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琴操十首 
琴操 琴うた。本来は、楽曲をさしたものであろうが、その一つ一つの曲に、由来がつき、その故事にもとづいて歌詞が作られるようになった。それらを編した書として、後漢の蔡邕(132-192年)に「琴操」がある。後漢末期の政治家・儒者・書家。字は伯喈(はくかい)。陳留郡圉県の人。蔡琰(蔡文姫)の父。熹平石経の揮毫者の一人で、飛白体の創始者とされる。
献帝の時代に入り董卓が権力を握ると、董卓は都に知識人らを招き、学者として高名だった蔡邕も招聘された。蔡邕は断ろうとしたが断りきれずに再び朝廷に出仕し、ここでも厚遇された。 董卓が王允らにより殺されると、厚くもてなされていた蔡邕は深く悲しんだ。これを知った王允は激怒し、蔡邕を投獄。間もなく処刑された。三国志の初めごろに登場してくる。
蔡邕の『琴操十二首』についてその題のみあげると、《伐檀操》《騶虞操》《白駒操》《將歸操》《猗蘭操》《龜山操》《越裳操》《拘幽操》《履霜操》《雉朝飛操》《別鶴操》《殘形操》である。後半太字について韓愈の十首にあるものである。


韓愈は、この蔡邕の著といわれるものにもとづいて新しくその歌詞を作ったわけである。操は、「憂愁して作る、これを命づけて操と日う。言うこころは、窮すれば則ち独りその身を善くして、その操を失しなわざるなり。」と、謝希逸(南北朝の末の謝荘〔421-466年〕)の「琴論」にあり、「操:ひく」ことであろう。韓愈の「琴操」の制作された年は不明であるが、その新しい詩風を求めようとする意欲的な態度から考えて「南山の詩」「城南聯歌」などの作られた806年元和初年の作とした。韓愈は四十歳前後であった。詩風からいって晩年のものとは思えない。


蔡邕『琴操十二首』

1.《伐檀操》者,魏國女之所作也。傷賢者隱避,素餐在位,閔傷怨曠,失其嘉會。夫聖王之製,能治人者食於人,治於人者食於田。今賢者隱退伐木,小人在位食祿,懸珍奇,積百穀,並包有土,德澤不加百姓。傷痛上之不知,王道之不施,仰天長歎,援琴而鼓之.


2.《白駒操》者,失朋友之所作也。其友賢居任也。衰亂之世,君無道,不可匡輔,依違成風,諫不見受。國士詠而思之,援琴而長歌。


3.《騶虞操》者,邵國之女所作也。古者聖王在上,君子在位,役不逾時,不失嘉會。內無怨女,外無曠夫。及周道衰微,禮義廢弛,強淩弱,眾暴寡,萬民騷動,百姓愁苦;男怨於外,女傷其內,內外無主:內迫性情,外逼禮義。欲傷所讒,而不逢時,於是援琴而歌。


4.《將歸操》者,孔子之所作也。趙簡子循執玉帛,以聘孔子。孔子將往,未至,渡狄水,聞趙殺其賢大夫竇鳴犢,喟然而歎之曰:“夫趙之所以治者,鳴犢之力也。殺鳴犢而聘餘,何丘之往也?夫燔林而田,則麒麟不至;覆巢破卵,則鳳皇不翔。鳥獸尚惡傷類,而況君子哉?” 於是援琴而鼓之雲:“翱翔於衛,複我舊居;從吾所好,其樂隻且。”


5.《猗蘭操》者,孔子所作也。孔子曆聘諸侯,諸侯莫能任。自衛反魯,過隱穀之中,見薌蘭獨茂,喟然歎曰:“夫蘭當為王者香,今乃獨茂,與眾草為伍,譬猶賢者不逢時,與鄙夫為倫也。” 乃止車援琴鼓之雲:“ 習習穀風,以陰以雨。之子於歸,遠送於野。何彼蒼天,不得其所。逍遙九州,無所定處。世人暗蔽,不知賢者。年紀逝邁,一身將老。”自傷不逢時,托辭於薌蘭雲。


6.《龜山操》者,孔子所作也。齊人饋女樂,季桓子受之,魯君閉門不聽朝。當此之時,季氏專政,上僭天子,下畔大夫,賢聖斥逐,讒邪滿朝。孔子欲諫不得,退而望魯,魯有龜山蔽之。辟季氏於龜山,托勢位於斧柯;季氏專政,猶龜山蔽魯也。傷政道之淩遲,閔百姓不得其所,欲誅季氏,而力不能。於是援琴而歌雲:“予欲望魯兮,龜山蔽之。手無斧柯,奈龜山何?”


