行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 149


行次西郊作 一百韻
蛇年建丑月,我自梁還秦。
丁巳の年、即ち開成二年、北斗星の柄が丑の位を指す陰暦十二月のことである。私は(興元に恩人令狐楚の葬儀を終え)、古く梁州とよばれた地から、古くは秦と呼ばれた長安に帰るべく旅立った。
南下大散嶺,北濟渭之濱。
まず南に秦蜀往来の要地、関所大散関を過ぎてその峠道を下り、次に北にすすんで渭水をわたった。
草木半舒坼,不類冰雪晨。
川をわたれば鳳翔府、もう都の近郊なのだが、見渡せる山野の草木は、その半ばが芽生えはじめた、氷がはり雪の降る冬の朝景色らしからない展望となった。
又若夏苦熱,燋卷無芳津。」#-1

その冬の朝景色に似ていないばかりか、また夏の厳しい炎熱に、燋げしおれ、草木はそのかおりと潤いを失ってしまったようなのだ。

高田長檞櫪,下田長荆榛。
丘陵の高い田畑には、役立たずの木、どんぐりだけが繁り、低い田畑に穀物はなく、雑木だけが生い茂っていた。
農具棄道旁,饑牛死空墩。
農民の大切な農具類が、道傍に遺棄されていた、働き手がいなくなって餓え死にした牛の死骸が横わってあたりは荒涼として、人気はまったくなくなっているのだ。
依依過村落,十室無一存。
道すがら心配して心をそこの村に寄せて立ちよってみれば部落は崩壊していた、人人は死んだのか、あるいは逃げたのか、十軒人がいなくて、次の一軒に人が住むという有様なのだ。
存者皆面啼,無衣可迎賓。』
#-2
残っている者たちはみな顔をそむけて泣いている。私が休憩しようとして、門前に近寄っても、客を迎えるべき衣裳はなく揉同然。
始若畏人問,及門還具陳。
右輔田疇薄,斯民常苦貧。
伊昔稱樂土,所賴牧伯仁。
官清若冰玉,吏善如六親。」#-3
生兒不遠征,生女事四鄰。
濁酒盈瓦缶,爛穀堆荆囷。
健兒庇旁婦,衰翁舐童孫。
況自貞觀後,命官多儒臣。』#-4
例以賢牧伯,徵入司陶鈞。


行きて西郊に次る作 一百韻
蛇の年 建丑(けんちゅう)の月、我 梁より秦に還るに。
南のかた大散嶺を下り、北して渭水の浜を済る。
草木は半ば舒坼(じょたく)し、氷雪の晨に類(に)ず。
又 夏の苦熱に、燋(こ)げ巻(しお)れ 芳津(ほうしん)無きが若し。
高き田には檞櫪(こくれき)の長(の)び、下の田には荊榛(けいしん)を長(ちょう)ず。
農具は道旁に棄てられ、餓えし牛は空なる墩(おか)に死せり。」

依依として村落を過れば、十室に一の存するも無し。
存する者は面を背けて啼き、衣の賓を迎う可きもの無し。
始めは人の問いを畏るるが若く、門に及びて 還た具(つぶ)さに陳(の)べたり。


行次西郊作 一百韻 現代語訳と訳註
(本文)

蛇年建丑月,我自梁還秦。
南下大散嶺,北濟渭之濱。
草木半舒坼,不類冰雪晨。
又若夏苦熱,燋卷無芳津。」#-1
高田長檞櫪,下田長荆榛。
農具棄道旁,饑牛死空墩。
依依過村落,十室無一存。
存者皆面啼,無衣可迎賓。』#-2


(下し文) 行きて西郊に次る作 一百韻
蛇の年 建丑(けんちゅう)の月、我 梁より秦に還るに。
南のかた大散嶺を下り、北して渭水の浜を済る。
草木は半ば舒坼(じょたく)し、氷雪の晨に類(に)ず。
又 夏の苦熱に、燋(こ)げ巻(しお)れ 芳津(ほうしん)無きが若し。
高き田には檞櫪(こくれき)の長(の)び、下の田には荊榛(けいしん)を長(ちょう)ず。
農具は道旁に棄てられ、餓えし牛は空なる墩(おか)に死せり。」
依依として村落を過れば、十室に一の存するも無し。
存する者は面を背けて啼き、衣の賓を迎う可きもの無し。


(現代語訳)
丁巳の年、即ち開成二年、北斗星の柄が丑の位を指す陰暦十二月のことである。私は(興元に恩人令狐楚の葬儀を終え)、古く梁州とよばれた地から、古くは秦と呼ばれた長安に帰るべく旅立った。
まず南に秦蜀往来の要地、関所大散関を過ぎてその峠道を下り、次に北にすすんで渭水をわたった。
川をわたれば鳳翔府、もう都の近郊なのだが、見渡せる山野の草木は、その半ばが芽生えはじめた、氷がはり雪の降る冬の朝景色らしからない展望となった。
その冬の朝景色に似ていないばかりか、また夏の厳しい炎熱に、燋げしおれ、草木はそのかおりと潤いを失ってしまったようなのだ。
丘陵の高い田畑には、役立たずの木、どんぐりだけが繁り、低い田畑に穀物はなく、雑木だけが生い茂っていた。
農民の大切な農具類が、道傍に遺棄されていた、働き手がいなくなって餓え死にした牛の死骸が横わってあたりは荒涼として、人気はまったくなくなっているのだ。
道すがら心配して心をそこの村に寄せて立ちよってみれば部落は崩壊していた、人人は死んだのか、あるいは逃げたのか、十軒人がいなくて、次の一軒に人が住むという有様なのだ。
残っている者たちはみな顔をそむけて泣いている。私が休憩しようとして、門前に近寄っても、客を迎えるべき衣裳はなく揉同然。

