薦士 韓退之(韓愈)詩<62-#5>Ⅱ中唐詩372 紀頌之の漢詩ブログ1195


薦士(薦孟郊于鄭餘慶也) 

#5
孟軻分邪正,眸子看了眊。
むかし孟子は人柄の正邪を見分けようとして、『論語、雍也篇』に見えるその人のひとみを決め手としたものだが、孟郊のひとみは明らか「正」であるのだ。
杳然粹而清,可以鎮浮躁,
その人物の奥深さははっきりしないのではあるが確かなことは純粋で清らかであり、そして、浮ついた気風を鎮静させることができる。
酸寒溧陽尉,五十幾何耄。
彼は溧陽の尉としてうだつのあがらぬ貧乏暮らしをしていたが、五十代で耄という年、八十歳または九十歳にはまだどれほどの間があることか。
孜孜營甘旨,辛苦久所冒。

しかもこつこつと母親の世話を熱心に努め励んできたし、長いことさまざまの苦労をなめてきた。世の俗物どもで彼の真価を知っている者がどれだけあることか。みなうしろ指をさし、われがちにあざわらっている。

#5
孟軻【もうか】は邪正を分かち、眸子【ぼうし】了眊【りょうもう】を看る。
杳然【ようぜん】として粋にして清し、以て浮躁【ふそう】を鎮【しず】む可し。
酸寒【さんかん】たり溧陽【りつよう】の尉、五十 幾何【いくばく】か耄【ぼう】せる。
孜孜【しし】として甘旨【かんし】を営み、辛苦【しんく】久しく冒す所。



現代語訳と訳註
(本文) #5

孟軻分邪正,眸子看了眊。杳然粹而清,可以鎮浮躁,
酸寒溧陽尉,五十幾何耄。孜孜營甘旨,辛苦久所冒。


(下し文) #5
孟軻【もうか】は邪正を分かち、眸子【ぼうし】了眊【りょうもう】を看る。
杳然【ようぜん】として粋にして清し、以て浮躁【ふそう】を鎮【しず】む可し。
酸寒【さんかん】たり溧陽【りつよう】の尉、五十 幾何【いくばく】か耄【ぼう】せる。
孜孜【しし】として甘旨【かんし】を営み、辛苦【しんく】久しく冒す所。


(現代語訳)
むかし孟子は人柄の正邪を見分けようとして、『論語、雍也篇』に見えるその人のひとみを決め手としたものだが、孟郊のひとみは明らか「正」であるのだ。
その人物の奥深さははっきりしないのではあるが確かなことは純粋で清らかであり、そして、浮ついた気風を鎮静させることができる。
彼は溧陽の尉としてうだつのあがらぬ貧乏暮らしをしていたが、五十代で耄という年、八十歳または九十歳にはまだどれほどの間があることか。
しかもこつこつと母親の世話を熱心に努め励んできたし、長いことさまざまの苦労をなめてきた。世の俗物どもで彼の真価を知っている者がどれだけあることか。みなうしろ指をさし、われがちにあざわらっている。


(訳注)#5
孟軻分邪正,眸子看了眊。
むかし孟子は人柄の正邪を見分けようとして、『論語、雍也篇』に見えるその人のひとみを決め手としたものだが、孟郊のひとみは明らか「正」であるのだ。
眸子看了眊 論語雍也第六) 3孟子曰:「存乎人者,莫良於眸子;眸子不能掩其惡。胸中正,則眸子瞭焉;胸中不正,則眸子眊焉。聽其言也,觀其眸子,人焉廋哉?」(孟子曰わく、人を存(察)るには眸子より良きはなし。眸子はその悪を奄すこと能わず。胸中正しければ眸子も暸らかに、胸中正しからざれば眸子も咤し。)


杳然粹而清,可以鎮浮躁,
その人物の奥深さははっきりしないのではあるが確かなことは純粋で清らかであり、そして、浮ついた気風を鎮静させることができる。
杳然【ようぜん】はるかに遠いさま。また、深くかすかなさま。その人物の奥深さははっきりしないほどではあるが。

酸寒溧陽尉,五十幾何耄。
彼は溧陽の尉としてうだつのあがらぬ貧乏暮らしをしていたが、五十代で耄という年、八十歳または九十歳にはまだどれほどの間があることか。
酸寒 苦寒、韓愈『赴江陵途中寄贈王二十補闕李十一拾遺李二十六員外翰林三學士』「酸寒何足道,隨事生瘡疣。」生活が苦しいのはいまさら言うまでもなく、嫌いなことをしているとかさぶたができるというが、何につけてもかさぶたのできるようなことばかりだ。中唐詩-287 赴江陵途中寄贈王二十補闕李十一拾遺李二十六員外翰林三學士 #6 Ⅱ韓退之(韓愈) 紀頌之の漢詩ブログ 韓愈特集-35-#6

孜孜營甘旨,辛苦久所冒。

しかもこつこつと母親の世話を熱心に努め励んできたし、長いことさまざまの苦労をなめてきた。世の俗物どもで彼の真価を知っている者がどれだけあることか。みなうしろ指をさし、われがちにあざわらっている。
孜孜【しし】熱心に努め励むさま。・營甘旨 さまざまの苦労をなめてきたこと。・辛苦久所冒 孟郊は故郷の母を江蘇省溧陽の尉となった時に呼び直接面倒を見ているが不遇は続き、生活は困窮のままであったので、韓愈が孟郊を抜擢してもらうよう動いた。しかし、貧相な孟郊を嘲ったことをいう。
孟郊 唐代の詩人。751年― 814年字は東野、諡は貞曜先生という。湖州武康(浙江省)の出身。狷介不羈で人嫌いのために、若い頃は河南省嵩山に隠れた。798年、50歳の時に三度目で進士に及第し、江蘇省溧陽の尉となった。一生不遇で、憲宗の時代に没する。
詩は困窮・怨恨・憂愁を主題としたものが多く、表現は奇異。韓愈とならんで「韓孟」と称せられる。蘇軾は賈島とならべて「郊寒島痩」、つまり孟郊は殺風景で賈島は貧弱と評す。韓愈が推奨するところの詩人であり、「送孟東野序」が知られている。『孟東野集』10巻がある。


「郊寒島痩」屈折された文学
宋の蘇軾は「祭柳子玉文」(『蘇軾文集』巻六十三、中華書局、一九八六)の中で、孟郊と賈島の詩の特色を「郊寒島痩」ということばで批評した。孟郊は寒く、賈島は痩せているという。「寒」「痩」という評語は、孟郊と賈島の詩を否定したものではなく、そこに新しい美意識を認めるのである。既に孟郊の「交友」友情、愛情について「求友」  「擇友」  「結交」 「勸友」 「審交」   結愛  の六首を見た。    
孟郊の「人」について、「寒地百姓吟」(巻三)を例に挙げて、孟郊が「人」をどのように描いているか見てみよう。この詩には、「為鄭相、其年居河南、畿内百姓、大蒙矜卹」という自注がついている。宰相をつとめた鄭余慶が河南尹となり、人民のために尽くしたのを讃えた詩で、元和元年(八〇六)、五十六歳の作。孟郊は鄭余慶の下で、河南水陸運従軍、試協律郎の職に就いていた。

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