中唐詩-257 寄盧仝#2 韓愈 Ⅱ韓退之(韓愈) 紀頌之の漢詩ブログ 韓愈特集-22

811年 元和六年春 韓愈44歳の作 作詩順からすると韓愈詩の35番目くらいに掲載予定であったが、孟郊と盧仝詩を掲載したので順を繰り上げて掲載。
孟郊 『答盧仝』(盧仝に答える#1~#3)

寄盧仝
#1 
玉川先生洛城裏,破屋數間而已矣。一奴長鬚不裹頭,一婢赤腳老無齒。
辛勤奉養十余人,上有慈親下妻子。先生結發憎俗徒,閉門不出動一紀。
至令鄰僧乞米送,仆忝縣尹能不恥?俸錢供給公私余,時致薄少助祭祀。』

中唐詩 Ⅶ孟郊(孟東野) 答盧仝#1 <24> kanbun-iinkai紀頌之の漢詩ブログ248


盧仝 新茶について述べながら、生き方、生活ぶりについて触れている。『走筆謝孟諫議寄新茶』(筆を走らせて孟諫議の新茶を寄せるを謝す)(#1~#3)

中唐詩人ID-44 盧仝 走筆謝孟諫議寄新茶#1 kanbun-iinkai紀頌之の李商隠と中唐の漢詩ブログ251


#2
勸參留守謁大尹,言語纔及輒掩耳。
盧仝先生に「東都留守のところに行ってください」とか「河南尹に面会に行くよう」とわたしが勧めても、ことばがその話になったかと思うと儒者の先生は許由のように耳をふさいでしまわれる。
水北山人得名聲,去年去作幕下士。
洛水の北岸の山人である石洪どのが評判になっている、去年出かけて行って河陽節度使烏重胤の幕僚になった。
水南山人又繼往,鞍馬仆從塞閭裏。
洛水南岸の山人温造どのは今度はつづいて出ていき、鞍をおいた馬や下男・従者たちが街をいっぱいにしてふさいでしまった。
少室山人索價高,兩以諫官征不起。
嵩山の少室山に隠遁する李慟どのは自分の値打ちを高くつけている、二度も左拾遺で招かれたが官途には就かないという。
彼皆刺口論世事,有力未免遭驅使。
彼らの共通したことはいずれもきびしい毒舌、口ぶりで世間の事を論じているのだ、実力の有る人たちであるものだけれど結局は俗事に追いまわされることになってしまうのを免れない。
先生事業不可量,惟用法律自繩己。』

ところで玉川先生の仕事は量り知ることができない、ただ自己の守るべき自らの律する則どおりに自己を制しておられるということなのだ。

#2
留守に参【いた】り大尹【たいいん】に謁【えつ】せよと勧むるに、言語纔【わず】かに及べば輒【すなわ】ち耳を掩う。
水北【すいほく】の山人【さんじん】 名声を得て、去年去って幕下【ばっか】の士と作【な】れり。
水南【すいなん】の山人 又継いで往き、鞍馬【あんば】と僕従【ぼくじゅう】とは閭裏【りょり】を塞【ふさ】ぎぬ。
少室【しょうしつ】の山人は価【あたい】を索【もと】むること高く、両【ふた】たび諌官【かんかん】を以て徴【め】せども起たず。
彼れ皆口に剌して世事を論じ、力 有れば未だ駆使【くし】に造【あ】うことを免【まぬが】れず。
先生の事業は量【はか】るべからず、惟だ法律【ほうりつ】を用って自ずから己を繩【ただ】すのみ。

nat0021


現代語訳と訳註
(本文)

勸參留守謁大尹,言語纔及輒掩耳。
水北山人得名聲,去年去作幕下士。
水南山人又繼往,鞍馬仆從塞閭裏。
少室山人索價高,兩以諫官征不起。
彼皆刺口論世事,有力未免遭驅使。
先生事業不可量,惟用法律自繩己。』


(下し文)
留守に参【いた】り大尹【たいいん】に謁【えつ】せよと勧むるに、言語纔【わず】かに及べば輒【すなわ】ち耳を掩う。
水北【すいほく】の山人【さんじん】 名声を得て、去年去って幕下【ばっか】の士と作【な】れり。
水南【すいなん】の山人 又継いで往き、鞍馬【あんば】と僕従【ぼくじゅう】とは閭裏【りょり】を塞【ふさ】ぎぬ。
少室【しょうしつ】の山人は価【あたい】を索【もと】むること高く、両【ふた】たび諌官【かんかん】を以て徴【め】せども起たず。
彼れ皆口に剌して世事を論じ、力 有れば未だ駆使【くし】に造【あ】うことを免【まぬが】れず。
先生の事業は量【はか】るべからず、惟だ法律【ほうりつ】を用って自ずから己を繩【ただ】すのみ。


