行次西郊作 一百韻 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 151 #4

これまで掲載している「甘露の変」を題材にしている李商隠の詩。

李商隠 4 曲江

劉司戸二首 其一 李商隠 39 

北斉二首其二 李商隠  45

有感二首 其一 李商隠 101

有感二首 其二 李商隠 102

重有感 李商隠  103

鸞鳳 李商隠 - 111

漫成五章 其四 李商隠 150- 107

燕臺詩四首 其三 秋#1 李商隠- 131



行次西郊作一百韻

蛇年建午月,我自梁還秦。
南下大散關,北濟渭之濱。
草木半舒坼,不類冰雪晨。
又若夏苦熱,燋卷無芳津。」#-1
高田長檞櫪,下田長荆榛。
農具棄道旁,饑牛死空墩。
依依過村落,十室無一存。
存者皆面啼,無衣可迎賓。』#-2
始若畏人問,及門還具陳。
右輔田疇薄,斯民常苦貧。
伊昔稱樂土,所賴牧伯仁。
官清若冰玉,吏善如六親。」#-3
生兒不遠征,生女事四鄰。
そのころは、どこの家でも、男の児を産んだとしても兵役にとられて国境守備にかり出される心配もなく、生れた児が女なら、いずれ近隣に嫁がせて幸せな一生を送らせる事ができたのです。
濁酒盈瓦缶,爛穀堆荆囷。
どこの調理場におかれた素焼の酒瓶には地酒があった。雑木造りの粗末な倉だけど、倉にはよくみのった穀物がうず高く積まれていたのです。
健兒庇旁婦,衰翁舐童孫。
丈夫で屈強な働き盛りの男たちは近隣の女たちをかばうことをしたのです。年寄りは、皆から気遣ってもらい、自分の孫を可愛がってやればいいというものでした。
況自貞觀後,命官多儒臣。』#-4

まして、いわゆる貞観の治といわれる太宗皇帝の御治世から以後というもの、文治政策が採用され、地方長官に任命されるものの多くは正統的な儒教の教養を身につけた文臣でありました。

例以賢牧伯,徵入司陶鈞。
降及開元中,奸邪撓經綸。
晉公忌此事,多錄邊將勳。
因令猛毅輩,雜牧升平民。」#-5
中原遂多故,除授非至尊。
或出幸臣輩,或由帝戚恩。
中原困屠解,奴隸厭肥豚。』#-6

児(おのこ)を生みても遠征せず、女(おみな)を生みては四隣(しりん)に事(とつ)がしむ。
濁酒(だくしゅ)は瓦缶(がふ)に盈(み)ち、爛穀(らんこく)は荊囷(けいきん)に堆(うずたか)し。
健児は旁婦(ぼうふ)を庇い、衰翁(すいおう)は童孫(どうそん)を舐む。
況んや貞観(じょうがん)より後、官に命ぜられるもの儒臣(じゅしん)多し』
例(ためし)として賢なる牧伯(はくばく)を以てし、徴(め)し入れては陶鈞(とうきん)を司(つかさ)どらしむ。




行次西郊作一百韻 #4 現代語訳と訳註
(本文) #4

生兒不遠征,生女事四鄰。
濁酒盈瓦缶,爛穀堆荆囷。
健兒庇旁婦,衰翁舐童孫。
況自貞觀後,命官多儒臣。』

(下し文) #4
児(おのこ)を生みても遠征せず、女(おみな)を生みては四隣(しりん)に事(とつ)がしむ。
濁酒(だくしゅ)は瓦缶(がふ)に盈(み)ち、爛穀(らんこく)は荊囷(けいきん)に堆(うずたか)し。
健児は旁婦(ぼうふ)を庇い、衰翁(すいおう)は童孫(どうそん)を舐む。
況んや貞観(じょうがん)より後、官に命ぜられるもの儒臣(じゅしん)多し』


