平淮西碑 (韓碑)#5 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 140

平淮西碑 (韓碑)#5
公之斯文若元気、先時己入人肝脾。
しかし磨滅されたのではあるが、韓愈公の文学はあたかもすべての事象にたいし普遍で根源的に蓄えられた能力であり、それ以前、先人たちが既に人人の心の奥深く刻み込んでいたものなのである。
湯盤孔鼎有述作、今無其器存其辭。
殷の湯王の盤や孔子の鼎の文などが作られたことや、刻み込まれたことは知られているが、その刻まれた盤や鼎そのものがいまに伝わるということがなくても、その文章、心意気だけは伝わっているように、たとえ磨滅されたとはいえ、韓文公の文章は、金石のように、その命脈をたもつことであろう。
鳴呼聖皇及聖相、相與烜赫流淳熙。
ああ、聖なるものを受け継ぐ天子憲宗皇帝と、聖仁にして賢明なる宰相裴度はともどもある、たがいにその烜赫な偉業をなしとげ、淳き栄光を遍く世に流した。
公之斯文不示後、曷與三五相攀追。
韓愈公のこの文を後の世に示さなければ、どうして聖皇聖相の勲功が、かの三皇五帝の業と此肩するほどのものであったことを、どうして後世に伝えることができようか。
願書萬本誦萬遍、口角流沫右手胝。
それ故に、私は写本することを希望したい。この文章を指にたこのできるまでー万通も写しとり、これを口角沫を飛ばして万遍も諭して、後世に伝えたいのだ。
傳之七十有二代、以爲封禪玉検明堂基。
このようにして代々伝わって、この中国に興亡するだろう七十二の王朝に伝えたのだ、だから、韓愈の文を玉の封印の神器とし天地に功業を告げる封禅の盛儀の御神体として、諸侯を謁見する明堂の基礎とするべきだと、私は思うのである。


公の斯文(しぶん)は元気の若く、時に先んじて己に人の肝脾(かんぴ)に入る。
湯盤(とうばん) 孔鼎(こうてい) 述作(じゅつさく)有り、今 其の器無きも其の辭 存せり。
鳴呼 聖皇(せいこう)と聖相(せいしょう)と、相(あい)與(とも)に 烜赫(けんかく)として 淳熙(じゅんき)を流す。
公の斯文(しぶん) 後に示さずんば、曷んぞ 三五と相(あい) 攀追(はんつい)せん。
願わくは万本を書し 誦(しょう)すること万遍(ばんべん)し、口角(こうかく) 沫(まつ)を流し 右手に胝(たこ)して。
之を七十有(ゆう)二代(にだい)に伝え、以て封禅(ほうぜん)の玉検(ぎょくけん) 明堂(めいどう)の基(もとい)と為さん。


平淮西碑 (韓碑)#5 現代語訳と訳註
(本文)

公之斯文若元気、先時己入人肝牌。
湯盤孔鼎有述作、今無其器存其辭。
鳴呼聖皇及聖相、相與烜赫流淳熙。
公之斯文不示後、曷與三五相攀追。
願書萬本誦萬遍、口角流沫右手胝。
傳之七十有二代、以爲封禪玉検明堂基。

(下し文)#5
公の斯文(しぶん)は元気の若く、時に先んじて己に人の肝脾(かんぴ)に入る。
湯盤(とうばん) 孔鼎(こうてい) 述作(じゅつさく)有り、今 其の器無きも其の辭 存せり。
鳴呼 聖皇(せいこう)と聖相(せいしょう)と、相(あい)與(とも)に 烜赫(けんかく)として 淳熙(じゅんき)を流す。
公の斯文(しぶん) 後に示さずんば、曷んぞ 三五と相(あい) 攀追(はんつい)せん。
願わくは万本を書し 誦(しょう)すること万遍(ばんべん)し、口角(こうかく) 沫(まつ)を流し 右手に胝(たこ)して。
之を七十有(ゆう)二代(にだい)に伝え、以て封禅(ほうぜん)の玉検(ぎょくけん) 明堂(めいどう)の基(もとい)と為さん。

