平淮西碑 (韓碑)#3 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 137


平淮西碑 (韓碑)#3
帝日汝度功第一、汝従事愈宜爲辭。
憲宗皇帝はもうされたことは「このたびは汝、裴度が功績第一のものである。」であった、また「汝の部下の韓愈が、碑に刻むべき文章を作らせるがよろしかろう。」と申されたのだ。
愈拝稽首蹈且舞、金石刻畫臣能爲。
韓愈はこの命を最高のものとして受けとめ、唐制にのっとった、拝手稽首の最敬礼と御前に小踊りの礼をしてお答え申し上がたことだった。「金石に刻む文を書くことは天子に代って為さるべきお役目の方々のあることであり、私ごとき行軍司馬のよく為しうる所ではないことでございます。」
古者世稱大手筆、此事不繫於職司。
「むかしから、世に大文章と称されるものを見ておりますと、筆者は必ずしもその職を司った者とは限ったものではないようであります。それゆえ、天子の命とありますからこのこと誰れ憚ることなく最大の力を注ぎ尽します。」
當仁自古有不讓、言訖屢頷天子頤。
「『論語』の教えにも、『仁のことをなすに臨んでは、師にもゆずらず』とありますようにいたす所存でございます。」韓愈の意気込みを申しあげて言葉が終ったとき、天子は満足気に幾度もうなずかれたことだった。
公退齊戒坐小閤、濡染大筆何淋漓。
かくて、韓愈は朝廷から退出し、沐浴し衣をあらためて身を潔め、集中力を高めて、小座敷に独り坐って筆をとった。大きな筆にたっぷりと墨を含ませ、心を定めて一気呵成に文を書き上げようとしたからだろう。
點竄堯典舜典字、塗改清廟生民詩。
徳をもって天下を治めた理想的な帝王の書である堯典や舜典の文章、古い雅頚の集である清廟や生民の詩を、改訂して書き改めたかのような、それは古雅で荘重な文章であった。
文成破體書在紙、清晨再拝鋪丹墀。

その字も常識を破った新しい文体で、紙一面に力強く書かれていた。そして、清々しい朝を迎え、大気も澄んでいた、韓愈は参朝し、宮殿の赤き庭、天子の御座の下にそれをひろげたのである。

帝 日(いわく) 汝 度よ 功第一なり、汝の従事の愈 宜(よろ)しく辞を為(つく)るべしと。
愈は拝し稽首(けいしゅ)して 蹈(とう)し且つ舞(ぶ)す、金石刻画 臣 能く為さんや。
古者(いにしえ)より世に大手(だいしゅ)筆を称す、此の事 職司に繋(かけ)られず。
仁に 当り ては 古自(いにしえよ)り 譲らざる有り、言い訖(おわ)れば 屡(しばしば )頷く天子の頤(あご)。
公は退(しりぞ)き 斎戒(さいかい)して 小閤に坐し、大筆を濡染(じゅせん)する 何 ぞ 淋漓(りんり)たる、点竄(てんざん)す 堯典(ぎょうてん)舜典(しゅんてん)の字、塗改す 清廟(せいびょう) 生民(せいみん)の詩。
文成り 破体(はたい) 書して紙に在り、精晨(せいしん)に再拝(さいはい)して丹墀(たんち)に鋪(つら)ぬ。


■平淮西碑 (韓碑)に関する韓愈の年譜
815憲宗元和10年48歳5月、「淮西の事宜を論ずる状」を上奏し、淮西の乱に断固たる措置を求める。夏、「順宗実録」を撰進。*「盆地五首」*「児に示す」作。
81611年49歳正月20日、中書舎人に転任。緋魚袋を賜わる。5月18日、太子右庶士に降任。*「張籍を調(あざけ)る」作
81712年50歳7月29日、裴度、淮西宣慰招討処置使となるに伴い、兼御史中丞、彰義軍行軍司馬となる。8月、滝関を出、本隊より離れて汴州に急行し、宣武軍節度使韓弘の協力をとりつける。10月、敵の本拠、蔡州を間道づたいに突くことを願うも、唐鄧随節度使李愬に先をこされる。11月28日、蔡州を発して長安へ向かう。12月16日、長安へ帰る。21日、刑部侍郎に転任。*「裴相公の東征して途に女几山の下を経たりの作に和し奉る」作
81813年51歳正月、「淮西を平らぐる碑」 を上るも、李愬の訴えにより、碑文は磨り消される。4月、鄭余慶、詳定礼楽使となり、推薦されて副使をつとめる。*「独り釣る四首」
81914年52歳正月14日、「仏骨を論ずる表」を上り、極刑に処せられるところを、裴度らのとりなしで、潮州刺史に左遷となる。3月25日、潮州に着任。10月24日、兗州刺史に転任。*「左遷せられて藍関に至り姪孫湘に示す」*「滝吏」*「始興江口に過る感懐」*「柳柳州の蝦蟇を食うに答う」*「兗州に量移せらる張端公詩を以て相賀す因って之に酬ゆ」  *二月二日、潮州への旅の途次、四女挐、死没。7月、大赦。

