行次西郊作一百韻 李商隠 白文 下し文 現代語訳 (全文)26歳の作品

蛇年建午月,我自梁還秦。
南下大散關,北濟渭之濱。
草木半舒坼,不類冰雪晨。
又若夏苦熱,燋卷無芳津。」#-1
高田長檞櫪,下田長荆榛。
農具棄道旁,饑牛死空墩。
依依過村落,十室無一存。
存者皆面啼,無衣可迎賓。』#-2


丁巳の年、即ち開成二年、北斗星の柄が丑の位を指す陰暦十二月のことである。私は(興元に恩人令狐楚の葬儀を終え)、古く梁州とよばれた地から、古くは秦と呼ばれた長安に帰るべく旅立った。
まず南に秦蜀往来の要地、関所大散関を過ぎてその峠道を下り、次に北にすすんで渭水をわたった。
川をわたれば鳳翔府、もう都の近郊なのだが、見渡せる山野の草木は、その半ばが芽生えはじめた、氷がはり雪の降る冬の朝景色らしからない展望となった。
その冬の朝景色に似ていないばかりか、また夏の厳しい炎熱に、燋げしおれ、草木はそのかおりと潤いを失ってしまったようなのだ。
丘陵の高い田畑には、役立たずの木、どんぐりだけが繁り、低い田畑に穀物はなく、雑木だけが生い茂っていた。
農民の大切な農具類が、道傍に遺棄されていた、働き手がいなくなって餓え死にした牛の死骸が横わってあたりは荒涼として、人気はまったくなくなっているのだ。
道すがら心配して心をそこの村に寄せて立ちよってみれば部落は崩壊していた、人人は死んだのか、あるいは逃げたのか、十軒人がいなくて、次の一軒に人が住むという有様なのだ。


始若畏人問,及門還具陳。
右輔田疇薄,斯民常苦貧。
伊昔稱樂土,所賴牧伯仁。
官清若冰玉,吏善如六親。」#-3
生兒不遠征,生女事四鄰。
濁酒盈瓦缶,爛穀堆荆囷。
健兒庇旁婦,衰翁舐童孫。
況自貞觀後,命官多儒臣。』#-4
例以賢牧伯,徵入司陶鈞。


始めはただもう、何かたずねられるのをこわがってびくびくしていたが、私が門前にたどりつくと、これだけどうして荒廃したのか、事の次第を詳しく物語ってきかせてくれた。
みやこ長安より上流で右の輔翼にあたるこの鳳翔は昔からやせた土地で、田畑の収穫は乏しく、このあたりの農民は貧しさにつね日頃から苦くるしんでおりました。と村人は語り始めた。
それというのも、その昔、このあたりが楽土と呼ばれた頃もあったのです。それは地方の長官と監視官が仁徳敬愛の深い方であったからなのです。
政治をなさる長官の方々は、清廉潔白、氷の玉のようであり、役所の書記も善良で自分たちの親族と同じようにしてもらったのです。

そのころは、どこの家でも、男の児を産んだとしても兵役にとられて国境守備にかり出される心配もなく、生れた児が女なら、いずれ近隣に嫁がせて幸せな一生を送らせる事ができたのです。
どこの調理場におかれた素焼の酒瓶には地酒があった。雑木造りの粗末な倉だけど、倉にはよくみのった穀物がうず高く積まれていたのです。
丈夫で屈強な働き盛りの男たちは近隣の女たちをかばうことをしたのです。年寄りは、皆から気遣ってもらい、自分の孫を可愛がってやればいいというものでした。


例以賢牧伯,徵入司陶鈞。
降及開元中,奸邪撓經綸。
晉公忌此事,多錄邊將勳。
因令猛毅輩,雜牧升平民。」#-5
中原遂多故,除授非至尊。
或出幸臣輩,或由帝戚恩。
中原困屠解,奴隸厭肥豚。』#6

