中唐詩-265 湘中 韓愈 Ⅱ韓退之(韓愈) 紀頌之の漢詩ブログ 韓愈特集-28
 
最初の流罪
 韓愈が流罪の処分を受けたのは貞元十九年〈803〉の冬、流された先は陽山(広東省)であった。
このとき流された張署という人があった。これは都に近い武功の尉から監察御史となっていたが、やはり流罪の処分を受けて臨武に流されることとなった。ほかにも一人が別の土地へ流されており、同時に監察御史が三人も流罪となったのだから、何かの事件があったことは確実である。食糧不安、従来通りの税取立て等々に対しての民衆の不平不満のガス抜きとして、誰かを流罪という形で処分したのであろう。
 急な抜擢をされ、そして2カ月で流罪、この件については、資料的にも無い様なので、これ以上の推測は避けることにする。
韓愈の地図01

韓愈は、湖南省を南から北へと流れて縦断する湘江にのってd-3からd-5にむかって南下している。当時の旅は基本船旅である。かなり源流に近くなったあたりに臨武がある。そこからさらに山越えをすれば、陽山に行き着く。今の行政区画でいえば、臨武は湖南省に、陽山は広東省に属する。二つの町のあいだは、直線距離にすればたいしたことはないが、山があるので、互いに隔絶されている。広西の佳林と湘江は秦の始皇帝の土木工事により運河が作られていたので、今の香港方面に行く場合は桂林を経由するルートが常識的なのだが、韓愈は流罪であるから、配所へ行くのに、観光旅行ではない。韓愈と張署とが連れだって旅することが許されるはずもなかった。しかし、同じく流された者として、連帯感を持ったのは間違いないことで資料的にも詩の交歓というものが残っている。

『湘中』は804年韓愈37歳流罪の途中での詩。

湘中
猿愁魚踊水翻波、自古流傳是汨羅。
蘋藻満盤無塵奠、空聞漁父叩舷歌。

(湘中) 
猿愁え魚踊って水波を翻【ひるがえ】し、古【いにし】え自【よ】り流伝す走れ汨羅【べきら】たりと。
頻藻【ひんそう】盤に満つるも奠【そな】うる処無く、空しく聞く漁父の舷【ふなばた】を叩いて歌うを


現代語訳と訳註
(本文)
湘中
猿愁魚踊水翻波、自古流傳是汨羅。
蘋藻満盤無塵奠、空聞漁父叩舷歌。


(下し文)
(湘中) 
猿愁え魚踊って水波を翻【ひるがえ】し、古え自り流伝す走れ汨羅【べきら】たりと。
頻藻【ひんそう】盤に満つるも奠【そな】うる処無く、空しく聞く漁父の舷【ふなばた】を叩いて歌うを


(現代語訳)

猿は悲しげな鳴き声をあげ、魚ははねて、川の水は波をわきたたせている。昔からの言い伝えによれば、ここが旧羅なのだという。
水草は皿いっぱいに盛ったが、さてどこにそなえて屈原の霊を祭ったものだろう。屈原に対して漁父が船端を叩きながらうたった舟歌がいまはむなしく聞こえてくる。

 (訳注) 湘中
湘中 湘江の船旅の途中の詩。五嶺(現・南嶺)山脈を流域を源流にして北流して洞庭湖に流入する、長江の支流である。韓愈は長安C-1から陽山d-5に流罪されたのだ。

猿愁魚踊水翻波、自古流傳是汨羅。
猿は悲しげな鳴き声をあげ、魚ははねて、川の水は波をわきたたせている。昔からの言い伝えによれば、ここが旧羅なのだという。
猿愁 中国南部の猿は、手長猿、悲鳴のような啼き方をする。孟浩然『宿桐廬江寄廣陵舊遊』「山暝聽猿愁,滄江急夜流。」(山暝【くらく】して猿愁を聽き,滄江【そうこう】急ぎて夜に流る。)李白『尋高鳳石門山中元丹邱』「寂寂聞猿愁、行行見云收。」(寂寂(せきせき)として猿の愁うるを聞き、行行雲の収まるを見る。)○汨羅 今の湖南省長抄の付近の川の名で、その昔、戦国時代末期の楚の屈原は、政敵に謹言されて都を放逐され、洞庭湖畔を放浪した末、旧羅江に身を投げて自殺した。彼の痛憤は「離騒」「九章」などの韻文にうたわれ、それらは『楚辞』に収められている。
李白『江上吟』
木蘭之枻沙棠舟,玉簫金管坐兩頭。
美酒尊中置千斛,載妓隨波任去留。
仙人有待乘黄鶴,海客無心隨白鴎。
屈平詞賦懸日月,楚王臺榭空山丘。
興酣落筆搖五嶽,詩成笑傲凌滄洲。
功名富貴若長在,漢水亦應西北流。
木蘭(もくらん)の枻(かい) 沙棠(さとう)の舟,
玉簫(ぎょくしょう) 金管(きんかん)  兩頭(りょうとう)に 坐(ざ)す。
美酒 尊中(そんちゅう)千斛(せんこく)を置き,妓を載せて波に 隨ひて去留(きょりゅう)に 任(まか)す。
仙人 待つ有りて 黄鶴(こうかく)に 乘り,海客(かいきゃく)心 無くして 白鴎(はくおう) 隨(したが)ふ。
屈平(くっぺい)の詞賦(しふ)は 日月(じつげつ)を 懸(か)くるも,楚王(そおう)の臺榭(だいしゃ)は 山丘(さんきゅう)に 空し。
興(きょう)酣(たけなは)にして 筆(ふで)を 落とせば  五嶽を 搖(うご)かし,詩 成りて 笑傲(しょうごう)すれば  滄洲(そうしゅう)を 凌(しの)ぐ。
功名(こうみょう)富貴(ふうき) 若(も)し 長(とこしな)へに在(あ)らば,漢水(かんすい)も亦(ま)た 應(まさ)に 西北に 流るべし。
李白『秋浦歌十七首 其六』
愁作秋浦客。 強看秋浦花。
山川如剡縣。 風日似長沙
愁えて秋浦の客と作(な)り、強(し)いて秋浦の花を看(み)る。
山川(さんせん)は  剡県(せんけん)の如く、風日(ふうじつ)は  長沙(ちょうさ)に似るに。

