此日足可惜贈張籍 唐宋詩-219Ⅱ韓退之(韓愈) 紀頌之の漢詩ブログ 韓愈特集-20-#13


此の日惜しむ可きに足る 張籍に贈る 韓愈
門人の張籍も無事で、訪ねて来てくれた。韓愈もようやく心の落ち着きを取りもどしたらしい。張籍の去るにあたって、彼は次の詩を贈った。
長い詩であるが、汴州の乱について韓愈の抱いた思いと彼の行動がよくみえる。またこのころには、愈の周囲に孟郊・張籍・李翺・ (賈島)などの人々が集まり、韓門が形成されていたようだ。


この頃の韓愈、孟郊、張籍の年譜。
796年 董晋の招きで宣武軍節度使の幕府に入る。
797年 病気のため一時求職。
    孟郊が来る。
798年 同所で進士科の予備試験員。
    張籍、この試験合格者の中に有る。
799年 董晋歿す。汴州の乱
    徐州武寧軍節度使 張建封の幕府に入る。
    韓愈、命受けて長安へ。孟郊、呉、越を遊覧。


#12までのあらすじ
韓愈の一家は無事ではあったものの、汴州にいたのでは危険なので、舟で脱出し、韓愈とは逆方向の東へと逃げ、徐州(江蘇省)に落ち着いているという。これを聞いた韓愈は、いちおう葬列を洛陽まで送って行ってから、単身で東へと引き返した。
河陽節度使(本拠地は河南省孟県の西)の門を入ったとき、韓愈の馬が疲れはて、物につまずいて倒れてしまった。幕府の主人である節度使の李元はもうしばらく滞留してほしいといってくれた、そして私を幕府の官廷に招き入れて酒と料理とを出してくれた。そこで黄河の流れに乗って旅立とうと思ったのに舟がなかったのだ。
長い時間大声で呼び、 ようやく渡し舟が来てくれた、夜のあいだに対岸までの十里の黄河も川筋を渡れた。
どこまでも進んで行って、二月の末ごろ、ようやく徐州の南の境にたどり着いた。そこで馬から下りて堤防の上を歩き、舟に乗って私の兄にあいさつをした。
私の家族は全員なにごともなかった。徐州武寧軍節度使、僕射の南陽公(張建封)の幕府に世話をしてくれた、その上、私を推水の北岸に住居をあてがってくれた。


#12
誰雲經艱難,百口無夭殤。僕射南陽公,宅我睢水陽。
篋中有馀衣,盎中有馀糧。閉門讀書史,窗戶忽已涼。
日念子來游,子豈知我情。」
#13
别離未爲久,辛苦多所經。
別れてからまだいくらもたっていないのだが、お互いに苦労していろいろな経験をかさねてきた。
對食每不飽,共言無倦聽。
それからというもの、毎日食事をとる際向きあっていても飽きはしない、二人で話をしているといくら聞いてもあきるということがない。
連延三十日,晨坐達五更。
幕府の事務室の中でずっと三十日間もつづけたのだ、しかも朝から向きあって座ったまま暁けがたに及んだのだ。
我友二三子,宦游在西京。
私の友人のうち、二、三の諸君がいる、かれらは長安へ行って役人生活をしている。
東野窺禹穴,李翱觀濤江。」

東野(孟郊)は禹穴(浙江省の会稽にある古代の聖天子の禹の遺跡といわれる穴)をのぞきに行き、李翱は浙江の潮(銭塘江の河口 に見られる満潮時に海水が逆流して水位が高くなる現象)を見に行った。

#14
蕭條千萬里,會合安可逢。淮之水舒舒,楚山直叢叢。
子又舍我去,我懷焉所窮。男兒不再壯,百歲如風狂。
高爵尚可求,無爲守一鄉。」14


#12
誰か云わん難難を経たりと、百口 天瘍無し
僕射 南陽公 我を推水の陽に宅せしむ
筐中に余衣有り、盎中に馀糧有り
門を閉じて書史を読めば、窓戸 忽ち己に涼し
日に念う 子の来たり遊はんことを 子豈我が情を知れるか。
 #13
別離 未だ久しと為さざるも辛苦 経る所多し
食に対して毎に飽かず 共に言いて聴くに倦むこと無し
連延たり三十日 展に坐して五更に達す
我が友 二三子 官遊して西京に在り
東野は禹穴を窺い 李翱は清江を観る