通例として、そのうちから、治績いちじるしかった偉い地方の太守を選抜して中央の大臣として召還されることとされたのだ。かくて、地方官はその地の民を恵しむことに励み、国政の大綱も輝かしい文治の方針にそって、その繁栄の道を歩んだのだった。
それから降って約100年後開元の時代、第六代皇帝玄宗在位の頃に汲んでから、よこしまな奸臣が、私利私欲のため国攻の施政方針をゆがめ、規律を乱し始めたのだ。
737年開元二十五年に晋国公に封ぜられた宰相李林甫は、科挙合格者の文官が地方州の長官となり、そのうち功績をあげて名望の高いものをえらんで大臣とするこの慣例が、自らの野望のさまたげとなる英賢な文人を嫌い粛清した。そして辺疆の武将(哥舒翰、高仙芝、安禄山ら)の功績を過大に評価して記録し、上申して武将を文官以上に重く用いることにしたのである。
そのため、安縁山ら、異民族出身のたけだけしい将軍たちが節度使となり、平和な中國の人民を無秩序に支配するという事態がおこった。
天下の中心である京畿とその近辺の中原には、やがて禍が数多く起り、官吏の任免も、至尊の人たる天子の手でなされるのではなくなったのだ。
或いは媚びへつらい、賄賂によって宰相となった者(例えば李林甫)、或いは、身内から皇后を出して高位を得た者(例えば楊国忠)たちの任意にゆだねられたのである。

天下の中心である京畿とその近辺の中原には、やがて禍が数多く起り、官吏の任免も、至尊の人たる天子の手でなされるのではなくなったのだ。
或いは媚びへつらい、賄賂によって宰相となった者(例えば李林甫)、或いは、身内から皇后を出して高位を得た者(例えば楊国忠)たちの任意にゆだねられたのである。
かくて中原の人民は身を八つ裂きにされるような苦しみをなめ、それに反して遊牧奴隷の輩、かの安禄山らは豪華な食事に満腹するといった状態となったのだった。



皇子棄不乳,椒房抱羌渾。
重賜竭中國,強兵臨北邊。
控弦二十萬,長臂皆如猿。
皇都三千里,來往同雕鳶。」#-7
五里一換馬,十里一開筵。
指顧動白日,暖熱回蒼旻。
公卿辱嘲叱,唾棄如糞丸。』#-8


楊貴妃が玄宗の寵愛をいいことに、李林甫は生れてくる正腹の嫡子は棄てられて育てなかった、(太子瑛、鄂王瑤、光王琚は讒殺され)異常な事に安禄山とわむれに親子のちぎりを結ぶ有様で、禁男の後宮、山椒を塗りこめたその居間で、脱生日を祝うことによせて、安禄山を錦織りのおむつで包み、宮女達にかつがせて楊貴妃は遊びたわむれた。
安禄山への寵愛、信任は日常的にあつく、手厚い賜物はほとんど国中の富を使いつくすほどひどかった。その上、范陽節度使、河北道採訪処置使、河東節度使と、次次に節度使を兼任し、遂に北辺一帯、三道の広大な地域に彼の部下の兵が駐屯し、安禄山がそれに君臨した。
范陽の幕府には強い弓をひく士人騎兵二十万が養われていた。野蛮な兵士たちは強い弓に腕をきたえて、かいなが長く、みな猿のような体格で太刀打ちができないものだった。
皇都長安にいたるまでの道のり三干里、参勤する安禄山の隊列は、くまたか、鳶のごとく往還して土地、土地のみつぎ物を吸いあげてゆくのである。

あまりの肥満で馬を取り替える安禄山のために、五里ごとに換馬台が築かれた、十里ごとに、彼等が休憩する時には、街道の長官たちに接見し鐙をのべて、山海の珍味をつらねて饗応したのだった。
 その勢力の盛んになりとめどがなくなっていた、彼が指さしつつ首をめぐらせば、西に沈む太腸も逆行させた、彼の熱気は自然の運行を逆転させ、秋の空を春にかえすといわれたものである。
朝廷の大臣や公卿は、安禄山の嘲笑と叱責にはずかしめられたのだ、それは糞団子のように唾棄されるがままになっていたのだ。


大朝會萬方,天子正臨軒。
采旂轉初旭,玉座當祥煙。
金障既特設,珠簾亦高褰。」#-9
捋須蹇不顧,坐在禦榻前。
忤者死艱屨,附之升頂顛。
華侈矜遞衒,豪俊相並吞。
因失生惠養,漸見征求頻。』#-10

年に二度、元旦と冬至に催される大朝の儀式、天下の州と郡からの使者を宮廷に謁見する時のことだ、天子は庭に面する宮殿の軒端近くに臨席された。
五彩に色彩られた霓旌(げいぜい)は朝日の光をうけてひるがえり、天子の座の両側に据えられた香炉からめでたい香煙がたちのぼった。
その左に金鶏模様の大屏風が特別に前もって設けられてある。屏凰の前に帷があり、真珠を糸で貫いた簾が、高くかかげられていた。