平淮西碑 (韓碑)#3 現代語訳と訳註
(本文)

帝日汝度功第一、汝従事愈宜爲辭。
愈拝稽首蹈且舞、金石刻畫臣能爲。
古者世稱大手筆、此事不繫於職司。
當仁自古有不讓、言訖屢頷天子頤。
公退齊戒坐小閤、濡染大筆何淋漓。
點竄堯典舜典字、塗改清廟生民詩。
文成破體書在紙、清晨再拝鋪丹墀。

(下し文)
帝 日(いわく) 汝 度よ 功第一なり、汝の従事の愈 宜(よろ)しく辞を為(つく)るべしと。
愈は拝し稽首(けいしゅ)して 蹈(とう)し且つ舞(ぶ)す、金石刻画 臣 能く為さんや。
古者(いにしえ)より世に大手(だいしゅ)筆を称す、此の事 職司に繋(かけ)られず。
仁に 当り ては 古自(いにしえよ)り 譲らざる有り、言い訖(おわ)れば 屡(しばしば )頷く天子の頤(あご)。
公は退(しりぞ)き 斎戒(さいかい)して 小閤に坐し、大筆を濡染(じゅせん)する 何 ぞ 淋漓(りんり)たる、点竄(てんざん)す 堯典(ぎょうてん)舜典(しゅんてん)の字、塗改す 清廟(せいびょう) 生民(せいみん)の詩。
文成り 破体(はたい) 書して紙に在り、精晨(せいしん)に再拝(さいはい)して丹墀(たんち)に鋪(つら)ぬ。

(現代語訳)
憲宗皇帝はもうされたことは「このたびは汝、裴度が功績第一のものである。」であった、また「汝の部下の韓愈が、碑に刻むべき文章を作らせるがよろしかろう。」と申されたのだ。
韓愈はこの命を最高のものとして受けとめ、唐制にのっとった、拝手稽首の最敬礼と御前に小踊りの礼をしてお答え申し上がたことだった。「金石に刻む文を書くことは天子に代って為さるべきお役目の方々のあることであり、私ごとき行軍司馬のよく為しうる所ではないことでございます。」
「むかしから、世に大文章と称されるものを見ておりますと、筆者は必ずしもその職を司った者とは限ったものではないようであります。それゆえ、天子の命とありますからこのこと誰れ憚ることなく最大の力を注ぎ尽します。」
「『論語』の教えにも、『仁のことをなすに臨んでは、師にもゆずらず』とありますようにいたす所存でございます。」韓愈の意気込みを申しあげて言葉が終ったとき、天子は満足気に幾度もうなずかれたことだった。
かくて、韓愈は朝廷から退出し、沐浴し衣をあらためて身を潔め、集中力を高めて、小座敷に独り坐って筆をとった。大きな筆にたっぷりと墨を含ませ、心を定めて一気呵成に文を書き上げようとしたからだろう。
徳をもって天下を治めた理想的な帝王の書である堯典や舜典の文章、古い雅頚の集である清廟や生民の詩を、改訂して書き改めたかのような、それは古雅で荘重な文章であった。
その字も常識を破った新しい文体で、紙一面に力強く書かれていた。そして、清々しい朝を迎え、大気も澄んでいた、韓愈は参朝し、宮殿の赤き庭、天子の御座の下にそれをひろげたのである。


(訳注)
帝日汝度功第一、汝従事愈宜爲辭。

憲宗皇帝はもうされたことは「このたびは汝、裴度が功績第一のものである。」であった、また「汝の部下の韓愈が、碑に刻むべき文章を作らせるがよろしかろう。」と申されたのだ。
〇度 裴度(765-839年)あざな中立。徳宗以下四朝に仕えてよく唐室を輔佐した重臣である。貞元の初めに進士に及第し、校書郎を皮切りに累進して、中書侍郎同平章事となり、817年元和十二年自から請うて呉元済征伐の将軍となった。○従事軍の参謀を職とする副官
○愈
 韓愈のこと。#1を参照○辞 文章。「旧い唐書」韓愈伝に、「淮蔡平らぎ、功を以て刑部侍邸を授けらる。詔して平准西碑を撰さしむ。」と見える。・ 淮水の西側、河南地方。・蔡 蔡城。南北朝以前の名称、河南省の大部分と安徽省の一部の中心城郭。


