中唐概説 ―中唐詩人について(1)―

中唐 (766-835)中唐期は大暦元年(766)に始まる。元和九年(835)を終りとすれば約七十年間である。宋の厳羽は唐詩のスタイルを五つに分け、唐初・盛唐・晩唐のほか大暦体と元和体とを立てた。この二つを合せたのが中唐であるが、中唐という一時期を立てた上で二分し、大暦期と元和期とを区別して説明するのが便利で
ぁろう。766年から徳宗皇帝の崩じた貞元二十年(804年)まで約四十年を大暦期とする。これは盛唐と中
庸の過渡期だということができる。


安史の乱は約十年も続き、唐の歴史の転機であったと同時に、文学にも非常な影響をもたらした。すなわち国力が飛躍的に伸びた初唐から盛唐までは、唐詩の発展としてもきわめて順調なあげ潮だったのである。ところが、安史の乱以後、王維、李白とその他の目立った詩人が次々に没していき、770年杜甫も歿して。唐詩は一気にひき潮となるのである。盛唐までの詩が<春の山野をおおう「百花斉放」の季節>だった。それに対し、中唐以後の詩は<秋の草花のようなもので、人の目をうばう強い色彩>はもはやないし、初唐の詩人がうたった「花は舞う大唐の春」(盧照鄰、元日述懐)のような手ばなしの礼讃は全くない。

元日述懐 盧照隣<初唐の詩人。初唐の四傑の一人。 

 



 筮仕無中秩 帰耕有外臣 
 人歌小歳酒 花舞大唐春 
 草色迷三径 風光動四隣 
 願得長如此 年年物候新 





 筮仕するも中秩無く、帰耕して外臣有り。
 人は歌う 小歳の酒、花は舞う 大唐の春。
 草色 三径を迷わせ、風光 四隣を動かす。
 願くば 長えに此の如く、年年 物候の新たなるを得ん







 仕官はしてみたものの人並の給料はもらえず、退官して田舎に帰ることにした。人々は年の暮れに開けた祝い酒に笑いさざめき、花々がこの大唐のあちこちに舞い散る。
浅緑色の草が隠棲する我が庭の小道を掩い、眩しい風光が辺り一面に揺れ動く。
願わくば、いつまでもこのように毎年みずみずしい風物の訪れを迎えたいものだ。



 初唐と盛唐の世をまとめている作品の一部を示すと次のとおりである。李商隠は、庶民生活をするのに初唐から盛唐の半ばまで楽園であった。家に鍵をかけるものはいなかった。仁徳の政治がなされたといっている。
『行次西郊作 一百韻』李商隠




  •   ・・・・・・
    伊昔稱樂土,所賴牧伯仁。
    官清若冰玉,吏善如六親。」
    生兒不遠征,生女事四鄰。
    濁酒盈瓦缶,爛穀堆荆囷。
    健兒庇旁婦,衰翁舐童孫。
    況自貞觀後,命官多儒臣。』
    例以賢牧伯,徵入司陶鈞。
    降及開元中,奸邪撓經綸。
    晉公忌此事,多錄邊將勳。
    因令猛毅輩,雜牧升平民。」
    ・・・・・・





 伊(そ)の昔 楽土と称せしときは、頼る所は牧伯(ぼくはく)の仁なりき。
官は清きこと冰玉の若く、吏の善きこと六親(りくしん)の如し。」
児(おのこ)を生みても遠征せず、女(おみな)を生みては四隣(しりん)に事(とつ)がしむ。
濁酒(だくしゅ)は瓦缶(がふ)に盈(み)ち、爛穀(らんこく)は荊囷(けいきん)に堆(うずたか)し。
健児は旁婦(ぼうふ)を庇い、衰翁(すいおう)は童孫(どうそん)を舐む。
況んや貞観(じょうがん)より後、官に命ぜられるもの儒臣(じゅしん)多し』
例(ためし)として賢なる牧伯(はくばく)を以てし、徴(め)し入れては陶鈞(とうきん)を司(つかさ)どらしむ。
降(くだ)りて開元中に及ぶや、姦邪(かんじゃ) 経綸(けいりん)を撓(ゆが)めたり。
晋公 此の事を忌(い)み、多く辺将の勲を録す。
因(よ)りて猛毅(もうき)の輩(やから)を令(し)て、升平(しょうへい)の民を雑牧(ざつぼく)せしむ。』