范陽節度使安禄山はそこへおもむろに胡人特有の長い顎ひげを指先でこねまわしながら、ふてぶてしい、これ以上ない威張り腐った態度で居並ぶ群臣の順序を顧みずに登場してくるのだ。天子の席の前、ほとんど天子と桔抗する高座に太っていること良いことにして悠悠と坐るのである。
もし安禄山にさからう者あれば、身分の如何にかかわらずたちどころに圧死するまで靴で踏みつけられるのだ。彼に媚を売り、おもねるものは高位にまで出世できる生殺与奪を握っているのだ。
当時、長安の都に華美は蔓延し、楊氏一族や安禄山らは、邸宅の華麗さや奢侈を互に誇り、次々みせびらかしあった。それにならって地方の強い勢力を持つ節度使らは、安禄山の三道兼制と争うかのように、その富を独占し、吸い上げたのである。
このようにして、民を愛しみ養うべき攻治の本道は完全に消失し、中央の財政は困窮し、それを補うために次第に賦税を重くし、ひんぱんに課していき始めたのだった。



奚寇西北來,揮霍如天翻。
是時正忘戰,重兵多在邊。
列城繞長河,平明插旗幡。
但聞虜騎入,不見漢兵屯。
大婦抱兒哭,小婦攀車轓。」#-11
生小太平年,不識夜閉門。
少壯盡點行,疲老守空村。
生分作死誓,揮淚連秋雲。
廷臣例獐怯,諸將如羸奔。
爲賊掃上陽,捉人送潼關。』#-12


天宝十四年十一月、遂に安禄山は范陽に叛し、同年十二月洛陽を落とし天宝十五年六月奚人の叛乱軍が長安城西北の開遠門、光化門、芳林門から攻め入った。そのすばやい霍乱は、天地を転倒させるかのようにすさまじいものであった。
この時、天下は100年間も続いた太平に慣れ、戦を忘れてそなえなかったのだ、参軍師団のほとんどが、辺疆防御軍にあてられ配置されていた。
渭水の河畔には数多く城郭がつらなり河をめぐらして威容を誇っていた、一朝にして叛乱軍に占領され、城樓高台にさしはさまれる旗はことごとく安禄山の軍旗となったのだ。
この段階で、伝令の報告や人の噂は、どこもかしこも叛乱軍の騎兵が侵人したというものばかりになった。近郊の郡県のどこ一つとして唐王朝の正規軍の駐屯するのは見られなかったのである。
全てのものが逃げまどい、上の嫁はわが児を抱いて声あげて泣き叫び、下の嫁は、退避する官車の被いにしがみつき、「置いていくな」、と取りすがり泣きわめいたという。

思い起こせばその昔、天下太平であった、この鳳翔の住民は夜、戸締りをしなければいけないということ意識することはなかったのだ。
だが今は、青壮年の者たちはことごとく徴兵され、ただ疲れはてた老人が、空虚になった村を守っているだけなのだ。
村に残ったものができることは、散り散りばらばらに別れて暮らしても、死ぬ時だけは一緒に死のうと誓い合うことだけなのだ。流れ落ちる涙を振り払ったら、ちょうどその時、秋の空に浮ぶ雲だけがずっと連なっているのだった。
叛乱軍に対して、朝廷の下臣、官僚らは、臆病な小鹿のように怯えばかりであった、都と王朝朝廷を守るべき北司と南司の近衛師団は、やせ羊が野原に散らばるように逃げ去ったのである。
残った軍隊や官吏らは、叛乱軍のために洛陽の宮殿を掃き清めてあけわたし、叛乱軍の侵人をたすけた。次に長安城に入った叛乱兵は、略奪、強奪し、官民、老若、男女を問わず人を捉えてはたきかん潼関の方へと送り込んだのである。


玉輦望南鬥,未知何日鏇。
誠知開闢久,遘此雲雷屯。
送者問鼎大,存者要高官。
搶攘互間諜,孰辨梟與鸞。
千馬無返轡,萬車無還轅。」#-13
城空鼠雀死,人去豺狼喧。
南資竭吳越,西費失河源。
因今左藏庫,摧毁惟空垣。
如人當一身,有左無右邊。
觔體半痿痺,肘腋生臊膻。』#-14

