漫成五章 其五 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 108


其 五
郭令素心非黷武、韓公本意在和戎。
中書令郭子儀は大乱を平定し、異民族の侵入をふせいだが、もともと武特を汚し、いわれのない戦をするような武将ではないのだ、韓国公、張仁愿も本心は北方異民族との共存を望んでいたのだ。
兩都耆舊偏垂涙、臨老中原見朔風。

長安・洛陽二都の長老たちはひたすら涙にくれるのである。まさかこの年になってもこの漢民族の伝統の地中原の地に北方の軍服姿に加え、平服や風俗を見つづけているのだ。


其の五

郭令の素心は黷武に非ず、韓公の本意は和戎に在り。

両都の耆旧 偏えに涙を垂る、老いに臨んで中原に朔風を見ると。





漫成五章 其五 現代語訳と訳注 解説
(本文)

郭令素心非黷武、韓公本意在和戎。
兩都耆舊偏垂涙、臨老中原見朔風。

(下し文)
郭令の素心は黷武に非ず、韓公の本意は和戎に在り。
両都の耆旧 偏えに涙を垂る、老いに臨んで中原に朔風を見ると。

(現代語訳)
中書令郭子儀は大乱を平定し、異民族の侵入をふせいだが、もともと武特を汚し、いわれのない戦をするような武将ではないのだ、韓国公、張仁愿も本心は北方異民族との共存を望んでいたのだ。
長安・洛陽二都の長老たちはひたすら涙にくれるのである。まさかこの年になってもこの漢民族の伝統の地中原の地に北方の軍服姿に加え、平服や風俗を見つづけているのだ。

(訳註)
郭令素心非黷武、韓公本意在和戎。

中書令郭子儀は大乱を平定し、異民族の侵入をふせいだが、もともと武特を汚し、いわれのない戦をするような武将ではないのだ、韓国公、張仁愿も本心は北方異民族との共存を望んでいたのだ。
郭令 郭子儀(697年 - 781年)。安禄山の乱を平定した功績によって中書令に任じられたので「郭令」という。安史の乱で大功を立て、以後よく異民族の侵入を防いだ。盛唐~中唐期を代表する名将。○素心 もともとの気持ち。○黷武 武特を汚す。いわれのない戦をする。兵力に頼り、外交をしない武将のこと。武力濫用。・黷:けがすの意。郭子儀はのちに回紇、吐蕃など周辺異民族の侵入に際して武力を用いずして撤兵させた。○韓公 則天武后の時、幽州を中心に北の異民族を封じ込めた名将、張仁愿。武則天は702年4月、幽州刺史の張仁愿へ幽、平、嬀、檀の防禦を専任させ、薛季昶と連携して突厥軍を拒ませた。この時、韓国公に封じられたので「韓公」という。○和戎 周辺異民族と和睦する。張仁愿は北方国境地帯に城を築き、それ以後突厥は侵犯しなくなった。韓公については杜甫「諸將五首其二」にふれている。李商隠の「漫成五章」は杜甫のこの詩にも影響受けている。

兩都耆舊偏垂涙、臨老中原見朔風。
長安・洛陽二都の長老たちはひたすら涙にくれるのである。まさかこの年になってもこの漢民族の伝統の地中原の地に北方の軍服姿に加え、平服や風俗を見つづけるているのだ。
〇両都 唐の東西の都、長安と洛陽。○耆旧 長老たち。○ ひとえに、もっぱら、ひたすら。○朔風 北方の人々の風俗、暮らしぶり。北方の領土が唐に返還され、河西・陵右(甘粛省西部一帯)で異民族の支配を受けていた中国の人々が、胡服のまま都に参することがあった。




(解説)
○詩型 七言絶句。
○押韻 戎・風。


#1
沈宋裁詞矜變律、王楊落筆得良朋。
當時自謂宗師妙、今日唯観封屈能。
六朝の文学のほうがはるかに優れていると思われる。それより、盛唐、中唐、晩唐と圧倒的に優れた詩人が出現するわけであるから比較にならないということか。 律詩については李商隠で完成されたというべきものである。
初唐までは詩人であるが、政治家、軍人のほうに力点が置かれていた。次第に、詩に王朝色が薄れ、軍人色が薄い詩人が多くなる。
 ここに挙げられた詩人は天子の謁見は叶ったがのち疎まれた人物である。しかし、初唐の詩人については宦官の讒言はなかった。