(現代語訳)
盧仝先生に「東都留守のところに行ってください」とか「河南尹に面会に行くよう」とわたしが勧めても、ことばがその話になったかと思うと儒者の先生は許由のように耳をふさいでしまわれる。
洛水の北岸の山人である石洪どのが評判になっている、去年出かけて行って河陽節度使烏重胤の幕僚になった。
洛水南岸の山人温造どのは今度はつづいて出ていき、鞍をおいた馬や下男・従者たちが街をいっぱいにしてふさいでしまった。
嵩山の少室山に隠遁する李慟どのは自分の値打ちを高くつけている、二度も左拾遺で招かれたが官途には就かないという。
彼らの共通したことはいずれもきびしい毒舌、口ぶりで世間の事を論じているのだ、実力の有る人たちであるものだけれど結局は俗事に追いまわされることになってしまうのを免れない。
ところで玉川先生の仕事は量り知ることができない、ただ自己の守るべき自らの律する則どおりに自己を制しておられるということなのだ。

八女茶 畑


(訳注) 
勸參留守謁大尹,言語纔及輒掩耳。

盧仝先生に「東都留守のところに行ってください」とか「河南尹に面会に行くよう」とわたしが勧めても、ことばがその話になったかと思うと儒者の先生は許由のように耳をふさいでしまわれる。
勧参留守謁大尹 以下この一段は、隠れ住んでいる盧仝に対し、出て官に仕えるように勧めるが、いっこう承知しないことをいう。参は参じる、お目にかかりに行くこと、謁も同じ。留守は、洛陽が唐代からはじまる。『書言故事、府主類』「守舊京者曰留守。」(旧京を守る者をいう。)東都、洛陽を中央政府機関の一部分も置かれていたので、それらの最高責任者として置かれた官をいう。このときは、韓愈の後援者の一人である鄭余慶(746―820年)が「留守」であった。大尹とは、洛陽には、特別市制がしかれていて、その長官をいう。正式には、ただ尹といい、次官たる少尹に対して、特に大尹ということがある。このときは、李素(755-812年)が、少尹で大尹の事務を取り扱っていた。○【わずか】 やっと…したと思うと。その行為(ここでは「言語が及ぷ」)が始まったばかりであることを示す助辞。○ そのたぴごとにすぐに。それが習慣となっていることを示す劫辞。○掩耳 聞きたくないとして耳をふさいでしまう。隠者が、政治にたずさわるように勧められたとき、耳がけがれたと耳を洗った儒者のこと。古代の伝説上の人物、許由の故事をふまえたもの。このブログで掲載した許由を載せた詩をあげてみる。
『将歸贈孟東野房蜀客』韓愈
君門不可入,勢利互相推。
借問讀書客,胡為在京師?
舉頭未能對,閉眼聊自思。」
倏忽十六年,終朝苦寒饑。
宦途竟寥落,鬢發坐差池。
潁水清且寂,箕山坦而夷。
如今便當去,咄咄無自疑。
「潁水清且寂,箕山坦而夷。」(頴水は清くして且つ寂かに、箕山は坦として夷(たいらか)らかなり。)

自京赴奉先縣詠懷五百字 杜甫 105 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700-105-1

喜晴 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 157

贈特進汝陽王二十韻  杜甫27


孟浩然 仲夏歸漢南園,寄京邑耆舊 #1  Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -319

孟浩然 仲夏歸漢南園,寄京邑耆舊 #2  Kanbuniinkai頌之の漢詩 李白特集350 -320

盛唐詩 宿天台桐柏觀#2 孟浩然<32> Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -339


行路難 三首 其三 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白185

送裴十八図南歸嵩山 其二 李白 :Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白165

送裴十八図南歸嵩山 其一 李白 :Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白164

古風 五十九首 其二十四 李白 :Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白172と玄宗(5

行路難三首 其一 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白183

古風 五十九首 其二十四 李白 :Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白172と玄宗(5

 

水北山人得名聲,去年去作幕下士。
洛水の北岸の山人である石洪どのが評判になっている、去年出かけて行って河陽節度使烏重胤の幕僚になった。
水北山人 石洪(771―812年)のこと。水は、川のこと、ここでは洛陽の市内を流れる洛水のこと。山人は隠遁者。洛陽の北の隠棲者、石洪のことで、洛陽に十数年間隠遁していたが、河陽節度使の烏重胤(761-827年)がそれを聞き、自分の幕僚に招いた。そのとき、韓愈は、「送る序」と詩を作って「洛の北の涯なるを石洪という。」とある。石洪の墓誌銘も韓愈が書いている。○名声 よい評判。○去年去作幕下士 烏重胤に招かれて、その軍の幕僚になったことをいう。去年は、元和5年(810年)。
 
