唐宋詩188 Ⅱ韓退之(韓愈)紀頌之の漢詩ブログ

韓退之(韓愈)はじめに
2012年1月~3月の掲載予定の詩を下に示す。  韓退之(韓愈)の詩は長いものが多く、雜になることを避けるため、八句四韻をきほんとして分割して掲載していくものとなる。韓退之のブログ全体の約1/3位であろうか。



詩題名(韓退之25歳から40歳程度までの詩)
出門   
北極贈李觀
長安交遊者贈孟郊
重雲李觀疾贈之
汴州亂其一
汴州亂其二
此日足可惜贈張籍
忽忽
歸彭城
将歸贈孟東野房蜀客
山石
落歯
湖中
答張十一功層
縣齊有懐
題木居士二首
酔後
宿龍宮灘
八月十五日夜贈張功曹
赴江陵途中寄贈王二十補闕李十一拾遺二十六員外翰林三学士
岳陽楼別霅司直
南山詩


官僚試験を受けるということは、中央官僚の書生となって青田刈りをされていた。これまでの李商隠のブログで試験そのものにも高級官僚の影響があり、党派、派閥が決まっていた。杜甫の時代は、武則天の時代より、結構公正な試験がなされ、及第した官僚がまず地方で実績を残したものが中央でも登用された。その良いシステムが、玄宗、李林甫の時代から狂い始め、李商隠の時代では、完全に形骸化していた。ちょうどその中間的な時代が韓退之(韓愈)の時代である。
韓退之はこの崩れかけていく官僚の腐敗に対して自分の道を歩いていくということを決意する。

 これまで掲載した李商隠(2011.7~2012.1―李商隠150)は科挙試験の時期甘露の変を体験し、夢を完全に失ってしまったのであるが、韓退之の頑固な、道を究める生き方、文人武士のリーダー的存在である。このブログでを約半年弱の予定で見ていくことになる。



韓退之 概略
768年(大暦3年) - 824年(長慶4年)享年57歳 鄧州南陽(今の河南省孟州市)の人であるが、昌黎(河北省)の出身であると自称した。涙を見せない詩人である。諡によって「韓文公」ともよばれる。
3歳のとき父を、14歳のとき兄を失って兄嫁の鄭氏に養われ、苦労して育った。792年(貞元8年)に進士に及第する。その後、監察御史、中書舎人、吏部侍郎(この官によって「韓吏部」とも呼ばれる)、京兆尹などの官を歴任した。

818年(元和13年)、30年に1度のご開帳に供養すればご利益があるとして信仰を集めていた鳳翔(陝西省)法門寺の仏舎利が、長安の宮中に迎えられ、供養されることとなった。819年(元和14年)、それに対して韓愈は、『論仏骨表』を憲宗に奉って諌言した。結果、崇仏皇帝であった憲宗の逆鱗に触れ、潮州(広東省)刺史に左遷された。

翌820年、憲宗が死去して穆宗が即位すると、再び召されて国子祭酒に任じられた。その後は兵部侍郎・吏部侍郎を歴任し、824年に死去した。礼部尚書を追贈された。

韓愈は、六朝以来の文章の主流であった四六駢儷文が修辞主義に傾斜する傾向を批判し、秦漢以前の文を範とした古文復興運動を提唱し、唐宋八大家の第一に数えられている。この運動に共鳴した柳宗元は、韓愈とともに「韓柳」と並称される。

古文復興運動は、彼の思想の基盤である儒教の復興と一体化しているものであり、その観点から著された文章として、「原人」「原道」「原性」などが残されている。そのための排仏論も、六朝から隋唐にかけて儒教に対する嫌気と崇仏の傾向を斥け、中国古来の儒教の地位を回復しようとする、彼の儒教復興の姿勢からきたものであった。その傾向を受けついだのは高弟の李翱である。詩人としては、新奇な語句を多用する難解な詩風が特徴で、平易で通俗的な詩風を特徴とする白居易(別ブログ李白、次に王維の後、掲載予定)に対抗する中唐詩壇の一派を形成した。グループには孟郊・張籍・李賀・王建・賈島など「韓門の弟子」と称する詩人たちを輩出したのである。


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