 

その昔、このあたりが楽土と呼ばれた頃もあったのです。それは地方の長官と監視官が仁徳敬愛の深い方であったからなのです。
政治をなさる長官の方々は、清廉潔白、氷の玉のようであり、役所の書記も善良で自分たちの親族と同じようにしてもらったのです。
そのころは、どこの家でも、男の児を産んだとしても兵役にとられて国境守備にかり出される心配もなく、生れた児が女なら、いずれ近隣に嫁がせて幸せな一生を送らせる事ができたのです。
どこの調理場におかれた素焼の酒瓶には地酒があった。雑木造りの粗末な倉だけど、倉にはよくみのった穀物がうず高く積まれていたのです。
丈夫で屈強な働き盛りの男たちは近隣の女たちをかばうことをしたのです。年寄りは、皆から気遣ってもらい、自分の孫を可愛がってやればいいというものでした。
まして、いわゆる貞観の治といわれる太宗皇帝の御治世から以後というもの、文治政策が採用され、地方長官に任命されるものの多くは正統的な儒教の教養を身につけた文臣でありました。

通例として、そのうちから、治績いちじるしかった偉い地方の太守を選抜して中央の大臣として召還されることとされたのだ。かくて、地方官はその地の民を恵しむことに励み、国政の大綱も輝かしい文治の方針にそって、その繁栄の道を歩んだのだった。
それから降って約100年後開元の時代、第六代皇帝玄宗在位の頃に汲んでから、よこしまな奸臣が、私利私欲のため国攻の施政方針をゆがめ、規律を乱し始めたのだ。
737年開元二十五年に晋国公に封ぜられた宰相李林甫は、科挙合格者の文官が地方州の長官となり、そのうち功績をあげて名望の高いものをえらんで大臣とするこの慣例が、自らの野望のさまたげとなる英賢な文人を嫌い粛清した。そして辺疆の武将(哥舒翰、高仙芝、安禄山ら)の功績を過大に評価して記録し、上申して武将を文官以上に重く用いることにしたのである。
そのため、安縁山ら、異民族出身のたけだけしい将軍たちが節度使となり、平和な中國の人民を無秩序に支配するという事態がおこった。
天下の中心である京畿とその近辺の中原には、やがて禍が数多く起り、官吏の任免も、至尊の人たる天子の手でなされるのではなくなったのだ。
或いは媚びへつらい、賄賂によって宰相となった者(例えば李林甫)、或いは、身内から皇后を出して高位を得た者(例えば楊国忠)たちの任意にゆだねられたのである。

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 盛唐における李林甫による腐敗、朝廷内の頽廃により、地方末端まで貧困化していく。そして安史の乱の前、数年、大雨と日照りが交互に住民を苦しめた。
 安史の乱では、人口が60%になったという。中唐は、滅亡の危機ののち、それでも唐王朝が回復していく過程の中で、多くの詩人を産んだのである。
しかし、秋の七草や菊の花を思わせるものは、やはりなお咲き続けた。少しく注意して見れば、そこにも愛すべきものはあり、また「疾風に勁草を知る」のたとえのとおり、吹きすさぶ木がらしにたで、強い骨をもった詩人も少なくなかったのである。これは朝廷内の紛争、落ち着きのない政治、国家の富が低減していくことと無関係ではないし、決定的なことは、中唐期の区切りになった「甘露の変」、宦官の目立った台頭が、官僚たちに国家のため、国の隆盛のために力を注ぐことを諦めさせたことにある。「秋の七草」の原因は、多くの詩人が、この「甘露の変」に無関係を装ったことにある。廃屋を詠ったり、亡霊が出たり、現実逃避であり、難解詩が増えるのである。それは、晩唐まで続くのである。