(現代語訳)#5
しかし磨滅されたのではあるが、韓愈公の文学はあたかもすべての事象にたいし普遍で根源的に蓄えられた能力であり、それ以前、先人たちが既に人人の心の奥深く刻み込んでいたものなのである。
殷の湯王の盤や孔子の鼎の文などが作られたことや、刻み込まれたことは知られているが、その刻まれた盤や鼎そのものがいまに伝わるということがなくても、その文章、心意気だけは伝わっているように、たとえ磨滅されたとはいえ、韓文公の文章は、金石のように、その命脈をたもつことであろう。
ああ、聖なるものを受け継ぐ天子憲宗皇帝と、聖仁にして賢明なる宰相裴度はともどもある、たがいにその烜赫な偉業をなしとげ、淳き栄光を遍く世に流した。
韓愈公のこの文を後の世に示さなければ、どうして聖皇聖相の勲功が、かの三皇五帝の業と此肩するほどのものであったことを、どうして後世に伝えることができようか。
それ故に、私は写本することを希望したい。この文章を指にたこのできるまでー万通も写しとり、これを口角沫を飛ばして万遍も諭して、後世に伝えたいのだ。
このようにして代々伝わって、この中国に興亡するだろう七十二の王朝に伝えたのだ、だから、韓愈の文を玉の封印の神器とし天地に功業を告げる封禅の盛儀の御神体として、諸侯を謁見する明堂の基礎とするべきだと、私は思うのである。


(訳注)
公之斯文若元気、先時己入人肝牌。

しかし磨滅されたのではあるが、韓愈公の文学はあたかもすべての事象にたいし普遍で根源的に蓄えられた能力であり、それ以前、先人たちが既に人人の心の奥深く刻み込んでいたものなのである。
斯文 道徳、或いは文化の意味また、儒者や文学を斯文という。韓愈は古文復活に熱心な儒教者であった。○元気すべての事象にたいし普遍で根源的に蓄えられた能力の意味。
先時 時は漫然と時間ということではなく、碑文が磨滅させられた時に先んじて。
肝脾 肝臓と脾臓。転じて心の意味。


湯盤孔鼎有述作、今無其器存其辭。
殷の湯王の盤や孔子の鼎の文などが作られたことや、刻み込まれたことは知られているが、その刻まれた盤や鼎そのものがいまに伝わるということがなくても、その文章、心意気だけは伝わっているように、たとえ磨滅されたとはいえ、韓文公の文章は、金石のように、その命脈をたもつことであろう。
湯盤 殷の湯王の盤の戎辞。「礼記」大学篇に「湯の盤の銘に日く。苟に日に新たに、日日に新たにして、又た日に新たなり。」と。
孔鼎「春秋左氏伝」に正老父の「一命して僂し、再命して傴し、三命して俯す。」という鼎銘が昭公七年に見える。正考父は孔子の祖先だから、それを湯盤と並へて孔鼎といったのだ。鼎は三脚で二つの耳のある金属のなべ。王者のしるしとして尊重される。ここではそれに刻まれた成文をいう。


鳴呼聖皇及聖相、相與烜赫流淳熙。
ああ、聖なるものを受け継ぐ天子憲宗皇帝と、聖仁にして賢明なる宰相裴度はともどもある、たがいにその烜赫な偉業をなしとげ、淳き栄光を遍く世に流した。古人も言う如く、事は文を以て伝わるものである。
烜赫 盛名威容の盛んなるさま。
淳熙 淳き栄光。


公之斯文不示後、曷與三五相攀追。
韓愈公のこの文を後の世に示さなければ、どうして聖皇聖相の勲功が、かの三皇五帝の業と此肩するほどのものであったことを、どうして後世に伝えることができようか。
 なんぞ~せんや、という反語的疑問詞。
三五 三皇五帝。理想的な君主として伝説的に伝えられる太古の帝王。三皇:伏羲・神農・女媧、五帝:黄帝・少昊・顓頊・嚳・尭・舜。


願書萬本誦萬遍、口角流沫右手胝。
それ故に、私は写本することを希望したい。この文章を指にたこのできるまでー万通も写しとり、これを口角沫を飛ばして万遍も諭して、後世に伝えたいのだ。
 手足の皮にできるたこ。


傳之七十有二代、以爲封禪玉検明堂基。
このようにして代々伝わって、この中国に興亡するだろう七十二の王朝に伝えたのだ、だから、韓愈の文を玉の封印の神器とし天地に功業を告げる封禅の盛儀の御神体として、諸侯を謁見する明堂の基礎とするべきだと、私は思うのである。
七十有二代 漢の司馬遷の「史記」封禅書に「古者より泰山に封じ梁父に禅せる者、七十二家なり。」とあるのにもとづく。
封禪 天子が大きな事業をなしとげた時、天地を祭って其の成功を報告する儀式をする。それを封禅という。ここは、その過去の事例にならいつつ、未来においても、次次と興亡するであろぅ七十二代にこの功績を伝えるという意味。
玉検 玉の名札で封印をかねるもの。封禅のときに用いる道具の玉である。○明堂 天子が諸侯を朝見する御殿。漢の趙岐の「孟子」注に「泰山の下に明堂あり、周の天子東に巡狩し、諸侯を朝せし処なり。」(染恵王下)とある。最後の一句は、「平准西碑」に「既に推察を定め、四夷畢く来る。遂に明覚を開いて、坐して以て治めん。」とあるのに拠っている。


