此日足可惜贈張籍 唐宋詩-214Ⅱ韓退之(韓愈) 紀頌之の漢詩ブログ 韓愈特集-15-#8

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此日足可惜贈張籍(愈時在徐籍往謁之辭去作是詩以送)((此の日惜しむ可きに足る 張籍に贈る 韓愈)
門人の張籍も無事で、訪ねて来てくれた。韓愈もようやく心の落ち着きを取りもどしたらしい。張籍の去るにあたって、彼は次の詩を贈った。
長い詩であるが、汴州の乱について韓愈の抱いた思いと彼の行動がよくみえる。またこのころには、愈の周囲に孟郊・張籍・李翺・ (賈島)などの人々が集まり、韓門が形成されていたようだ。

この頃の韓愈、孟郊、張籍の年譜。
796年 董晋の招きで宣武軍節度使の幕府に入る。
797年 病気のため一時求職。
    孟郊が来る。
798年 同所で進士科の予備試験員。
    張籍、この試験合格者の中に有る。
799年 董晋歿す。汴州の乱
    徐州武寧軍節度使 張建封の幕府に入る。
    韓愈、命受けて長安へ。孟郊、呉、越を遊覧。

#7まで
葬送の行列に変事の知らせがとどいたのは、偃師(洛陽の東方)に到着したときであった。葬列には戦闘の準備はしないもので、攻撃をかけられる心配もないかもしれないが、葬列はパニック状態になったが、予定どおり、虞郷を目指して進むほかはなかった。誰もが家に残した家族が心配であった。韓愈は、このとき妻を迎えており、長女も生まれていた。まだ乳呑み子である。当然、反乱を起こした兵士たちは、女子供を相手にしないはずではあるが、治安の保てなくなった汴州に限らず、どこでも変事があると、略奪、盗賊が出現する。愈の心配はつのった。

此日足可惜贈張籍 #8
我時留妻子,倉卒不及將。相見不複期,零落甘所丁。
驕兒未絕乳,念之不能忘。忽如在我所,耳若聞啼聲。
中途安得返,一日不可更。」7
俄有東來說,我家免罹殃。
そのうちに思いがけず、東の方からの情報が伝わってきて、それによると私の家族は災難にあうのを免れたというのだ。
乘船下汴水,東去趨彭城。
船に乗って汴水運河を下っていって、東へ行き彭城にまで避難したという。
從喪朝至洛,還走不及停。
私は喪葬のしきたりにのっとり、翌朝 喪列について洛陽まで行ったのだ、その上で、ひと休みするひまもなく引き返した。
假道經盟津,出入行澗岡。
通行の許可をもらって盟津(孟津に同じ)を経由し、見え隠れしながら谷や岡を越えて行くのだった。
日西入軍門,羸馬顛且僵。」8
そして日が西に傾いたころ河陽節度使(本拠地は河南省孟県の西)の門を入ったとき、私の乗馬は疲れはて、物につまずいて倒れてしまった。

主人願少留,延入陳壺觴。卑賤不敢辭,忽忽心如狂。
飲食豈知味,絲竹徒轟轟。平明脱身去,決若驚鳧翔。
黄昏次汜水,欲過無舟航。」9

#7
我 時に妻子を留むるも、倉卒(そうそつ) 将(ひき)いるに及ばず。
相見んこと復た期せず、零落(れいらく) 丁(あた)る所に甘んぜん。
驕兒(きょうじ) 未だ乳を絶たず、之を念(おも)うて忘るる能わず。
忽(こつ)として我が所に在るが如く、耳に啼く声を聞くが若く。
中途にして安(いず)くんぞ返るを得ん、一日も更(あらた)む可からず。

8
俄(にわ)かに東來の説有り、我が家は殃(おう)に罹(かか)るを免る。
船に乗って汴水を下り東に去って彭城に趨(はし)ると。
喪(そう)に従って朝に洛に至り、還走(かんそう)して停(とど)まるに及ばず。 道を仮りて盟津(もうしん)を経(へ)、 出入して澗岡(かんこう)を行く。
日西にして軍門を入れば、羸馬(るいば)顛(つまづ)きて且つ僵(たお)る

9
主人少(しばら)く留まらんことを願い、延(ひ)き入れて壺觴(こしょう)を陳(つら)ぬ。
卑賤(ひせん) 敢て辞せず、忽忽として心狂えるが如し。
飲食 豈味わいを知らんや、 糸竹 徒(いたず)らに轟轟たるのみ。
平明 身を脱して去る、決として驚鳧(きょうふ)の翔るが若し。
黄昏 汜水(しすい)に次(やど)り 過ぎんと欲するに舟航無し。
韓愈の地図00

