平淮西碑 (韓碑)#2 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 137



■平淮西碑 (韓碑)に関する韓愈の年譜

815

憲宗

元和

10年

48歳

5月、「淮西の事宜を論ずる状」を上奏し、淮西の乱に断固たる措置を求める。夏、「順宗実録」を撰進。*「盆地五首」*「児に示す」作。

816

11年

49歳

正月20日、中書舎人に転任。緋魚袋を賜わる。5月18日、太子右庶士に降任。*「張籍を調(あざけ)る」作

817

12年

50歳

7月29日、裴度、淮西宣慰招討処置使となるに伴い、兼御史中丞、彰義軍行軍司馬となる。8月、滝関を出、本隊より離れて汴州に急行し、宣武軍節度使韓弘の協力をとりつける。10月、敵の本拠、蔡州を間道づたいに突くことを願うも、唐鄧随節度使李愬に先をこされる。11月28日、蔡州を発して長安へ向かう。12月16日、長安へ帰る。21日、刑部侍郎に転任。*「裴相公の東征して途に女几山の下を経たりの作に和し奉る」作

818

13年

51歳

正月、「淮西を平らぐる碑」 を上るも、李愬の訴えにより、碑文は磨り消される。4月、鄭余慶、詳定礼楽使となり、推薦されて副使をつとめる。*「独り釣る四首」

819

14年

52歳

正月14日、「仏骨を論ずる表」を上り、極刑に処せられるところを、裴度らのとりなしで、潮州刺史に左遷となる。3月25日、潮州に着任。10月24日、兗州刺史に転任。*「左遷せられて藍関に至り姪孫湘に示す」*「滝吏」*「始興江口に過る感懐」*「柳柳州の蝦蟇を食うに答う」*「兗州に量移せらる張端公詩を以て相賀す因って之に酬ゆ」  *二月二日、潮州への旅の途次、四女挐、死没。7月、大赦。

平淮西碑 (韓碑)#2
帝得聖和相日度、賊斫不死神扶持。
憲宗皇帝の才知英明によって、徳高き宰相のよき輔佐をうけられた。その宰相は、裴度といわれる人である。賊がかつて宰相武元衝を暗殺、裴度も刺客に傷つけられたが、神のご加護があって奇蹟的に助かった。
腰懸相印作都統、陰風惨澹天王旗。
裴度は腰に宰相の印綬を懸ける身でありながら、自ら元帥として出陣を請うた。裴度元帥の大軍に冬の風が容赦なく吹き付け、天子の御旗は、風に翻った。
愬武古通作牙爪、儀曹外郎載筆随。
四将軍、李愬・韓公武・李道古・李文通たちが、牙と爪の先鋒として攻め入った、礼部員外郎の李宗関もまた戦果を報告しようと、筆を共にして従軍したのだ。
行軍司馬智且勇、十四萬衆猶虎貌。
行軍のなかにおいて、請われて副将となった韓愈は、智略に秀れ、且つ勇敢であった。総勢十四万の軍勢すべてが、虎豹のようなつわものぞろいであったのだ。
入蔡縛賊献太廟、功無與譲恩不訾。
李愬は雪の降る夜に蔡城を奇襲し、賊の頭目呉元済を生け捕り、佳期ただよう長安に送った。憲宗皇帝は、先祖の廟にそれを報告して、呉元済を斬殺した。准西の乱は平定し、裴度の戦功、功労は比べるものなく秀れ、その恩賞もはかり知れず大きいものであった。

帝は聖相(せいしょう)を得たり 相は度と日う、賊 斫(き)れども死なず 神 扶持す
腰に相印(しょういん)を懸けて都統(ととう)と作る、陰風 惨澹(さんたん)たり 天王の旗。
愬 武 古 通 牙爪(がそう)と作り、儀曹外郎 筆を載せて随う。
行軍司馬 智且つ勇なり、十四万衆 猶お虎貌のごとし。
蔡に入り 賊を縛りて 大廟に献ず、功は与(とも)に譲る無く恩は訾(はか)られず。


