薦士 韓退之(韓愈)詩<62-#2>Ⅱ中唐詩369 紀頌之の漢詩ブログ1186


 鄭群『鄭羣贈簟』から竹むしろをもらったのは、詩中の言葉からみれば元和元年の五月以降のことと思われるが、それから間もない六月十日に、韓愈は権知国子博士の辞令をもらい、ようやく都へ召還されることとなった。「権知」とは「仮に事務を執る」という意味で、つまり事務取扱を意味する。鄭羣贈簟 #1 Ⅱ韓退之(韓愈)詩307 紀頌之の漢詩ブログ998

正規の官ではない、が、愈はこれで以前の職であった四門博士より上流の子弟を教育する学校の先生となり、官原生活としては、いわばふりだしに戻ったわけである。もっともそれにともなって、陽山だの江陵だのという、都から離れた土地でののんびりとした役人暮らしは終わりを告げ、彼はまた嘲笑と陰謀とが渦巻く朝廷での生活のなかに身を置かねばならなくなったのだが。

薦士(薦孟郊于鄭餘慶也) #1
周詩三百篇,雅麗理訓誥。
『詩経』は三百篇の詩からなり、風雅にして麗わしく、聖天子の教えの道・理を保持している。
曾經聖人手,議論安敢到。
それは一度聖人の手による編纂を経ているので(長い間『詩経』は孔子が編集してものと伝えられてきた)、したがって、軽々に議論できるような安易なものでは到底ない。
五言出漢時,蘇李首更號。
五言詩は漢代から現われ、蘇武・李陵が新しい創始者となった。
東都漸瀰漫,派別百川導。
後漢ではしだいにひろまり、流派が多く分かれてそれぞれに系統を作った。五言詩は漢代から現われ、蘇武・李陵が新しい創始者となった。
建安能者七,卓犖變風操。
 
建安で詩をよくする者が七人いたが、彼らは人よりすぐれた才能によって、『詩経』や「琴操」の詩風を一変させた。
周詩 三百篇、雅麗 訓浩を理む。
曾て聖人の手を経たれば、議論 安くんぞ敢て到らん。
五言は漢時より出で、蘇・李 首めて号を更む。
東都 漸く涌漫し、派別して百川導かる。
建安の能くする者 七。卓単として風操を変ず。

#2
逶迤抵晉宋,氣象日凋耗。
それからも詩の流れはずるずると晋・宋まで続き、性格は日ましに衰えていった。
中間數鮑謝,比近最清奧。
そのあいだでは鮑照・謝霊運・謝誂が挙げられ、おくれて出た詩人たちにくらべればとりわけ清新で奥深いものをもっている。
齊梁及陳隋,眾作等蟬噪。
しかし斉・宋から陳・隋となれば、多くの詩は作られているが蝉の鳴くのにひとしく、ただやかましいだけだ。
搜春摘花卉,沿襲傷剽盜。
六朝からの詩は春の息吹を搜して花を摘みとるように、美しい言葉ばかりを求めたあげく、続々と同じ表現が続いて剽窃という欠陥さえ見られ、妖艶、華美なものが文学に傷をつけた。
國朝盛文章,子昂始高蹈。
わが唐王朝では中國の歴史上最高に文学が栄え、初唐、陳子昂は始めて六朝の華美秀麗の詩風を一変し、高らかな第一歩を踏み出したのだ。
#2
逶迤【いい】として晋・宋に抵【いた】り。気象 日に凋耗【ちょうこう】す。
中間 鮑・謝【ほうしゃ】を数う、近に比すれば最も清奥【せいおう】なり。
斉・梁【せいりょう】と陳・隋【ちんずい】と、衆作 蝉噪【ぜんそう】に等し。
春を捜【さぐ】って花舟を摘み、沿襲【えんしゅう】して剽盗【ひょうとう】に傷つく。
国朝 文章盛んなり、子昂【すこう】 始めて高踏す。


