薦士 韓退之(韓愈)詩<62-#1>Ⅱ中唐詩367 紀頌之の漢詩ブログ1180


(1)
806年 待ちに待った「帰還」の便りは、杏の花のさくころになってもやって来ない。「香花」「春に感ず四首」「憶昨行張十一に和す」は、このころの作である。
その年の夏のおわりの六月、やっと、長安帰還の命令を、江陵で、うけとった。待ちに待った召還を果たす。
新しい任務は、権知国子博士。国立大学の准教授とでもいうべき地位である。さきの四門博士よりは、やや上級だが、正教授ではない。それでも、長安に帰れることは飛び上がるほどうれしかった。陽山や江陵に在任中につくった詩にしばしばうたった、鋤・鍬をとって祖先の基辺に残年を送ろうなどいう隠遁の考えは、たちまち雲散霧消し、さっさと長安に上って行った。



薦 士(士を薦む)
薦士(薦孟郊于鄭餘慶也) #1
周詩三百篇,雅麗理訓誥。
『詩経』は三百篇の詩からなり、風雅にして麗わしく、聖天子の教えの道・理を保持している。
曾經聖人手,議論安敢到。
それは一度聖人の手による編纂を経ているので(長い間『詩経』は孔子が編集してものと伝えられてきた)、したがって、軽々に議論できるような安易なものでは到底ない。
五言出漢時,蘇李首更號。
五言詩は漢代から現われ、蘇武・李陵が新しい創始者となった。
東都漸瀰漫,派別百川導。
後漢ではしだいにひろまり、流派が多く分かれてそれぞれに系統を作った。
建安能者七,卓犖變風操。
 
建安で詩をよくする者が七人いたが、彼らは人よりすぐれた才能によって、『詩経』や「琴操」の詩風を一変させた。
#1
周詩 三百篇、雅麗 訓誥【くんこう】を理【おさ】む。
曾て聖人の手を経たれば、議論 安【いず】くんぞ敢て到らん。
五言は漢時より出で、蘇・李 首【はじ】めて号を更【あらた】む。
東都 漸【ようや】く瀰漫【びまん】し、派別して百川導かる。
建安の能くする者 七。卓犖【たくらく】として風操を変ず。
#2
逶迤抵晉宋,氣象日凋耗。中間數鮑謝,比近最清奧。
齊梁及陳隋,眾作等蟬噪。搜春摘花卉,沿襲傷剽盜。
國朝盛文章,子昂始高蹈。

#2
逶迤【いい】として晋・宋に抵【いた】り。気象 日に凋耗【ちょうこう】す。
中間 鮑・謝【ほうしゃ】を数う、近に比すれば最も清奥【せいおう】なり。
斉・梁【せいりょう】と陳・隋【ちんずい】と、衆作 蝉噪【ぜんそう】に等し。
春を捜【さぐ】って花舟を摘み、沿襲【えんしゅう】して剽盗【ひょうとう】に傷つく。
国朝 文章盛んなり、子昂【すこう】 始めて高踏す。


#3
勃興得李杜,萬類困陵暴。後來相繼生,亦各臻閫奧。
有窮者孟郊,受材實雄驁。冥觀洞古今,象外逐幽好。
#3
勃興【ぼっこう】して李・杜を得たり、万類 陵暴【りょうぼう】に困しむ。
後来 相継ぎて生じ、亦各【おのお】の閫奧【こんおく】に臻【いた】る。
窮せる者に孟郊有り、材を受くること実に雄驁【ゆうごう】なり。
冥観【めいかん】古今を洞【つらぬ】き、象外 幽好【ゆうこう】を逐う。


#4
橫空盤硬語,妥帖力排奡。敷柔肆紆餘,奮猛卷海潦。
榮華肖天秀,捷疾逾響報。行身踐規矩,甘辱恥媚灶。
#4
空に横たわって硬語【こうご】を盤まらしめ、妥帖【だちょう】して力 孫を排す。
敷柔【ふじゅう】紆余【うよ】を肆【ほしい】ままにし、奮猛【ふんもう】海潦【かいりょう】を巻く。
栄華は天秀に肖【に】たり、捷疾【かいりょう】は響報【きょうほう】に逾【こ】ゆ。
身を行なうこと規矩【きく】を践み、辱しめに甘んじて竃に媚【こ】ぶるを恥ず。