李白『贈王判官時余歸隱居廬山屏風疊』(王判官に贈る 時に余帰隠し廬山屏風畳に居る)
贈王判官時余歸隱居廬山屏風疊 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -232

李白、杜甫、李商隠、韓愈、多くの詩人がは洞庭湖について、屈原に関してたくさん詩を作っている。


蘋藻満盤無塵奠、空聞漁父叩舷歌。
水草は皿いっぱいに盛ったが、さてどこにそなえて屈原の霊を祭ったものだろう。屈原に対して漁父が船端を叩きながらうたった舟歌がいまはむなしく聞こえてくる。
蘋藻 かたばみ藻と水藻。水草。この水藻を敬ってお供えをするということに基づいている。『左傳、㐮公二十八』「済澤之阿、行两潦之蘋藻、寘諸宗室、季蘭尸之、敬也。敬可棄乎。」(済澤之阿、行潦の蘋藻も、諸を宗室に寘【お】き、季蘭これを尸【つかさど】るは、敬なり。敬として棄つく可けん乎。)とある。屈原の祭壇が分からないのである。○漁父 隠遁者のこと。『楚辞』のなかにはまた「漁父」という一篇があり、現在では後世の人の作とされるが、韓愈の時代には屈原が作ったものと信じられていた。「漁父」とは「漁師のおやじ」という意味で、ここの漁父は隠者であり、屈原が、「挙世みな酔う」なかで自分一人正気でいるこんな目にあっているのだというと、それなら、自分もその酒の余りを飲み、世の中の人たちといっしょに酔ったらよいではないかという。しかし、屈原と漁父とでは、しょせん生き方が違う。それを知った漁父は、ふなはたを叩いて歌をうたいながら舟を濯ぎ去る。


この詩は愈が配流の旅の途中、洞羅にさしかかって作ったものである。同じく都から追放された者として、彼はわが身を屈原になぞらえているのである。ただし汨羅江のほとりに漁師の歌・舟歌はいくらも聞けたであろうが、現代の漁父は、一人も韓愈のそばへ舟を濯ぎ寄せ、声をかけようとはしてくれなかった。左遷、流刑の旅である。気軽に声をかけてくれる者はいない。その寂しさを屈原の孤独と重ねているのである。

『答盧仝』(孟郊 唐詩
「楚屈入水死,詩孟踏雪僵。」(
楚の屈は 水に入りて死し、詩の孟は雪を踏んで僵【たおれ】る。)
楚の屈原は世をはかなみ湘水に入水して死んだ。詩人である孟郊は、作詩に雪道を歩いて倒れて死んでしまうほどの努力をしている。
○楚屈 戦国時代の楚の政治家、詩人。氏は屈。諱は平または正則。字が原。春秋戦国時代を代表する詩人であり、政治家としては秦の張儀の謀略を見抜き踊らされようとする懐王を必死で諫めたが受け入れられず、楚の将来に絶望して入水自殺した
中唐詩 Ⅶ孟郊(孟東野) 答盧仝#1 <24> kanbun-iinkai紀頌之の漢詩ブログ248


李商隠『楚宮』 「湘波如涙色漻漻、楚厲迷魂逐恨遙。」(湘波 涙如 色漻漻【りょうりょう】たり、楚厲【それい】の迷魂 恨みを逐いて遙かなり。)
楚宮 李商隠 :kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 55


李商隠 『潭州』「潭州官舎暮樓空、今古無端人望中。湘涙浅深滋竹色、楚歌重畳怨蘭叢。」(潭州の官舎 暮楼空し、今古 端なくも人望中る。湘涙 浅深 竹色を涼し、楚歌 重畳 蘭叢を怨む。)
潭州 李商隠 :kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 41