 #14
藷条たり千万里会合 安くんぞ逢う可けん涯の水 
野紆たり 楚山は直にして叢叢たり 子 又た我を捨てて去る 我が懐い篤くにか窮まる所ぞ
男児 再びは壮ならず 百歳 風狂の如し
高爵 尚求む可し一郷を守るを為すこと無かれ

現代語訳と訳註
(本文)#13
别離未爲久,辛苦多所經。
對食每不飽,共言無倦聽。
連延三十日,晨坐達五更。
我友二三子,宦游在西京。
東野窺禹穴,李翱觀濤江。」

(下し文) 13
別離 未だ久しと為さざるも辛苦 経る所多し
食に対して毎に飽かず 共に言いて聴くに倦むこと無し
連延たり三十日 展に坐して五更に達す
我が友 二三子 官遊して西京に在り
東野は禹穴を窺い 李翱は清江を観る


(現代語訳)
別れてからまだいくらもたっていないのだが、お互いに苦労していろいろな経験をかさねてきた。
それからというもの、毎日食事をとる際向きあっていても飽きはしない、二人で話をしているといくら聞いてもあきるということがない。
幕府の事務室の中でずっと三十日間もつづけたのだ、しかも朝から向きあって座ったまま暁けがたに及んだのだ。
私の友人のうち、二、三の諸君がいる、かれらは長安へ行って役人生活をしている。
東野(孟郊)は禹穴(浙江省の会稽にある古代の聖天子の禹の遺跡といわれる穴)をのぞきに行き、李翱は浙江の潮(銭塘江の河口 に見られる満潮時に海水が逆流して水位が高くなる現象)を見に行った。


(訳注)13
别離未爲久,辛苦多所經。

別れてからまだいくらもたっていないのだが、お互いに苦労していろいろな経験をかさねてきた。
  
對食每不飽,共言無倦聽。
それからというもの、毎日食事をとる際向きあっていても飽きはしない、二人で話をしているといくら聞いてもあきるということがない。
  
連延三十日,晨坐達五更。
幕府の事務室の中でずっと三十日間もつづけたのだ、しかも朝から向きあって座ったまま暁けがたに及んだのだ。
五更 五行思想で夜明け前をいう。
  
我友二三子,宦游在西京。
私の友人のうち、二、三の諸君がいる、かれらは長安へ行って役人生活をしている。
  
東野窺禹穴,李翱觀濤江。」13
東野(孟郊)は禹穴(浙江省の会稽にある古代の聖天子の禹の遺跡といわれる穴)をのぞきに行き、李翱は浙江の潮(銭塘江の河口 に見られる満潮時に海水が逆流して水位が高くなる現象)を見に行った。
東野 孟郊禹穴 禹が皇帝になった後、“巡守大越(見守り続けた大越)”ここで病死してしまったため、会稽山の麓に埋葬した。禹陵は古くは、禹穴と呼ばれ、大禹の埋葬地となった。大禹陵は会稽山とは背中合わせにあり、前には、禹池がある。浙江、会稽地方を遊ぶことをいう。○李翱 772年 – 841年、798年に進士となる及第。李翱は韓愈の高弟であり、士を好むところが似ていた。人に一善一能ある時は必ず賞賛し、賢者を推挙する機会を常に求めていたという。○濤江 大潮のとき銭塘江の河口でおこる潮流の遡上現象
銭塘江は浙江とも言い、浙江省の一番長い川である。全長605キロある。源は安徽省の西南、懐玉山脈の主峰六股尖(1629.8メートル)の東にある。幹流は安徽省祁門、歙県などを通って、浙江省に流れ、東へ淳安、建徳を通って、蘭江に合流し、続いて富陽、杭州を通って杭州湾に入る。河口は漏斗型になっている。


毎日それぞれ一首(長詩の場合一部分割掲載)kanbuniinkai紀 頌之の漢詩3ブログ
05rihakushi350

李白詩350首kanbuniinkai紀頌之のブログ

700Toho shi

kanbuniinkai11の頌之漢詩 杜甫詩700首


800tousouSenshu
kanbuniinkai10 頌之の漢詩 唐宋詩人選集 Ⅰ李商隠150首 Ⅱ韓退之(韓愈)Ⅶ孟郊
各詩人についてはブログ内の検索を利用したほうが良い場合もあります。
burogutitl770

http://kanshi100x100.blog.fc2.com/

唐宋詩 
(Ⅰ李商隠Ⅱ韓退之(韓愈))

李白詩INDEX02
日ごとのブログ目次

李商隠INDEX02
ブログ日ごとの目次

杜甫詩INDEX02
日ごとのブログ目次