#4(現代語訳)
そのころは、どこの家でも、男の児を産んだとしても兵役にとられて国境守備にかり出される心配もなく、生れた児が女なら、いずれ近隣に嫁がせて幸せな一生を送らせる事ができたのです。
どこの調理場におかれた素焼の酒瓶には地酒があった。雑木造りの粗末な倉だけど、倉にはよくみのった穀物がうず高く積まれていたのです。
丈夫で屈強な働き盛りの男たちは近隣の女たちをかばうことをしたのです。年寄りは、皆から気遣ってもらい、自分の孫を可愛がってやればいいというものでした。

まして、いわゆる貞観の治といわれる太宗皇帝の御治世から以後というもの、文治政策が採用され、地方長官に任命されるものの多くは正統的な儒教の教養を身につけた文臣でありました。

(訳注) #-4
生兒不遠征,生女事四鄰。

そのころは、どこの家でも、男の児を産んだとしても兵役にとられて国境守備にかり出される心配もなく、生れた児が女なら、いずれ近隣に嫁がせて幸せな一生を送らせる事ができたのです。


濁酒盈瓦缶,爛穀堆荆囷。
どこの調理場におかれた素焼の酒瓶には地酒があった。雑木造りの粗末な倉だけど、倉にはよくみのった穀物がうず高く積まれていたのです。
瓦缶 素焼の土器。○側穀 爛は熟に同じ。みのれる穀物。○荊困 雑木造りの田舎の倉。
 
健兒庇旁婦,衰翁舐童孫。
丈夫で屈強な働き盛りの男たちは近隣の女たちをかばうことをしたのです。年寄りは、皆から気遣ってもらい、自分の孫を可愛がってやればいいというものでした。
健兄 血気盛んな若者。○ かぱう。○旁婦 近隣の女たち。○衰翁 老人、おきな。○童孫 幼い孫。いわゆるローティーン子供が童。

況自貞觀後,命官多儒臣。』
まして、いわゆる貞観の治といわれる太宗皇帝の御治世から以後というもの、文治政策が採用され、地方長官に任命されるものの多くは正統的な儒教の教養を身につけた文臣でありました。
貞観 唐(618年 - 907年)を礎を築いた貞観の治(じょうがんのち)は、第2代皇帝太宗、李世民の治世、627年貞観元年~649年貞観23年)時代の政治を指す。房玄齢・杜如誨の2人を任用し政治に取り組み、建成の幕下から魏徴を登用して自らに対しての諫言を行わせ、常に自らを律するように勤めた。賦役・刑罰の軽減、三省六部制の整備などを行い、軍事面においても兵の訓練を自ら視察し、成績優秀者には褒賞を与えたため唐軍の軍事力は強力になった。これらの施策により隋末からの長い戦乱の傷跡も徐々に回復し、唐の国勢は急速に高まることとなった。この時代、中国史上最も良く国内が治まった時代と言われ、後世、政治的な理想時代とされた。
僅かな異変でも改元を行った王朝時代において同一の元号が23年も続くと言うのは稀であり、その治世がいかに安定していたかが伺える。
この時代を示す言葉として、『資治通鑑』に、「-海内升平,路不拾遺,外戸不閉,商旅野宿焉。」(天下太平であり、道に置き忘れたものは盗まれない。家の戸は閉ざされること無く、旅の商人は野宿をする(それほど治安が良い))との評がある。○儒臣 最も正統的な儒教の教養乞もって君に仕える文官。杜甫は、『行次昭陵』(行くゆく昭陵に次る)(太宗の陵をさす。)貞観の治を「文物多師古,朝廷半老儒。直辭寧戮辱,賢路不崎嶇。」(文物多く古を師とす、朝廷半ば老儒ごと讃えている。直詞寧ぞ戮辱せられん 賢路崎嶇足らず。)この詩は「北征」おなじ旅を別視点で詠ったもの。

太宗李世民:生年599年没年 649年


#5 につづく。

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