#3
勃興得李杜,萬類困陵暴。後來相繼生,亦各臻閫奧。
有窮者孟郊,受材實雄驁。冥觀洞古今,象外逐幽好。
#3
勃興【ぼっこう】して李・杜を得たり、万類 陵暴【りょうぼう】に困しむ。
後来 相継ぎて生じ、亦各【おのお】の閫奧【こんおく】に臻【いた】る。
窮せる者に孟郊有り、材を受くること実に雄驁【ゆうごう】なり。
冥観【めいかん】古今を洞【つらぬ】き、象外 幽好【ゆうこう】を逐う。


#4
橫空盤硬語,妥帖力排奡。敷柔肆紆餘,奮猛卷海潦。
榮華肖天秀,捷疾逾響報。行身踐規矩,甘辱恥媚灶。
#4
空に横たわって硬語【こうご】を盤まらしめ、妥帖【だちょう】して力 孫を排す。
敷柔【ふじゅう】紆余【うよ】を肆【ほしい】ままにし、奮猛【ふんもう】海潦【かいりょう】を巻く。
栄華は天秀に肖【に】たり、捷疾【かいりょう】は響報【きょうほう】に逾【こ】ゆ。
身を行なうこと規矩【きく】を践み、辱しめに甘んじて竃に媚【こ】ぶるを恥ず。


#5
孟軻分邪正,眸子看了眊。杳然粹而清,可以鎮浮躁,
酸寒溧陽尉,五十幾何耄。孜孜營甘旨,辛苦久所冒。
#5
孟軻【もうか】は邪正を分かち、眸子【ぼうし】了眊【りょうもう】を看る。
杳然【ようぜん】として粋にして清し、以て浮躁【ふそう】を鎮【しず】む可し。
酸寒【さんかん】たり溧陽【りつよう】の尉、五十 幾何【いくばく】か耄【ぼう】せる。
孜孜【しし】として甘旨【かんし】を営み、辛苦【しんく】久しく冒す所。


#6
俗流知者誰,指注競嘲傲。聖皇索遺逸,髦士日登造。
廟堂有賢相,愛遇均覆燾。況承歸與張,二公迭嗟悼。
青冥送吹噓,強箭射魯縞。
俗流 知る者は誰ぞ、指注して競って嘲傲【ちょうごう】す。
#6
聖皇 遺逸を索【もと】め、髦士【ぼうし】 日に登造す。
廟堂【びょうどう】に賢相有り、愛遇【あいぐう】覆燾【ふとう】に均し。
況んや帰と張と、二公迭【たが】いに嵯悼【さとう】するを承【う】くるをや。
青冥に吹嘘【すいきょ】を送り、強箭【きょうせん】魯縞【ろこう】を射る。

#7
胡為久無成,使以歸期告。霜風破佳菊,嘉節迫吹帽。
念將決焉去,感物增戀嫪。彼微水中荇,尚煩左右芼。
魯侯國至小,廟鼎猶納郜。

胡【なん】為れぞ久しく成る無くして、帰期【きき】を以て告げしむる。
霜風 佳菊【かきく】を破り、嘉節【かせつ】吹帽に迫る。
将に決焉【けつぇん】として去らんとするを念えば、物に感じて恋謬【れんびゅう】を増す。
彼の微なる水中の抒も、尚左右の尾るを煩わす。
魯侯は国 至って小なるも、廟鼎【びょうてい】猶郜【こく】より納る。

#8
幸當擇瑉玉,寧有棄珪瑁。悠悠我之思,擾擾風中纛。
上言愧無路,日夜惟心禱。鶴翎不天生,變化在啄菢。
#8
幸いに瑉玉【みんぎょく】を択ぶに当たり、寧くんぞ珪瑁【けいぼう】を棄つること有らんや。
悠悠たり 我の思い、擾擾【じょうじょう】たり 風中の纛【はた】。
上言【じょうごん】路無きを愧じ、日夜 惟だ心に蒔るのみ。
鶴翎【かくれい】天生ぜず、変化 啄菢【たくほう】に在り。