7.《越裳操》者,周公之所作也。周公輔成王,成文王之王道,天下太平,萬國和會,江黃納貢,越裳重九譯而來獻白雉,執贄曰:“吾君在外國也,頃無迅風暴雨,意者中國有聖人乎?故遣臣來。”周公於是仰天而歎之。乃援琴而鼓之,其章曰:“於戲嗟嗟,非旦之力,乃文王之德。”遂受之,獻於文王之廟。


8《拘幽操》者,文王拘於 裏而作也。文王備修道德,百姓親附。文王有二子,周公、武王皆聖。是時崇侯虎與文王列為諸侯,德不能及文王,常嫉妒之。乃譖文王於紂曰:“西伯昌,聖人也。長子發、中子旦,皆聖人也。三聖合謀,將不利於君,君其慮之。” 紂用其言,乃囚文王於 裏,擇日欲殺之。於是文王四臣太顛、閎夭、散宜生、南宮適之徒,往見文王。文王為反目者,紂之好色也;桴其腹者,言欲得奇寶也;蹀躞其足者,使疾迅也。於是乃周流海內,經曆風土,得美女二人、水中大貝、白馬朱鬣,以獻於紂。陳於中庭,紂見之,仰天而歎曰:“嘻哉,此誰寶?” 散宜生趨而進曰:“是西伯之寶,以贖刑罪。” 紂曰:“於寡人何其厚也!” 立出西伯。紂謂宜生:“譖岐侯者,長鼻決耳也。” 宜生還,以狀告文王,乃知崇侯譖之。文王在 裏時,演八卦以為六十四卦,作鬱尼之辭:“困於石,據於蒺藜。” 乃申憤以作歌曰:“ 殷道溷溷,浸濁煩兮。朱紫相合,不別分兮。迷亂聲色,信讒言兮。炎炎之虐,使我愆兮。無辜桎梏,誰所宣兮。幽閉牢,由其言兮。遘我四人,憂勤勤兮。得此珍玩,且解大患兮。倉皇迄命,遺後昆兮。作此象變,兆在昌兮。欽承祖命,天下不喪兮。遂臨下土,在聖明兮。討暴除亂,誅逆王兮."


蔡邕にはない ◎岐山操 韓愈

9.《履霜操》者,尹吉甫之子伯奇所作也。吉甫,周上卿也,有子伯奇。伯奇母死,吉甫更娶後妻,生子曰伯邦。乃譖伯奇於吉甫曰:“伯奇見妾有美色,然有欲心。” 吉甫曰:“伯奇為人慈仁,豈有此也?” 妻曰:“試置妾空房中,君登樓而察之。” 後妻知伯奇仁孝,乃取毒蜂綴衣領,伯奇前持之。於是吉甫大怒,放伯奇於野。伯奇編水荷而衣之,采花而食之,清朝履霜,自傷無罪見逐,乃援琴而鼓之曰:“ 履朝霜兮采晨寒,考不明其心兮聽讒言,孤恩別離兮摧肺肝,何辜皇天兮遭斯愆。痛歿不同兮恩有偏,誰說顧兮知我冤。” 宣王出遜,吉甫從之,伯奇乃作歌,以言感之於宣王。宣王聞之,曰:“此孝子之辭也。” 吉甫乃求伯奇於野而感悟,遂射殺後妻


10.《雉朝飛操》者,齊獨沐子所作也。獨沐子年七十無妻,出薪於野,見飛雉雄雌相隨,感之,撫琴而歌曰:“雉朝飛,鳴相和,雌雄群遊於山阿。我獨何命兮未有家,時將暮兮可奈何,嗟嗟暮兮可奈何?”


11.《別鶴操》者,商陵牧子所作也。牧子娶妻五年,無子,父兄欲為改娶。妻聞之,中夜驚起,倚戶悲嘯。牧子聞之,援琴鼓之雲:“痛恩愛之永離,歎別鶴以舒情。”故曰《別鶴操》。後仍為夫婦。


12.《殘形操》者,曾子所作也。曾子鼓琴,墨子立外而聽之。曲終,入曰:“善哉鼓琴!身已成矣,而曾未得其首也。” 曾子曰:“吾晝臥見一狸,見其身而不見其頭,起而為之弦,因而殘形。”