#5
孟軻分邪正,眸子看了眊。杳然粹而清,可以鎮浮躁,
酸寒溧陽尉,五十幾何耄。孜孜營甘旨,辛苦久所冒。
#5
孟軻【もうか】は邪正を分かち、眸子【ぼうし】了眊【りょうもう】を看る。
杳然【ようぜん】として粋にして清し、以て浮躁【ふそう】を鎮【しず】む可し。
酸寒【さんかん】たり溧陽【りつよう】の尉、五十 幾何【いくばく】か耄【ぼう】せる。
孜孜【しし】として甘旨【かんし】を営み、辛苦【しんく】久しく冒す所。


#6
俗流知者誰,指注競嘲傲。聖皇索遺逸,髦士日登造。
廟堂有賢相,愛遇均覆燾。況承歸與張,二公迭嗟悼。
青冥送吹噓,強箭射魯縞。
#6
俗流 知る者は誰ぞ、指注して競って嘲傲【ちょうごう】す。
聖皇 遺逸を索【もと】め、髦士【ぼうし】 日に登造す。
廟堂【びょうどう】に賢相有り、愛遇【あいぐう】覆燾【ふとう】に均し。
況んや帰と張と、二公迭【たが】いに嵯悼【さとう】するを承【う】くるをや。
青冥に吹嘘【すいきょ】を送り、強箭【きょうせん】魯縞【ろこう】を射る。

#7
胡為久無成,使以歸期告。霜風破佳菊,嘉節迫吹帽。
念將決焉去,感物增戀嫪。彼微水中荇,尚煩左右芼。
魯侯國至小,廟鼎猶納郜。

胡【なん】為れぞ久しく成る無くして、帰期【きき】を以て告げしむる。
霜風 佳菊【かきく】を破り、嘉節【かせつ】吹帽に迫る。
将に決焉【けつぇん】として去らんとするを念えば、物に感じて恋謬【れんびゅう】を増す。
彼の微なる水中の抒も、尚左右の尾るを煩わす。
魯侯は国 至って小なるも、廟鼎【びょうてい】猶郜【こく】より納る。

#8
幸當擇瑉玉,寧有棄珪瑁。悠悠我之思,擾擾風中纛。
上言愧無路,日夜惟心禱。鶴翎不天生,變化在啄菢。
#8
幸いに瑉玉【みんぎょく】を択ぶに当たり、寧くんぞ珪瑁【けいぼう】を棄つること有らんや。
悠悠たり 我の思い、擾擾【じょうじょう】たり 風中の纛【はた】。
上言【じょうごん】路無きを愧じ、日夜 惟だ心に蒔るのみ。
鶴翎【かくれい】天生ぜず、変化 啄菢【たくほう】に在り。

#9
通波非難圖,尺地易可漕。善善不汲汲,後時徒悔懊。
救死具八珍,不如一簞犒。微詩公勿誚,愷悌神所勞。
通波 図り難きに非ず、尺地 漕ぐ可きこと易し。
善を善として汲汲たらずんば、後時 徒らに悔懊【かいおう】せん。
死を救うに八珍を具【そな】うるは、一箪【いったん】の犒に如かず。
微詩【びし】云 誚【そし】る勿かれ、愷悌【がいてい】は神の労【ねぎら】う所なり。





現代語訳と訳註
(本文)

薦士(薦孟郊于鄭餘慶也) #1
周詩三百篇,雅麗理訓誥。曾經聖人手,議論安敢到。
五言出漢時,蘇李首更號。東都漸瀰漫,派別百川導。
建安能者七,卓犖變風操。
 

(下し文)#1
周詩 三百篇、雅麗 訓浩を理む。
曾て聖人の手を経たれば、議論 安くんぞ敢て到らん。
五言は漢時より出で、蘇・李 首めて号を更む。
東都 漸く涌漫し、派別して百川導かる。
建安の能くする者 七。卓単として風操を変ず。