平淮西碑 (韓碑)#2 現代語訳と訳註
(本文)

帝得聖和相日度、賊斫不死神扶持。
腰懸相印作都統、陰風惨澹天王旗。
愬武古通作牙爪、儀曹外郎載筆随。
行軍司馬智且勇、十四萬衆猶虎貌。
入蔡縛賊献太廟、功無與譲恩不訾。


(下し文)
帝は聖相(せいしょう)を得たり 相は度と日う、賊 斫(き)れども死なず 神 扶持す
腰に相印(しょういん)を懸けて都統(ととう)と作る、陰風 惨澹(さんたん)たり 天王の旗。
愬 武 古 通 牙爪(がそう)と作り、儀曹外郎 筆を載せて随う。
行軍司馬 智且つ勇なり、十四万衆 猶お虎貌のごとし。
蔡に入り 賊を縛りて 大廟に献ず、功は与(とも)に譲る無く恩は訾(はか)られず。


(現代語訳)
憲宗皇帝の才知英明によって、徳高き宰相のよき輔佐をうけられた。その宰相は、裴度といわれる人である。賊がかつて宰相武元衝を暗殺、裴度も刺客に傷つけられたが、神のご加護があって奇蹟的に助かった。
裴度は腰に宰相の印綬を懸ける身でありながら、自ら元帥として出陣を請うた。裴度元帥の大軍に冬の風が容赦なく吹き付け、天子の御旗は、風に翻った。
四将軍、李愬・韓公武・李道古・李文通たちが、牙と爪の先鋒として攻め入った、礼部員外郎の李宗関もまた戦果を報告しようと、筆を共にして従軍したのだ。
行軍のなかにおいて、請われて副将となった韓愈は、智略に秀れ、且つ勇敢であった。総勢十四万の軍勢すべてが、虎豹のようなつわものぞろいであったのだ。
李愬は雪の降る夜に蔡城を奇襲し、賊の頭目呉元済を生け捕り、佳期ただよう長安に送った。憲宗皇帝は、先祖の廟にそれを報告して、呉元済を斬殺した。准西の乱は平定し、裴度の戦功、功労は比べるものなく秀れ、その恩賞もはかり知れず大きいものであった。


(訳注)
帝得聖和相日度、賊斫不死神扶持。
憲宗皇帝の才知英明によって、徳高き宰相のよき輔佐をうけられた。その宰相は、裴度といわれる人である。賊がかつて宰相武元衝を暗殺、裴度も刺客に傷つけられたが、神のご加護があって奇蹟的に助かった。
聖相 有徳の宰相。この言葉は「妟子春秋」にある「仲尼は聖相なり。」という言葉を典故とする。仲尼は孔子の名。
 裴度(765-839年)あざな中立。徳宗以下四朝に仕えてよく唐室を輔佐した重臣である。貞元の初めに進士に及第し、校書郎を皮切りに累進して、中書侍郎同平章事となり、817年元和十二年自から請うて呉元済征伐の将軍となった。乱平定後は晋回公に封ぜられ、中書令を加えられた。晩年は別別業を作り、白居易(772-846年)劉禹錫(772-842年)らと觴詠した。なお、裴度出陣の二年以前、815年元和十年に、討征の詔は下され、十六道の兵を発して准西に向わせ、用兵の事を宰相の一人、武元衝にゆだね、李光顔を司令官としていたが一向に戦果があがっていなかったのである。
賊斫不死 刺客が裴度を暗殺しょうとした史実をいう。呉元済討征の詔が下された時、平盧の節度使李師道(?-819年)や成徳の節度使王承宗(?-820年)は元済の謝免を断ったが誉れなかった。かくて李師道は、主戦論者の暗殺を計り、宰相武元衝は殺され、裴度も刺客に傷つけられたが、奇蹟的に助かった。新旧両「唐書」裴度伝にくわしい。なお他の節度使が暗に叛乱軍を援助したのは、勿論、その利害が共通していたからである。