#9
通波非難圖,尺地易可漕。善善不汲汲,後時徒悔懊。
救死具八珍,不如一簞犒。微詩公勿誚,愷悌神所勞。
通波 図り難きに非ず、尺地 漕ぐ可きこと易し。
善を善として汲汲たらずんば、後時 徒らに悔懊【かいおう】せん。
死を救うに八珍を具【そな】うるは、一箪【いったん】の犒に如かず。
微詩【びし】云 誚【そし】る勿かれ、愷悌【がいてい】は神の労【ねぎら】う所なり。





現代語訳と訳註
(本文)#2

逶迤抵晉宋,氣象日凋耗。中間數鮑謝,比近最清奧。
齊梁及陳隋,眾作等蟬噪。搜春摘花卉,沿襲傷剽盜。
國朝盛文章,子昂始高蹈。


(下し文) #2
逶迤【いい】として晋・宋に抵【いた】り。気象 日に凋耗【ちょうこう】す。
中間 鮑・謝【ほうしゃ】を数う、近に比すれば最も清奥【せいおう】なり。
斉・梁【せいりょう】と陳・隋【ちんずい】と、衆作 蝉噪【ぜんそう】に等し。
春を捜【さぐ】って花舟を摘み、沿襲【えんしゅう】して剽盗【ひょうとう】に傷つく。
国朝 文章盛んなり、子昂【すこう】 始めて高踏す。


(現代語訳)
それからも詩の流れはずるずると晋・宋まで続き、性格は日ましに衰えていった。
そのあいだでは鮑照・謝霊運・謝誂が挙げられ、おくれて出た詩人たちにくらべればとりわけ清新で奥深いものをもっている。
しかし斉・宋から陳・隋となれば、多くの詩は作られているが蝉の鳴くのにひとしく、ただやかましいだけだ。
六朝からの詩は春の息吹を搜して花を摘みとるように、美しい言葉ばかりを求めたあげく、続々と同じ表現が続いて剽窃という欠陥さえ見られ、妖艶、華美なものが文学に傷をつけた。
わが唐王朝では中國の歴史上最高に文学が栄え、初唐、陳子昂は始めて六朝の華美秀麗の詩風を一変し、高らかな第一歩を踏み出したのだ。


(訳注)
逶迤抵晉宋,氣象日凋耗。
それからも詩の流れはずるずると晋・宋まで続き、性格は日ましに衰えていった。
西暦301頃~439 " 301年に始まった帝位継承紛争「八王の乱」によって西晋王朝が崩壊し始めたのを契機に、当時、中国の内外に多数居住していた異民族が華北に侵入した。彼らは略奪を行って引き上げるという遊牧民的な行動の代わりに中華領域内に定住して数多くの国を建国した。国の数がおおよそ十六であり、この時代を担った異民族が五族(匈奴、鮮卑、羯、羌、氐*1)であったことからこの名がある。
一般に、439年、北魏が北涼を滅ぼして華北を統一した時点でこの時代は終わり、南北朝時代*2に移るとされる。おおまかにいって、華北主要部では、東部と西部に確立した二つの王朝が対立する構図が、王朝が交代しながら続いた。現在の甘粛省付近では、いずれも「涼」と自称する*3五つの王朝が興亡した。江南はほぼ一貫して西晋王朝の衣鉢を継ぐ東晋王朝が存続した。こうした大勢力の間でいくつかの小国が勃興し滅亡していった。"    
439(420)~589中国史における南北朝時代(なんぼくちょうじだい)は、北魏が華北を統一した439年から始まり、隋が中国を再び統一する589年まで、中国の南北に王朝が並立していた時期を指す。
この時期、華南には宋 ⇒ 斉 ⇒ 梁 ⇒ 陳の4つの王朝が興亡した。こちらを南朝と呼ぶ。同じく建康(建業)に都をおいた三国時代の呉、東晋と南朝の4つの王朝をあわせて六朝(りくちょう)と呼び、この時代を六朝時代とも呼ぶ。この時期、江南の開発が一挙に進み、後の隋や唐の時代、江南は中国全体の経済基盤となった。
南朝では政治的な混乱とは対照的に文学や仏教が隆盛をきわめ、六朝文化と呼ばれる貴族文化が栄えて、王羲之や陶淵明などが活躍した。
また華北では、鮮卑拓跋部の建てた北魏が五胡十六国時代の戦乱を収め、北方遊牧民の部族制を解体し、貴族制に基づく中国的国家に脱皮しつつあった。
北魏は六鎮の乱を経て、534年に東魏、西魏に分裂した。
東魏は550年に西魏は556年にそれぞれ北斉、北周に取って代わられた。577年、北周は北斉を滅ぼして再び華北を統一する。その後、581年に隋の楊堅が北周の譲りを受けて帝位についた。589年、隋は南朝の陳を滅ぼし、中国を再統一した。普通は北魏・東魏・西魏・北斉・北周の五王朝を北朝と呼ぶが、これに隋を加える説もある。李延寿の『北史』が隋を北朝に列しているためである。" 

