戦時に雜草というべき士を登用したのはともかく喜ばしいことである。


其の四

代北の偏師 使節を銜み、関東の裨将 行台を建つ。

妨げず 常日 軽薄餞きを、且く喜ぶ 戒に臨みて草莱を用いしを。





漫成五章 其四 現代語訳と訳註 解説と参考

(本分)

代北偏師銜使節、關東裨將建行臺。
不妨常日饒軽薄、且喜臨戎用草莱。

(下し文)
代北の偏師 使節を銜み、関東の裨将 行台を建つ。
妨げず 常日 軽薄餞きを、且く喜ぶ 戒に臨みて草莱を用いしを

(現代語訳)
代北軍の昭義軍という偏隊から節度使の割り符を受けるまでに出世し、関東の副将の身から一城の主になれたという。
かつてはその卑賎な出を軽んじる者ばかりだったが、ともかくも戦時に雜草というべき士を登用したのはともかく喜ばしいことである。


代北偏師銜使節、關東裨將建行臺。
代北軍の昭義軍という偏隊から節度使の割り符を受けるまでに出世し、関東の副将の身から一城の主になれたという。
代北偏師銜使節 この詩は同時代の武将石雄が抜擢されて大きな戦果を挙げたことを述べる。843年石雄が回鶴を撃破して功責をあげ、李徳裕は、石雄を豊州防禦使に抜擢したことをいう。・代北は代北軍、安史の乱を治めたのち、765年永泰元年、代州(山西省代県)に置かれた(『新唐書』地理志)。・偏師は、全軍ではなく、全軍ではない軍、偏隊(昭義軍をいうのではないか)。・使節は天子の使者であることを示す割り符のこと。節度使などに任じられることをいう。・は命令や辞令を受けること。○関東裨將建行臺 この句でも石雄が徐州(江蘇省徐州市)という一地方の低い武官から身を起こし、844年昭義軍を率いて藩鎮の劉稹を破り、河中節度使に任じられたことをいう。・関東は函谷関より東の地域。ここでは徐州を指す。・裨将は副将。裨は補佐するという意味だが、実際には指揮をふっている。・行台は辺境の枢要の地に置かれた軍事機構。


不妨常日饒軽薄、且喜臨戎用草莱。
かつてはその卑賎な出を軽んじる者ばかりだったが、ともかくも戦時に雜草というべき士を登用したのはともかく喜ばしいことである。
軽薄 うとんじる。『漢書』王尊伝に「公卿を推辱し、国家を軽薄す」。石雄が低い出身ゆえに侮蔑されたことをいう。○臨戎 いくさに臨んで。○草葉 草奔と同じく民間、在野。また庶民をいう。・莱は雑草。石雄を抜擢したのは当時の朝廷の重鎮李徳裕であり、馮浩はこの詩は李徳裕を讃える意をこめるという。


(解説)

○詩型 七言絶句。
○押韻 台、莱。


其三の詩を今の時代には、時代を引っ張る人材がいないといいながら、受けて、よく探してみると、賤しい身分から異民族を破り、国内の叛乱を抑えた人材がおり、そして、その人材を発掘抜擢した人物がいた。孫権、王羲之のレベルの違い感は免れないのは、宦官の支配の中での問題である。

李徳裕(り とくゆう、787年 - 849年)は、中国・唐代の政治家である。趙郡(河北省寧晋県)を本貫とする、当代屈指の名門・李氏の出身。字は文饒。憲宗朝の宰相であった李吉甫の子である。

徳裕は、幼くして学を修めたが、科挙に応ずることを良しとせず、恩蔭によって校書郎となった。
 
820年、穆宗が即位すると、翰林学士となった。次いで、822年には、中書舎人となった。その頃より、牛僧孺や李宗閔らと対立し始め、「牛李の党争」として知られる唐代でも最も激烈な朋党の禍を惹起した。また、後世の仏教徒からは、道士の趙帰真と共に「会昌の廃仏」を惹起した張本人である、として非難されている。
 
敬宗の代に浙西観察使となって、任地に善政を敷き、帝を諌める等の功績があった。829年、文宗代では、兵部侍郎となった。時の宰相、裴度は、徳裕を宰相の列に加えるよう推薦した。しかし、李宗閔が、宦官と結託して先に宰相の位に就いた。逆に、830年徳裕は、投を排除され、鄭滑節度使として地方に出された。833年兵部尚書になる。 甘露の変の際、前年より病勝ちで療養中の出来事。

840年、武宗が即位すると、徳裕が宰相となり、843年、844年劉稹の地方の藩鎮の禍を除いた。その功績により、太尉衛国公となった。しかし、宣宗が即位すると、再び、潮州司馬、さらに崖州司戸参軍に左遷され、そこで没した。

特に『会昌一品集』は、李徳裕が宰相として手腕をふるった会昌年間6年に書いた制・詔・上奏文などをまとめたものである。ここには彼が処理した、ウイグル帝国崩壊後、南へ逃れ唐北辺へと流れてきたウイグル一派への対応や、昭義軍節度使劉稹の反乱の平定など、当時の政策の様相をダイレクトに描き出す文章が多数載せられ、武宗期の政治史のみならず、遊牧民の歴史の観点からも、重要な史料として注目される。