#2
李杜操持事畧齊、三才萬象共端倪。
集仙殿興金鑾殿、可是蒼蝿惑曙雞。
711年玄宗は高力士らの手を借りてクーデターを成功させた。宦官は一気に力を持つようになり、朝臣、張説、張九齢は失脚し、李林甫は宦官の手を借り朝廷を牛耳った。玄宗は一芸に秀でたものを集めたが李林甫は文学の詩を嫌った。これより、宦官と無学が唐王朝の中枢をなす。この詩は盛唐期に入って、詩のレベルが変わった事、しかし、宦官と無学によって妨げられたとしている。朝廷における朝礼を鶏に喩え、うるさく飛び交う青蝿を宦官に喩えている。唐王朝初期に60名くらいの宦官が李商隠の時代には5千名を超えていたという。


#3
生兒古有孫征虜、嫁女今無王右軍。
借問琴書終一世、何如旗蓋仰三分。
孫権の時代は、三権鼎立、王羲之の時代は、南北朝、時代を経て東西の晋、どちらも若い自分は優れた軍人であった。晩年は、悪酒に傲慢な振る舞いをした孫権だけれど、臣下の諫言には耳を傾けた。官を辞し会稽の地にとどまり、人士と山水を巡り、仙道の修行に励むなど悠々自適の生活を過ごした王羲之であるが、飢饉に見舞われた時は、中央への租税の減免を要請するなど、地方行政にも力を注いでいる。李商隠の時代には、自己の利益のためだけに動く軍人、文人、皇帝にしても宦官勢力に牛耳られて身動きが取れない。
だれも頼りとする人物がいない。
 七言絶句の中に込められた軍人、文人たちの対立、まとまっていかないといけないのにまとまらない。それでいて、媚びるものだらけの暗黒の時代を示している。


#4
代北偏師銜使節、關東裨將建行臺。
不妨常日饒軽薄、且喜臨戎用草莱。
其三の詩を今の時代には、時代を引っ張る人材がいないといいながら、受けて、よく探してみると、賤しい身分から異民族を破り、国内の叛乱を抑えた人材がおり、そして、その人材を発掘抜擢した人物がいた。孫権、王羲之のレベルの違い感は免れないのは、宦官の支配の中での問題である。

#5
郭令素心非黷武、韓公本意在和戎。
兩都耆舊偏垂涙、臨老中原見朔風。
「漫成三首」がいわゆる評論詩であったように、この「漫成五章」も詩評に借りた王朝批判である。どの時期も政策ミスをしている。それらの基本に流れるのは宦官の讒言であった。しかし、北の異民族と和睦ができていたものを、異民族出身の唐の連隊長が謀叛を起こし、北の異民族軍を操り、唐の兩都を蹂躙した。それを平定するために宦官の意見を取り上げ、異民族の手を借り大乱を平定したのだ。そんなことをしなくても、平常から賢臣を的確に抜擢し朝廷を作り上げれば、戦をすることはないのだ。奸臣ばかりが朝廷の中心におり、場当たり的に事にあたっていくのは王朝の末期的な象徴である。


(参考)
安禄山の母は突厥の名族阿史徳氏出身の「巫師」であった。『新唐書』巻225上 安禄山伝などによると、「軋犖山」という名の突厥の軍神に巫女であった母が祈ったところ、穹廬(ゲルなどのテント)を光が照らして懐妊し、野獣はことごとく鳴くなど祥瑞が現れた、と出生に関わる奇瑞譚が載せられている。当時、節度使であった張仁愿がこれを知り殺そうとしたが、なんとか逃れることができたという伝承もある。


郭子儀
(かく しぎ、697年 - 781年)は中国、唐朝に仕えた軍人・政治家。玄宗、粛宗、代宗、徳宗の4代に歴仕。安史の乱で大功を立て、以後よく異民族の侵入を防いだ。盛唐~中唐期を代表する名将。

身長190cmほどの偉丈夫であった。旧唐書によると、父郭敬之は綏州・渭州・桂州・壽州(寿州)・泗州の刺史(地方長官)を歴任したと言う。これは必ずしも低い身分ではなく、新唐書・百官志四下によると、「上州」刺史は「従三品」に当たり、また渭州・壽州などには中都督府が置かれ、中都督は「正三品」であった。府兵制が崩れる以前においては、都督・刺史の官は地方職(外官)としては高官であったと言える。

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