■平淮西碑 (韓碑)に関する韓愈の年譜
815憲宗元和10年48歳5月、「淮西の事宜を論ずる状」を上奏し、淮西の乱に断固たる措置を求める。夏、「順宗実録」を撰進。*「盆地五首」*「児に示す」作。
81611年49歳正月20日、中書舎人に転任。緋魚袋を賜わる。5月18日、太子右庶士に降任。*「張籍を調(あざけ)る」作
81712年50歳7月29日、裴度、淮西宣慰招討処置使となるに伴い、兼御史中丞、彰義軍行軍司馬となる。8月、滝関を出、本隊より離れて汴州に急行し、宣武軍節度使韓弘の協力をとりつける。10月、敵の本拠、蔡州を間道づたいに突くことを願うも、唐鄧随節度使李愬に先をこされる。11月28日、蔡州を発して長安へ向かう。12月16日、長安へ帰る。21日、刑部侍郎に転任。*「裴相公の東征して途に女几山の下を経たりの作に和し奉る」作
81813年51歳正月、「淮西を平らぐる碑」 を上るも、李愬の訴えにより、碑文は磨り消される。4月、鄭余慶、詳定礼楽使となり、推薦されて副使をつとめる。*「独り釣る四首」
81914年52歳正月14日、「仏骨を論ずる表」を上り、極刑に処せられるところを、裴度らのとりなしで、潮州刺史に左遷となる。3月25日、潮州に着任。10月24日、兗州刺史に転任。*「左遷せられて藍関に至り姪孫湘に示す」*「滝吏」*「始興江口に過る感懐」*「柳柳州の蝦蟇を食うに答う」*「兗州に量移せらる張端公詩を以て相賀す因って之に酬ゆ」  *二月二日、潮州への旅の途次、四女挐、死没。7月、大赦。



#1
元和天子神武姿、彼何人哉軒與義。
誓将上雪列聖恥、坐法官中朝四夷
淮西有賊五十載、封狼生貙貙生羆。
不拠山河拠平地、長戈利矛日可麾。

#2
帝得聖和相日度、賊斫不死神扶持。
腰懸相印作都統、陰風惨澹天王旗。
愬武古通作牙爪、儀曹外郎載筆随。
行軍司馬智且勇、十四萬衆猶虎貌。
入蔡縛賊献太廟、功無與譲恩不訾。

#3
帝日汝度功第一、汝従事愈宜爲辭。
愈拝稽首蹈且舞、金石刻畫臣能爲。
古者世稱大手筆、此事不繫於職司。
當仁自古有不讓、言訖屢頷天子頤。
公退齊戒坐小閤、濡染大筆何淋漓。
點竄堯典舜典字、塗改清廟生民詩。
文成破體書在紙、清晨再拝鋪丹墀。

#4
表日臣愈昧死上、詠神聖功書之碑。
碑高三丈字如斗、負以霊鼇蟠以螭。
句奇語重喩者少、讒之天子言其私。
長縄百尺拽碑倒、麤砂大石相磨治。

#5
公之斯文若元気、先時己入人肝脾。
湯盤孔鼎有述作、今無其器存其辭。
鳴呼聖皇及聖相、相與烜赫流淳熙。
公之斯文不示後、曷與三五相攀追。
願書萬本誦萬遍、口角流沫右手胝。
傳之七十有二代、以爲封禪玉検明堂基。

#1
元和の天子 神武の姿、彼何人ぞや 軒と義
誓って将に上列聖の恥を雪がんとし、法官の中に坐して四夷を朝せしめんとす。
淮西に賊有ること五十載、封狼は貙を生み 貙は羆を生む。
山河に拠らずして平地に拠り、長戈 利矛 日も麾く可し

#2
帝は聖相(せいしょう)を得たり 相は度と日う、賊 斫(き)れども死なず 神 扶持す
腰に相印(しょういん)を懸けて都統(ととう)と作る、陰風 惨澹(さんたん)たり 天王の旗。
愬 武 古 通 牙爪(がそう)と作り、儀曹外郎 筆を載せて随う。
行軍司馬 智且つ勇なり、十四万衆 猶お虎貌のごとし。
蔡に入り 賊を縛りて 大廟に献ず、功は与(とも)に譲る無く恩は訾(はか)られず。