756年天宝十五年六月十三日。玄宗は遂に都を棄てて、未明に南斗を望みつつ、蜀の地方へと御車を走らせたのだ。あわただしく落ちのびるその路行きは、常の巡幸にはあらず、ひとたび逃避したならば、今度はいつ、都にかえってこられるかはわからないのだ。
こうして新たな天地において天子が遷都されることになるのは、唐王朝の建国より以来はじめてのことであると認知したのだ、これは雷雲が群れて時期を待っているようにいったんは逃げるが、沈黙を保って計画を見せず、体制を整え奪還するということだ。
この玄宗に従った臣下は唐王朝も見限って、天子の権威を落し、またあわよくばとって代ろうと考えるのがでた、都に残ったものは、安禄山の偽攻府に仕え、ただ高い官位を求めていた。
このような混乱のさなかには、人というもの、互に相手の行動を探り合う。だが誰が悪鳥か神鳥か、だれが誠実であり誰が腹黒い人間であるかを見分ける事はできはしない。

街は人影なく荒涼として、荒田には、穀物の残りもつきて、ねずみやすずめも餓死した。人の去ったあとには、荒野や山にすむ猛獣が出て来て、豺や狼が叫びあい、そのこえはひとしお喧(かしま)しいものであった。
今まで、長安へは運河により南から食物や塩鉄などの必需物資が搬び込まれた、西方の異国からは、シルクロードで数知れぬ衣服や装飾などの貢物や貿易品がもち込まれていた。
それで、安史の乱でそれらの資源も、南は呉越の地方で使いはたし、略奪され、その中で、西に向けられた資物は黄河の源のあたりで、吐蕃に横領されて、左の蔵庫に搬入されないのだ。右の国庫は、百姓の乱入するにまかせて、唯空しき垣だけを残し、もはや再びその蔵に貢物や財宝のおさめたものがなくなったのだ。
租庸調という賦税の事は、戦禍が一応おさまれば、元通り履行されたので、左の藏庫には資財は確保されていったが、それは人間の体に喩えれば、左半分が有って右半分の無い片輪のようなものであった。
體の筋肉の半分が搾れて、痺れた、半身不隨、自由のきかぬ片方のひじや脇はかさぶたができ、そこから膿みがでている、その上その膿がなま臭い悪臭を発したのか、なま臭い異民族の輩の匂いなのかが周辺に漂っていた。



列聖蒙此恥,含懷不能宣。
謀臣拱手立,相戒無敢先。
萬國困杼軸,内庫無金錢。
健兒立霜雪,腹歉衣裳單。」#-15
饋餉多過時,高估銅與鉛。
山東望河北,爨煙猶相聯。
朝廷不暇給,辛苦無半年。
行人搉行資,居者税屋椽。』#-16

行人(こうじん)は行資(こうし)を搉(かく)せられ、居者(きょしゃ)は屋椽(おくてん)に税あり

それ以後、歴代の天子。第七代粛宗(711―762年)第八代代宗(727-779年)第九代徳宗(742-805年)第十代順宗(761-806六年)第十一代憲宗(778-820年)は、安史の乱がもたらした藩鎮の割拠による混乱に、至上なるべき権威を失墜する恥辱をこうむった。歴代の天子の心中には、なんとか国権の回復を計り恥辱をすすごうとする思いが一杯になっていたのだが、それは実行には移せず、思召はただ心にわだかまるだけで、逆に媚薬に活路を求めた。
軍攻参議の将軍も、ふところ手して、茫然と立ちつくすばかりであり、しりごみして互いに警戒し合い、牛李の闘争として目先の権力争いをし、率先して国威回復の建議を奉る者はいなかった。実質、宦官勢力により、政治は動かされた。
布を織るには、はたおり機の抒と軸とが規則正しく働かねばならぬ。国家の財政も同様、支出と収入の辻棲が合わねばならないのだ。そして、天下はその運営に窮し、国の左右の蔵には宝物、食料、金銭すべてなしというありさまになっている。
集められた義勇軍の兵士は、霜降り雪ちらつく寒天の下に、すき腹をかかえ、夏服を着て立ち向かわなければならないのだ。

供給される兵糧も多くはその時期を逸したのである。物価は高騰し、鉛の上に銅をかぶせた悪幣の乱発は一層インフレに拍車をかけた。
山東一帯から河北のあたりを眺めてみた、安禄山の家臣や子孫がなお君臨するその地方では、家々からかまどの煙が互につらなって立ちのぼるのが見えたのである。
本来朝廷の地域としての京畿とその近辺は、官も民ももれなく困窮になりそれも甚だしく、朝廷はいきつくひまもない有様であった。辛苦して応急策を講じたが年の半ばに尽き果てるものでしかなかった。
王朝は課税対象をやたらに広げ、行商人や運送業者は、通行税をとられたのである、また新たな家屋税では垂木一本の長さごとに、税を計上された。


