中唐詩233 帰信吟 Ⅶ孟郊(孟東野)<15>紀頌之の漢詩ブログ

「今年も落第しました」と、郷里の母親に手紙を出す。この種の手紙の場合、母の口を借りた詩が多いのであるが、作者はストレートに「涙墨」という語を使っている。一つには作者の心のゆとりもなくなっている、二つには、言い回しをすることは心配してくれている母親に妙な強がりのように感じさせる。十数年落第している孟郊の複雑な気持ちである。そうであっても「次こそ頑張るぞと決意」が伝わらないといけないのである。<悲愴感と決意とどう表現するのか>という視点でこの詩を見ていく。



帰信吟
涙墨灑為書、将寄萬里親。
書去魂亦去、兀然空一身。

涙で磨った墨を硯に灌ぎ書を為すと、まさに心寄せるは萬里の親である。
書を去らせるのは魂も亦去ることであり、兀然としているとこの身は空しいい。

現代語訳と訳註
(本文)

涙墨灑為書、将寄萬里親。
書去魂亦去、兀然空一身。

(下し文)
涙墨をそそいで書と為す、まさに萬里の親に寄せんとす。
書去って魂亦去り、兀然として一身空し。

(現代語訳)
溢れ落ちる涙が硯にそそいで墨をすっている故郷に結果を知らせる書簡をしたためている。まさに、遠くはるかな母親に感謝の気持ちを寄せるためなのだ。
書簡を送付して去っていくと張り詰めていた気持ちも同じようにどこかへ去っていく。何をする気も起らずじっとしている、ここには空しい姿の一身があるだけなのだ。

(訳注)
涙墨灑為書、将寄萬里親。

涙墨をそそいで書と為す、まさに萬里の親に寄せんとす。
溢れ落ちる涙が硯にそそいで墨をすっている故郷に結果を知らせる書簡をしたためている。まさに、遠くはるかな母親に感謝の気持ちを寄せるためなのだ。
涙墨 溢れ落ちる涙が硯にそそいで墨。悲愴感を印象付ける語である。試験が終わり、結果を待っていると思えば胸にこみ上げてくる。このような気持ちを中国の詩では、「涙」で表し、「涕涙」は悔しさをあらわす場合が多い。このほか「涙嘆」「血涙」「聲涙」「「落涙」、「暗涙」などある。「涙墨」は涙が巣釣りの海に広がること、下句で「将寄」で一点に寄せるものとして対句になる。○灑為書 灑ことによって書を為せる。そそぐが句の中心に位置することで悲愴な雰囲気が強調される。○萬里親 故郷の親としないで万里としている。上の句で灑為というのが一点に集中することを示す対語として万里なのである。


書去魂亦去、兀然空一身。
書去って魂亦去り、兀然として一身空し。
書簡を送付して去っていくと張り詰めていた気持ちも同じようにどこかへ去っていく。何をする気も起らずじっとしている、ここには空しい姿の一身があるだけなのだ。
兀然 [1]山などが高くつき出ているさま。ごつぜん。[2]じっとしているさま。動かないさま。この聯は転句、結句ともSV構文の対句としている。
(転句) 書去 → 魂亦去、
(結句) 兀然 → 空一身。

母に送る手紙にこういう手法がくみ取れることを意識して、絶句を作っている。受け取った母は、落第して、風来坊になるのではないかと心配をすることはないと安心するであろうと考える。多くの受験生は挫折して、逃避するものである。全国何万人から地方で数百人にふるい落とされ、その推薦をもって中央朝廷の試験を受ける。数人、場合によっては合格者なしの場合もある。現代の司法官試験の十郎、十五「浪人」とあるそれより、さらに難しい難関で脱落逃避、「飄蓬」となるものが多かったのだ。中国では、マザコンが当たり前、「心配ない」という書簡ではさらに心配が募るというものだ。


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今年もまた落第した。そのことを故郷の書をしたためる作者。涙があふれて留めない。
私が手紙を書かなくなったら、心は届かない、きっとむなしいものになってしまう。手紙は心を奮い立たせ、今度こそという気持ちにならせるのだ。
涙墨灑為書、将寄萬里親。
書去魂亦去、兀然空一身。