愈拝稽首蹈且舞、金石刻畫臣能爲。
韓愈はこの命を最高のものとして受けとめ、唐制にのっとった、拝手稽首の最敬礼と御前に小踊りの礼をしてお答え申し上がたことだった。「金石に刻む文を書くことは天子に代って為さるべきお役目の方々のあることであり、私ごとき行軍司馬のよく為しうる所ではないことでございます。」
拝稽首 これ以上ない最敬礼のさま。・ 拝手の略。両手を拱ねいて地につけ、額がその手にあたるまで頭をさげる礼。・稽首 額が地につくまで頭をさげる最敬礼。○蹈且舞 唐制としては一種の儀礼で最敬礼の後喜こんでこおどりすること。
金石刻画 金は鐘鼎、石は碑碣。古代にはそうした銅器や石に頌功紀事、あるいは寓戒の言葉を刻んだ。○臣能為 臣能く為さんや、と反語に読んだ。「史記」の秦始皇本紀に「二世皇帝日く、金石刻は尽く始皇帝の為す所なり。」云云とあるように、金石に功をしるすことは本来天子のなすものと意識きれる。


古者世稱大手筆、此事不繫於職司。
「むかしから、世に大文章と称されるものを見ておりますと、筆者は必ずしもその職を司った者とは限ったものではないようであります。それゆえ、天子の命とありますからこのこと誰れ憚ることなく最大の力を注ぎ尽します。」
大手筆 大著述。または大著述家。
職司 公文書をつづることをその職務とする者を指す。


當仁自古有不讓、言訖屢頷天子頤。
「『論語』の教えにも、『仁のことをなすに臨んでは、師にもゆずらず』とありますようにいたす所存でございます。」韓愈の意気込みを申しあげて言葉が終ったとき、天子は満足気に幾度もうなずかれたことだった。
当仁、不譲 仁の事を行うに当っては、師にもゆずらず、だれ憚るところなく行えという「論語」の言葉にもとづく。「論語」衛霊公簾に「子日く、仁に当りでは師にも譲らず。」と。
言訖 語は終る。

公退齊戒坐小閤、濡染大筆何淋漓。
かくて、韓愈は朝廷から退出し、沐浴し衣をあらためて身を潔め、集中力を高めて、小座敷に独り坐って筆をとった。大きな筆にたっぷりと墨を含ませ、心を定めて一気呵成に文を書き上げようとしたからだろう。
斎戒 祭祀の前に、沐浴し葷酒を去って身心を清める行事。また広く、心気一転してある事に精神を集中することをも斎戒という。ここでは集中して、一気呵成に書き上げるさまをいう。
小閤 閤はもと傍戸。ふつうに小部屋のことを閤という。
淋漓 たっぷりと墨を含ませたさま。水のしたたるさまを写す擬声語。


點竄堯典舜典字、塗改清廟生民詩。
徳をもって天下を治めた理想的な帝王の書である堯典や舜典の文章、古い雅頚の集である清廟や生民の詩を、改訂して書き改めたかのような、それは古雅で荘重な文章であった。
點竄 点は筆で字を消すこと。鼠は改める。二字で詩文を改めなおすこと。
堯典舜典 古代春秋の伝説上の帝王、尭と舜。徳をもって天下を治めた理想的な帝王とされる。五経の一つである「尚書」の篇名。堯典は堯帝の事蹟、舜典は舜帝のことをしるす。
塗改 文字をぬり消して書き改める。
〇清廟生民詩 生民は中国最古の詩集であり且つ五経の一つである「詩経」の大雅の篇名。清廟はおなじくその周頌の篇名。 


文成破體書 在紙、清晨再拝鋪丹墀。
その字も常識を破った新しい文体で、紙一面に力強く書かれていた。そして、清々しい朝を迎え、大気も澄んでいた、韓愈は参朝し、宮殿の赤き庭、天子の御座の下にそれをひろげたのである。
破体 破希の書体。当時の常識を破った新しい文体をいう。
再拝 二度、拝手の礼をする。
鋪丹墀 鋪はのべひろげる。丹墀は宮殿の階上の、朱で土地を赤ぬりこめた庭。有感二首 其二 李商隠150- 102
丹陛 天子の宮殿の正殿の正面階段。赤く塗られているので「丹陛」という
有感二首 其 二
丹陛猶敷奏、彤庭歘戦争。
臨危封盧植、始悔用龐萌。
御仗収前殿、兇徒劇背城。
蒼黄五色棒、掩遏一陽生。』
古有清君側、今非乏老成。
素心雖未易、此擧太無名。
誰瞑銜冤目、寧呑欲絶聲。
近聽開壽讌、不廢用咸英。』