#3
帝 日(いわく) 汝 度よ 功第一なり、汝の従事の愈 宜(よろ)しく辞を為(つく)るべしと。
愈は拝し稽首(けいしゅ)して 蹈(とう)し且つ舞(ぶ)す、金石刻画 臣 能く為さんや。
古者(いにしえ)より世に大手(だいしゅ)筆を称す、此の事 職司に繋(かけ)られず。
仁に 当り ては 古自(いにしえよ)り 譲らざる有り、言い訖(おわ)れば 屡(しばしば )頷く天子の頤(あご)。
公は退(しりぞ)き 斎戒(さいかい)して 小閤に坐し、大筆を濡染(じゅせん)する 何 ぞ 淋漓(りんり)たる、点竄(てんざん)す 堯典(ぎょうてん)舜典(しゅんてん)の字、塗改す 清廟(せいびょう) 生民(せいみん)の詩。
文成り 破体(はたい) 書して紙に在り、精晨(せいしん)に再拝(さいはい)して丹墀(たんち)に鋪(つら)ぬ。

#4
表に 日く 臣愈 昧死して上(たてまつ)る、神聖の功を詠じ之を碑に書せりと。
碑の高さ三丈 字は斗の如く、負わすに霊鼇(れいごう)を以てし 蟠(めぐら)すに 螭(ち)を以てす。
句は奇 語は重 喩(さと)る 者少なし、之を天子に讒(そし)るあり 其の私を言うと。
長縄(ちょうじょう)百尺 碑を拽きて倒し、麤砂(そさ)と大石(たいせき) 相い 磨治(まち)す

#5
公の斯文(しぶん)は元気の若く、時に先んじて己に人の肝脾(かんぴ)に入る。
湯盤(とうばん) 孔鼎(こうてい) 述作(じゅつさく)有り、今 其の器無きも其の辭 存せり。
鳴呼 聖皇(せいこう)と聖相(せいしょう)と、相(あい)與(とも)に 烜赫(けんかく)として 淳熙(じゅんき)を流す。
公の斯文(しぶん) 後に示さずんば、曷んぞ 三五と相(あい) 攀追(はんつい)せん。
願わくは万本を書し 誦(しょう)すること万遍(ばんべん)し、口角(こうかく) 沫(まつ)を流し 右手に胝(たこ)して。
之を七十有(ゆう)二代(にだい)に伝え、以て封禅(ほうぜん)の玉検(ぎょくけん) 明堂(めいどう)の基(もとい)と為さん。


#1
元和の天子 神武の姿、彼何人ぞや 軒と義
誓って将に上列聖の恥を雪がんとし、法官の中に坐して四夷を朝せしめんとす。
淮西に賊有ること五十載、封狼は貙を生み 貙は羆を生む。
山河に拠らずして平地に拠り、長戈 利矛 日も麾く可し

#2
憲宗皇帝の才知英明によって、徳高き宰相のよき輔佐をうけられた。その宰相は、裴度といわれる人である。賊がかつて宰相武元衝を暗殺、裴度も刺客に傷つけられたが、神のご加護があって奇蹟的に助かった。
裴度は腰に宰相の印綬を懸ける身でありながら、自ら元帥として出陣を請うた。裴度元帥の大軍に冬の風が容赦なく吹き付け、天子の御旗は、風に翻った。
四将軍、李愬・韓公武・李道古・李文通たちが、牙と爪の先鋒として攻め入った、礼部員外郎の李宗関もまた戦果を報告しようと、筆を共にして従軍したのだ。
行軍のなかにおいて、請われて副将となった韓愈は、智略に秀れ、且つ勇敢であった。総勢十四万の軍勢すべてが、虎豹のようなつわものぞろいであったのだ。
李愬は雪の降る夜に蔡城を奇襲し、賊の頭目呉元済を生け捕り、佳期ただよう長安に送った。憲宗皇帝は、先祖の廟にそれを報告して、呉元済を斬殺した。准西の乱は平定し、裴度の戦功、功労は比べるものなく秀れ、その恩賞もはかり知れず大きいものであった。