(現代語訳)
『詩経』は三百篇の詩からなり、風雅にして麗わしく、聖天子の教えの道・理を保持している。
それは一度聖人の手による編纂を経ているので(長い間『詩経』は孔子が編集してものと伝えられてきた)、したがって、軽々に議論できるような安易なものでは到底ない。
五言詩は漢代から現われ、蘇武・李陵が新しい創始者となった。
後漢ではしだいにひろまり、流派が多く分かれてそれぞれに系統を作った。
建安で詩をよくする者が七人いたが、彼らは人よりすぐれた才能によって、『詩経』や「琴操」の詩風を一変させた。


(訳注)
薦士
(薦孟郊于鄭餘慶也) #1
孟郊を鄭餘慶宰相に推薦したと作者註にあるが、歴史家が作時期を疑問視している。
この詩では、鄭余慶が宰相の地位にあって、それに韓愈が孟郊を推薦したもののように見える。鄭余慶が宰相となったのはたしかだが、ほどなく免職となって国子祭酒に任ぜられ、それから東都留守(洛陽の長官) に転出している。鄭余慶が孟郊を私的な部下として採用したのはこの東都留守の時期であり、かつ 『旧唐書』に見える孟邦の伝記によれは、鄭に孟郊を推薦したのは韓愈の門人の李翺だということになっている。)
この詩の制作年代と鄭余慶に対する効果については、はっきりせぬ点が存在するのである。
いずれにしても、長安へもどった韓愈のもとに、「韓門」 の人々がまた集まりだしたのである。彼らの生計まで気にかけるのも、韓愈の性格としては自然のことだったであろう。


周詩三百篇,雅麗理訓誥。
『詩経』は三百篇の詩からなり、風雅にして麗わしく、聖天子の教えの道・理を保持している。
・訓誥 典謨訓誥のこと。聖人の教え。 経典のこと。 「書経」にある、典、謨、訓、誥の四体の文の称で、同時に「書経」の篇名。これに誓、命を加えて尚書の六種ともいう。


曾經聖人手,議論安敢到。
それは一度聖人の手による編纂を経ているので(長い間『詩経』は孔子が編集してものと伝えられてきた)、したがって、軽々に議論できるような安易なものでは到底ない。


五言出漢時,蘇李首更號。
五言詩は漢代から現われ、蘇武・李陵が新しい創始者となった。
・蘇李 蘇武も李陵も漢代の武将。李陵は優勢な匈奴軍に包囲され、善戦したが、ついには降伏した。匈奴は李陵を厚く待遇し、匈奴軍の大将に任命した。また蘇武は、漢の外交使節として匈奴へ赴いたが、匈奴は蘇武を抑留し、匈奴の臣となることを強制した。蘇武はこれを拒絶し、さまざまな迫害にあったすえ、漢からの外交折衡により、無事に帰ることができた。そこで蘇武か帰国のとき、李陵が送りに出て、互いに唱和した詩が『文選『李都尉【従軍】陵』』に載っており、五言詩の始まりとされる。今日の研究では、すべて偽作とされているのだが、韓愈の時代には、本物と信じられていた。


東都漸瀰漫,派別百川導。
後漢ではしだいにひろまり、流派が多く分かれてそれぞれに系統を作った。
東都 後漢

建安能者七,卓犖變風操。 
建安で詩をよくする者が七人いたが、彼らは人よりすぐれた才能によって、『詩経』や「琴操」の詩風を一変させた。
・建安 後湊末期の年号。いわゆる三国時代が事実上姶まった時。・七人 孔融・陳琳・王栞・徐幹・R璃・応揚・劉禎。建安の七子。三曹七子・風操 『詩経』や「琴操」(琴の曲の歌詞)の詩風。
「郊廟歌辭」「燕射歌辭」「鼓吹歌辭」「橫吹曲辭」「相和歌辭」「淸商曲辭」「舞曲歌辭」「琴曲歌辭」「雜曲歌辭」「近代曲辭」「雜歌謠辭」