現代語訳と訳註
(本文)

俄有東來說,我家免罹殃。
乘船下汴水,東去趨彭城。
從喪朝至洛,還走不及停。
假道經盟津,出入行澗岡。
日西入軍門,羸馬顛且僵。」8

(下し文)
俄(にわ)かに東來の説有り、我が家は殃(おう)に罹(かか)るを免る。
船に乗って汴水を下り東に去って彭城に趨(はし)ると。
喪(そう)に従って朝に洛に至り、還走(かんそう)して停(とど)まるに及ばず。 道を仮りて盟津(もうしん)を経(へ)、 出入して澗岡(かんこう)を行く。
日西にして軍門を入れば、羸馬(るいば)顛(つまづ)きて且つ僵(たお)る


(現代語訳)
そのうちに思いがけず、東の方からの情報が伝わってきて、それによると私の家族は災難にあうのを免れたというのだ。
船に乗って汴水運河を下っていって、東へ行き彭城にまで避難したという。
私は喪葬のしきたりにのっとり、翌朝 喪列について洛陽まで行ったのだ、その上で、ひと休みするひまもなく引き返した。
通行の許可をもらって盟津(孟津に同じ)を経由し、見え隠れしながら谷や岡を越えて行くのだった。
そして日が西に傾いたころ河陽節度使(本拠地は河南省孟県の西)の門を入ったとき、私の乗馬は疲れはて、物につまずいて倒れてしまった。


(訳注) #8
俄有東來說,我家免罹殃。

俄(にわ)かに東來の説有り、我が家は殃(おう)に罹(かか)るを免る。
そのうちに思いがけずも、東の方からの情報が伝わってきて、それによると私の家族は災難にあうのを免れたというのだ。
罹殃 災難に遭う。汴州の乱の渦中にある。幕府の重臣の家族であるため、反乱者に危害を加えられる可能性があった。また、乱に紛れて、強盗が出没するものである。
  
乘船下汴水,東去趨彭城。
船に乗って汴水を下り東に去って彭城に趨(はし)ると。
船に乗って汴水運河を下っていって、東へ行き彭城にまで避難したという。
汴水 滎陽(けいよう河南省鄭州市)の近辺で黄河はたびたび氾濫を起こした。前漢のとき、武帝が大規模な堤の改修工事を行っているし、後漢になっても二度にわたってやはり大規模な治水工事をおこなっている。ここから黄河の下流に向かっておよそ千里にわたって堅固な石積みの堤を築いたものである。堤の高さは一丈もあったが、所によっては高さは五丈にもなり、まるで城壁である。それゆえに金城湯池のように堅固な堤の意味をこめて金堤(きんてい)と呼ばれていた。
 黄河の勢いをそらすために、滎陽の東北から黄河の水を東南に引く水路をうがった。この水路は滎陽の東北あたりを汴水あるいは汴渠(べんきょ)と呼んでいる。実に長大な人工の川で絵図では墨縄で計ったにまっすぐに伸びている。この水路は総じて鴻溝水(こうこうすい)というが、中ほどからは官渡水と呼びならわされていた。○彭城 江蘇省徐州。
  
從喪朝至洛,還走不及停。
喪(そう)に従って朝に洛に至り、還走(かんそう)して停(とど)まるに及ばず。
 私は喪葬のしきたりにのっとり、翌朝 喪列について洛陽まで行ったのだ、その上で、ひと休みするひまもなく引き返した。
  
假道經盟津,出入行澗岡。
道を仮りて盟津(もうしん)を経(へ)、 出入して澗岡(かんこう)を行く。
通行の許可をもらって盟津(孟津に同じ)を経由し、見え隠れしながら谷や岡を越えて行くのだった。
孟津 河南省 孟津県、洛陽の東。  


日西入軍門,羸馬顛且僵。」8
日西にして軍門を入れば、羸馬(るいば)顛(つまづ)きて且つ僵(たお)る
そして日が西に傾いたころ河陽節度使(本拠地は河南省孟県の西)の門を入ったとき、私の乗馬は疲れはて、物につまずいて倒れてしまった。
羸馬 乗っている馬がつかれること。○テン  てっぺん。物の先端。「顛末/山顛」。  逆さになる。ひっくり返る。○ たおれる。面(おもて)を改める,表情をひきしめる.


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