#3
憲宗皇帝はもうされたことは「このたびは汝、裴度が功績第一のものである。」であった、また「汝の部下の韓愈が、碑に刻むべき文章を作らせるがよろしかろう。」と申されたのだ。
韓愈はこの命を最高のものとして受けとめ、唐制にのっとった、拝手稽首の最敬礼と御前に小踊りの礼をしてお答え申し上がたことだった。「金石に刻む文を書くことは天子に代って為さるべきお役目の方々のあることであり、私ごとき行軍司馬のよく為しうる所ではないことでございます。」
「むかしから、世に大文章と称されるものを見ておりますと、筆者は必ずしもその職を司った者とは限ったものではないようであります。それゆえ、天子の命とありますからこのこと誰れ憚ることなく最大の力を注ぎ尽します。」
「『論語』の教えにも、『仁のことをなすに臨んでは、師にもゆずらず』とありますようにいたす所存でございます。」韓愈の意気込みを申しあげて言葉が終ったとき、天子は満足気に幾度もうなずかれたことだった。
かくて、韓愈は朝廷から退出し、沐浴し衣をあらためて身を潔め、集中力を高めて、小座敷に独り坐って筆をとった。大きな筆にたっぷりと墨を含ませ、心を定めて一気呵成に文を書き上げようとしたからだろう。
徳をもって天下を治めた理想的な帝王の書である堯典や舜典の文章、古い雅頚の集である清廟や生民の詩を、改訂して書き改めたかのような、それは古雅で荘重な文章であった。
その字も常識を破った新しい文体で、紙一面に力強く書かれていた。そして、清々しい朝を迎え、大気も澄んでいた、韓愈は参朝し、宮殿の赤き庭、天子の御座の下にそれをひろげたのである。

#4
かくて官府に奉る上奏文を韓愈はかきあげた、それは、「臣韓愈、昧死して上る次第であります」から始まり、「このたびの戦勝の功、即ち天子有徳の証拠である功績を、かくの如く碑文に詠いあげる。」と献上したのであった。
碑石の高さは三丈もあり、その字はまた斗の如く大きなものだった。礎石には神秘な巨亀のかたちが刻まれ、また書に威厳をそえる模様とし周囲にみずちをめぐらしていた。
その一句一句は、常識を超えた独特の表現であり、一語一語がおごそかで重く、そのため、その卓越した表現力を理解できるものが少なかったのだ。特に、李愬の一族は不満をもったようで、よく理解ができないのに、その文章が高が文人ごときの私情にかたよっていると天子に讒言を申しでた。
立されていた百尺もある碑石は長い縄でしばられ倒されてしまったのだった。その上にあらい磨き砂をまいて、碑文を磨滅させてしまい、別の文章をはりなおすということになったのである。

#5
しかし磨滅されたのではあるが、韓愈公の文学はあたかもすべての事象にたいし普遍で根源的に蓄えられた能力であり、それ以前、先人たちが既に人人の心の奥深く刻み込んでいたものなのである。
殷の湯王の盤や孔子の鼎の文などが作られたことや、刻み込まれたことは知られているが、その刻まれた盤や鼎そのものがいまに伝わるということがなくても、その文章、心意気だけは伝わっているように、たとえ磨滅されたとはいえ、韓文公の文章は、金石のように、その命脈をたもつことであろう。
ああ、聖なるものを受け継ぐ天子憲宗皇帝と、聖仁にして賢明なる宰相裴度はともどもある、たがいにその烜赫な偉業をなしとげ、淳き栄光を遍く世に流した。
韓愈公のこの文を後の世に示さなければ、どうして聖皇聖相の勲功が、かの三皇五帝の業と此肩するほどのものであったことを、どうして後世に伝えることができようか。
それ故に、私は写本することを希望したい。この文章を指にたこのできるまでー万通も写しとり、これを口角沫を飛ばして万遍も諭して、後世に伝えたいのだ。
このようにして代々伝わって、この中国に興亡するだろう七十二の王朝に伝えたのだ、だから、韓愈の文を玉の封印の神器とし天地に功業を告げる封禅の盛儀の御神体として、諸侯を謁見する明堂の基礎とするべきだと、私は思うのである。

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薛濤の全詩花間集(1)花間集(2)花間集(3)花間集(4)花間集(5)
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温庭筠66首 花間集1・2巻皇甫松11首 花間集二巻韋莊47首 花間集二巻薛昭蘊19首 花間集三巻牛嶠31首 花間集三・四巻張泌27首 花間集四巻
毛文錫31首 花間集5巻牛希濟11首 花間集5巻欧陽烱17首 花間集5・6巻和凝20首 花間集6巻顧夐56首 花間集6・7巻孫光憲47首 花間集7・8巻
魏承班15首 花間集8・9巻鹿虔扆6首 花間集9巻閻選8首 花間集9巻尹鶚6首 花間集9巻毛熙震29首 花間集9・10巻李珣39首 花間集10巻