中間遂作梗,狼藉用戈鋋。
臨門送節制,以錫通天班。
破者以族滅,存者尚遷延。
禮數異君父,羈縻如羌零。」#-17
直求輸赤誠,所望大體全。
巍巍政事堂,宰相厭八珍。
敢問下執事,今誰掌其權。
瘡疽幾十載,不敢扶其根。
國蹙賦更重,人稀役彌繁。』#-18


そののち、あげくのはてに節度使はかすめ取った富で私兵を雇った。そして、ついに朝廷にそむいて武力を乱用するようになるのである。
一方、朝廷はこうした節度使に、わざわざ宮中より使いを派遣し、その軍門の力関係によって節度使に官位を授け、その徽章である旗をおくった。おくられる爵位、それは天子に直接、接することのできる高い位だったのである。
反抗して失敗した節度使たいしては、一族連座して洙滅はされたものもいる。しかし、生きのがれた者は日ごとに力をつけていってもとのようになったのだ。
社会の秩序には正しい順位がある、その位が異なれば礼の様式をも異にする区別によって支えられるものなのだ。もはや序列は崩壊した、臣王のような節度使と天子の皇帝との区別が殆どなくなり、中央に対する関係は、西方の異民族の国羌零のような半独立国のようなものとなった。

心からの忠誠を、たとえ要求してもどうしてそれが果されよう。現実には、形だけの平衡、ともかくも朝廷が存続されることで満足するより仕方がなかったのである。
高く徳の高く尊いものである行攻の殿堂である、しかし、なに一つ実際の政治の討議もされず、大臣たちはただ八種の珍味に満腹しているだけなのである。
あえて私は書記官に問うてみたいと思う。それは為政の権は一休誰が掌握しているのか、いま天子の下にいて攻事をつかさどる大臣諸氏は、一体何をしているのか、ということなのだ。
できものが膿み、潰瘍となって国家を苦しめる状態は、もう幾十年続いてしまっている。それにも拘らず、勇気をふるって、禍の根をその根もとからりさとろうとする者もいない。
国家の実質支配の版図は年を追って縮小していった、残った土地に課せられる税は一層重くなっていった。人民が原籍をはなれて流民となり、死亡するにつれ、残った者への労役義務はますます比重を増していき、賦税徴収の回数が頻繁になっていくのもむしろ当然のことになった。



近年牛醫兒,城社更扳援。
盲目把大旆,處此京西藩。
樂禍忘怨敵,樹黨多狂狷。
生爲人所憚,死非人所憐。
快刀斷其頭,列若豬牛懸。」#-19

鳳翔三百里,兵馬如黄巾。
夜半軍牒來,屯兵萬五千。
鄉里駭供億,老少相扳牽。
兒孫生未孩,棄之無慘顏。
不複議所適,但欲死山間。』#-20


少し前近年のことだ、田舎獣医の子供であったものが口を巧みにあやつった鄭注は、宦官どもにとり入って、政治の場によじ登ったのだ。
盲目に等しい極度の近限というだけでなく、加えて何らの先見もなく政策をも知らすに節度使となり、大旗を翻えして、この帝都の西のまもりである鳳翔の地に赴任して来た。
彼は派閥争いに割り込んで人が失敗や禍にあうのを楽しんだ、私利私欲の節度使や宮廷に巣喰う宦官など、朝廷にとっては怨敵であるはずの者達を敵として戦うことなどをあたまから忘れてしまった。また鄭注のたてた党派に属するものどもは観念的な事ばかりのことをいうものや、その反対にやみ雲にやろうとするものが多かった。
企まれたクーデターは失敗し、急ぎ長安に攻め入ろうーとした彼の軍隊は監軍使にだまし討ちされ、見事な切れ味の刀に彼はその頭をはねられた。その首は、あたかも豚や牛の首のように、死刑場にさらしものにされたのである。

鳳翔から長安に至るまで、凡そ三百里の間は、しかしその甘露の変のために無政府状熊におち入り、ならず者は群盗と化し、農民一揆は乱発し、あたかも漢末の黄巾の乱のように、兵馬が駆けめぐったのだった。
真夜中に軍部からの指令が村にとどいたのであるが、それは、一万五干の王朝の軍が駐屯するというしらせであったが、同時にそれは村人の負担になるのだ。
村人にとって、兵糧米の供出に、村里は愕然とせねばならなかった。命令に従う以外にはないからである。老人と幼少年の者、それら辛うじて村に居残っていたものたちは前後で手をひき合って逃亡するしかなかった。
逃民は生れてまだ乳ばなれせぬ嬰児を足于まといになるということで路傍に棄て去り、しかも、それを悲しむ表情をすら失っていた。
どこへ行けばよいのかを相談すこともないままに、ただもう、兵戈にかかるよりは、山の中で餓え死にした方がましであると、逃避したのである。