水南山人又繼往,鞍馬仆從塞閭裏。
洛水南岸の山人温造どのは今度はつづいて出ていき、鞍をおいた馬や下男・従者たちが街をいっぱいにしてふさいでしまった。
水南山人又繼往 水南山人とは、温造(766―835年)のこと。韓意の「温処士の阿陽軍に赴くを送る序」に、「洛の南の涯なるを温生と云う」とある。温造もやはり烏重胤から石洪につづいて招かれたことをいう。そのとき、韓愈は、「送る序」を書いた。温造は、のち地方軍閥の抑圧に功を立て、節度使になっている。○鞍馬 鞍を置いた馬。○僕従 僕も従も、しもべ。従者たち。○ いっぱいにする。○閭里 閭は、部落の門であるが、また部落そのものをいう。ここは温造の住んでいる街をいう。

少室山人索價高,兩以諫官征不起。
嵩山の少室山に隠遁する李慟どのは自分の値打ちを高くつけている、二度も左拾遺で招かれたが官途には就かないという。
少室山人 少室は山の名。五岳の中岳である嵩山(今河南省登封県にある)の一峯。その少室山にこもっていた山人とは、李渤(773-831年)をさす。李渤は、左拾遺の官で招かれたが辞退した。元和三年(808年)、韓愈が手紙を送って官につくように勧めたので、洛陽に移り住み、攻治上の意見をも朝廷に上言するようになった。のち、元和9年(814年)、著作郎としてはじめて官途につき、太子賓客にまでなった。○索価高 自分の値段を高くつけようとする。自分の価慎を高く見いもつもって、低い地位では官途につこうとしないことをいう。なお、韓愈の「少室の李拾遺に与うる書」に肌、「又窃かに聞く、朝廷の議、必ず拾遺公を起たしめんと。使者往き、若し許さずんぱ、即ち河南(の尹)必ず継いで以て行かん。拾遺徴君若し至らずんぱ、必ず高秩を加えん。是くの如くんば、則ち少くなきを辞して多きに就く、廉に傷みて義に害あらん。」といっている。○両以諌官徴不起 李渤が二度左拾遺の官で招かれたが官につかなかったことをいう。諌官は、天子に諌めたてまつる官。つまり天子の行動にまちがいがあれば、それを正すように意見を申し上げることを職務とする官吏である。ここでは左拾遺をいう。左拾遺の職務は、「供奉諷諌し、乗輿に扈従するを掌どる。凡そ令を発し事を拳うに、時に便あらず、道に合せざること有らぱ、大は則ち廷議、小は則ち上封す。若し賢良の下に遺滞し、忠孝の上に聞えざるあらば、則ち其の事状を条して、之を薦め言う。」と、唐の官制を記した「唐六典」に見える。起は、はじめて官途につくこと。


彼皆刺口論世事,有力未免遭驅使。
彼らの共通したことはいずれもきびしい毒舌、口ぶりで世間の事を論じているのだ、実力の有る人たちであるものだけれど結局は俗事に追いまわされることになってしまうのを免れない。
 石洪、温造、李渤をいう。○刺ロ とげのあるいい方で。○諭世事 世俗のことを批判する。○有力 石洪、温造、李渤のょうな人たちは、世事を論じ、カの有るものだから、かえって世俗から駆使されるょうな日にあったとつづく。○未免 免れることはできない。どうしても…になる。○ その目にあう。受身をあらわす動詞。○駆使 迫いまわして使う。


先生事業不可量,惟用法律自繩己。』
ところで玉川先生の仕事は量り知ることができない、ただ自己の守るべき自らの律する則どおりに自己を制しておられるということなのだ。
事業 天下を治めるしごと。○不可量 石洪、温造、李渤らのような世事を論ずるものは、世俗に駆使されるが、世俗に超越している盧仝は、「量ることができない」のである。○ ただ…するだけだ。○法律 道徳律。自分の守るべき法則。今の「法律」とは異なる。○ 自分で。○ すみなわ。直線を引くときにつかう縄をいう。そのことからまっすぐにすること。ここでは、儒者としての仁徳律・道徳律の線のとおりに行うこと。自分でひかえめにして、自分の手腕を存分にふるおうとはしないことをいう。