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(訳注)
行次西郊作 一百韻

行次西郊 西郊は長安の西の郊外、右扶風(鳳翔府に属す)と呼ばれるあたり。この詩は文宗皇帝の開成二年(837年)十二月、興元尹・山南道節度使だった令狐楚の葬儀を終え、興元(陝西省南鄭県)から長安へ帰る途中、鳳翔府一帯が、甘露の変(835年)後、三年を経たのちもなお土地の荒廃し、人心の動揺するのを見て作ったもの。盛唐の詩人杜甫が完成した詩史、すなわち長篇叙事詩の体を継承する詩である。時に李商隠二十六歳。

#1
蛇年建丑月,我自梁還秦。

 丁巳の年、即ち開成二年、北斗星の柄が丑の位を指す陰暦十二月のことである。私は(興元に恩人令狐楚の葬儀を終え)、古く梁州とよばれた地から、古くは秦と呼ばれた長安に帰るべく旅立った。
蛇年 837年、巳の年、文宗皇帝開成二年の干支は丁巳である。○建丑月 建は北斗七星の斗柄の指す位置。それが丑の位を指すのが陰暦十二月。夏暦で建は月を示し丑は12月。○ 興元はもと梁州といった。も長安のあたりを、戦国時代の秦国が長安のすぐ北の咸陽に都した、その古名でよんだのである。


南下大散嶺,北濟渭之濱。
まず南に秦蜀往来の要地、関所大散関を過ぎてその峠道を下り、次に北にすすんで渭水をわたった。
大散嶺 映西省宝鶏県西甫にある秦蜀往来の要地であり、大散関という関所のある山。嶺は横に長くのびた山脈であり、またそこにある峠である。揃の字は一に関に作る。○渭水 陝西省中部の宝鷄県を経ながら東流して黄河と合流する川の名。
 長安洛陽鳳翔馬嵬

草木半舒坼,不類冰雪晨。
川をわたれば鳳翔府、もう都の近郊なのだが、見渡せる山野の草木は、その半ばが芽生えはじめた、氷がはり雪の降る冬の朝景色らしからない展望となった。
舒坼 蕾が開かれるさま。芽生えはじめること。・ ひろがる。ゆったりする。・ さける、 わかれる、 ひらく、 さけめ。

又若夏苦熱,燋卷無芳津。」

その冬の朝景色に似ていないばかりか、また夏の厳しい炎熱に、燋げしおれ、草木はそのかおりと潤いを失ってしまったようなのだ。
燃巻 燃はこげる。巻は草の葉が内にまいてしおれること。○芳津 かおりと潤い。あるいはかんばしい潤い。

#2
高田長檞櫪,下田長荆榛。

丘陵の高い田畑には、役立たずの木、どんぐりだけが繁り、低い田畑に穀物はなく、雑木だけが生い茂っていた。
檞櫪 どんぐりの樹。役立たずの木なのである。○荊榛 いばらとはしばみ。また広く雄木の総称。


農具棄道旁,饑牛死空墩。
農民の大切な農具類が、道傍に遺棄されていた、働き手がいなくなって餓え死にした牛の死骸が横わってあたりは荒涼として、人気はまったくなくなっているのだ。
饑牛 餓えた牛は前の句農具が放置されているで、働き手がいないことをあらわす。 ○空墩 集まりがない、空っぽのさまをいう。人影なきむら。・墩 [量] 植物の叢(むら)や株を数える


依依過村落,十室無一存。
道すがら心配して心をそこの村に寄せて立ちよってみれば部落は崩壊していた、人人は死んだのか、あるいは逃げたのか、十軒人がいなくて、次の一軒に人が住むという有様なのだ。
○依 思い慕うさま。離れがたいさま。ここでは心配して心をそこのむらに寄せること。


存者皆面啼,無衣可迎賓。』#-2
残っている者たちはみな顔をそむけて泣いている。私が休憩しようとして、門前に近寄っても、客を迎えるべき衣裳はなく揉同然。
○背面啼 杜甫の北征の詩に「耶を見て面を背けて啼く、垢臓脚機はかず。」とある表現が多分意識されている。



蛇年建丑月,我自梁還秦。
南下大散嶺,北濟渭之濱。
草木半舒坼,不類冰雪晨。
又若夏苦熱,燋卷無芳津。」#-1
高田長檞櫪,下田長荆榛。
農具棄道旁,饑牛死空墩。
依依過村落,十室無一存。
存者皆面啼,無衣可迎賓。』#-2


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