爾來又三歲,甘澤不及春。
盜贼亭午起,問誰多窮民。
節使殺亭吏,捕之恐無因。
咫尺不相見,旱久多黄塵。」#-21

官健腰佩弓,自言爲官巡。
常恐值荒迥,此輩還射人。
愧客問本末,願客無因循。
郿塢抵陳倉,此地忌黄昏。』#-22


その事がございましてから、今年でもう三年になりますが。自然のうるおいを受けていた沢地もいまだに、耕せず田畑にならなくて春の季節に間にあいそうにないのです。
治安は改められず、白昼堂々と盗賊は横行するのです。その盗賊は、みんな食いつめた難民のなれの果てなので誰と問うことができましょうか。
節度使は責任上、宿場の駐在所所員をひっとらえて殺します。盗賊を捕えようとしたところで、到る所にいるのです。その窮民達、どうして、捕縛することができるというのでしょう。 
旱天続きで黄土は乾燥しているので、ただでさえ埃がまっているのに、風吹けば黄塵で、一寸先も見えなくなるのです。

州軍の兵士達は腰に弓矢をおび(携帯)て、お上のために巡察しているのだと自分では申しております。
けれども、人里離れた荒地にまいりましたなら、日常的に恐ろしいことするのです。この兵士達が逆に人を射殺して、盗賊人となるのです。
旅人のお方、この有様、この現状に至った顛末を理解してくれたことを、かたじけなく思います。そして、願わくは、ぐずぐずして一向に改めようとしないこの現状が何とかならないでしょうか。
いまだに夕暮れ時からが禁物なので早く移動してください。



我聽此言罷,冤憤如相焚。
昔聞擧一會,群盜爲之奔。
又聞理與亂,在人不在天。
我願爲此事,君前剖心肝。」#-23

叩頭出鮮血,滂沱污紫宸。
九重黯已隔,涕泗空沾唇。
使典作尚書,廝養爲將軍。
慎勿道此言,此言未忍聞。』#-24


私はこの話をしっかりと聴き終えた、宦官の軍隊は叛乱の罪ないものへ災禍を与えた。こうむった者の恨みと、災厄をもたらした者への憤怒が胸の内に燃え上がるように高まるのを覚えたのだ。
春秋戦国時代に、晋の景公は士会を技擢して中軍に将とした時、晋国に横行した盗賊らは、士会の噂を聞いただけで秦の国へ逃亡したというのである。
名将が采配をふるえば、今のこの局地的な鳳翔の混乱であれば、治まらぬはずはないものである。また、国家の平和と動乱は、政治をつかさどる天子、宰相の責任である。超越的な天の意志や力で左右されるというものではないのである。
わたしは願っていることがある、それは、超自然の力にはよらず、天子によってよくも悪しくもなる政治の次第を建て直すことにある。非力ではあるけれども、天子の御前で、このことのために胸の奥底を開いて内なる誠心をあらわしたいということなのだ。

私は天子の叱責をこうむるのも覚悟の上、床に額をうちつけて、甘露の変の血とは違い清らかな朱血を流し、涙ともども、天子政庁の殿堂を、その血と涙の玉で彩りたいとおもうのです。
天子のおわす官殿は以前よりすでに九重の門を固く閉ざして王朝の雰囲気はうす暗く重いものになっている、誠心あるおおくの官位低き者を隔てて近寄せられない状況なのです。流れ落ちる涙、鼻水は、まだ何事をも心にしまい、建議すらできない、今はただおのれの唇を空しく濡らすに過ぎないというものです。
今は学問も正義も不用、ただ僥倖姦智(ぎょうこうかんち:悪知恵―おべっか、賄賂、女などにより成り上がること)によって、役揚の小役人が最高宰相となり、軍陣の飯たきが成りあがって将軍になる時世となっているのです。
村人よ、よく教えてくれた、私も常々そうおもっていたが、もう二度とこうした話をされてはいけない。理解をしているからこそ、これ以上これを話されると辛くなるばかりなのでもうこれ以上聞けないのだ。