腰懸相印作都統、陰風惨澹天王旗。
裴度は腰に宰相の印綬を懸ける身でありながら、自ら元帥として出陣を請うた。裴度元帥の大軍に冬の風が容赦なく吹き付け、天子の御旗は、風に翻った。
相印 宰相の印綬。○都統 軍の司令官。天宝の末に初めてこの元帥職がもうけられた。817年元和十二年七月、裴度は奏して自から行営すなわち出征時の軍営に赴かんことを請い、淮西宣慰招討使に充てられたが、韓弘(765-822年)が都続であった故、宣慰処置使と称するように願った。だが実際には元帥の職をつかさどった、と「旧唐書」に見える。○惨澹 ものすさまじく薄暗いこと。

愬武古通作牙爪、儀曹外郎載筆随。
四将軍、李愬・韓公武・李道古・李文通たちが、牙と爪の先鋒として攻め入った、礼部員外郎の李宗関もまた戦果を報告しようと、筆を共にして従軍したのだ。
愬武古通 淮西内平定に力を合せた四人の将軍の名。・:元和十一年に唐鄧隋節度使に任ぜられた李愬。夜、蔡州の城を奇襲し呉元済を擒にした殊勲者。・武:淮西諸軍行営都統であった韓弘の子、韓公武のこと。兵二千を率いて先討隊李光顔(762―826年)の軍に属していた。・:鄂岳観察使李道古。・:寿州団練使李文通。
牙爪 きばとつめ。「詩経」小雅祈父に「祈父、予は王の爪牙なり。」と見える。
儀曹外郎 礼部に属する官職。礼部は礼秩及び学校貢挙のことを掌る官庁。この時、後に宰相となり、対立する牛李の党の牛党の立役者となる礼部員外郎李宗閔を始め、司勲員外郎李正封らが従軍した。隋の時代、礼部侍邸を儀曹郎と呼んだ。唐以後は廃止されたが礼部員外郎(礼部の書記次官)のことをそういった。
載筆 筆を持ち歩く。


行軍司馬智且勇、十四萬衆猶虎貌。
行軍のなかにおいて、請われて副将となった韓愈は、智略に秀れ、且つ勇敢であった。総勢十四万の軍勢すべてが、虎豹のようなつわものぞろいであったのだ。
行軍司馬副 司令官。また節度使の属官。裴度が朝廷に請うて、韓愈を行軍司馬としたのである。
虎貌とら。親も猛獣の名、虎の属である。


入蔡縛賊献太廟、功無與譲恩不訾。
李愬は雪の降る夜に蔡城を奇襲し、賊の頭目呉元済を生け捕り、佳期ただよう長安に送った。憲宗皇帝は、先祖の廟にそれを報告して、呉元済を斬殺した。准西の乱は平定し、裴度の戦功、功労は比べるものなく秀れ、その恩賞もはかり知れず大きいものであった。
入蔡縛賊 李愬が奇襲で賊将をとらえた功績を指す。「唐書」李愬伝に詳しい。
献太廟 太廟は天子の祖先を祭る宮中の社、かしこどころ。これもまた事実をふまえた表現。817年元和十二年十月、李愬は呉元済を執えて長安に送り、帝は興安門に御して俘虜を受け、廟社に献じ、両市にひきまわしてからこれを斬った。
功無与譲 功蹟の他におよぶもののないこと。北周の文人庾信(522-581年)の商調曲に「功与に譲るなく、太常の旌に銘す。」とあるのにもとづく。太常は天子の大旗。
恩不訾(はかれ) 訾は限る、或いは量るという意味。恩賞は限りなく大きかったという意味である。魏の王粲(177-217年)の詠史詩に「結髪してより明君に事え、恩を受くること良に訾れず。」と。