   
中間數鮑謝,比近最清奧。
そのあいだでは鮑照・謝霊運・謝誂が挙げられ、おくれて出た詩人たちにくらべればとりわけ清新で奥深いものをもっている。
謝霊運 385~433南朝の宋の詩人。陽夏(河南省)の人。永嘉太守・侍中などを歴任。のち、反逆を疑われ、広州で処刑された。江南の自然美を精緻(せいち)な表現によって山水詩にうたった。 
顔 延之(がん えんし) 384年 - 456年 、)は中国南北朝時代、宋の文学者。字は延年。本籍地は琅邪郡臨沂県(現在の山東省臨沂市)。宋の文帝や孝武帝の宮廷文人として活躍し、謝霊運・鮑照らと「元嘉三大家」に総称される。また謝霊運と併称され「顔謝」とも呼ばれる。 
鮑照 412 頃-466 六朝時代、宋の詩人。字(あざな)は明遠。元嘉年間の三大詩人の一人として謝霊運・顔延之と併称された。擬行路難 , 代出自薊北門行
謝朓③(しゃちょう)464年 - 499 南北朝時代、南斉の詩人。現存する詩は200首余り、その内容は代表作とされる山水詩のほか、花鳥風月や器物を詠じた詠物詩、友人・同僚との唱和・離別の詩、楽府詩などが大半を占める。竟陵八友のひとり。遊東田,玉階怨、王孫遊、金谷聚、同王主薄有所思、


齊梁及陳隋,眾作等蟬噪。
しかし斉・宋から陳・隋となれば、多くの詩は作られているが蝉の鳴くのにひとしく、ただやかましいだけだ。
竟陵八友:南斉の皇族、竟陵王蕭子良の西邸に集った文人 (①蕭衍・②沈約・③謝朓・④王融・⑤蕭琛・⑥范雲・⑦任昉・⑧陸倕)


搜春摘花卉,沿襲傷剽盜。
六朝からの詩は春の息吹を搜して花を摘みとるように、美しい言葉ばかりを求めたあげく、続々と同じ表現が続いて剽窃という欠陥さえ見られ、妖艶、華美なものが文学に傷をつけた。
剽盜 人の文章を脅かしぬすむ。またかすめとる。剽窃。剽竊。


國朝盛文章,子昂始高蹈。
わが唐王朝では中國の歴史上最高に文学が栄え、初唐、陳子昂は始めて六朝の華美秀麗の詩風を一変し、高らかな第一歩を踏み出したのだ。
陳子昴(ちんすこう)661年 - 702年、六朝期の華美さを脱して漢代の建安文学にみられるような堅固さを理想とする詩を作り、盛唐の質実な詩の礎を築いた。登幽州臺歌(前不見古人)、 感遇三十八首 其二(蘭若生春夏)、題祀山烽樹贈喬十二侍御(漢庭榮巧宦)、  送別(落葉聚還散)