琴操十首  (5)拘幽操  文王羑裏作 韓退之(韓愈)詩<71-(5)>Ⅱ中唐詩435 紀頌之の漢詩ブログ1384

     
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琴操十首(5)拘幽操 文王羑裏作
拘幽操
目窈窈兮,其凝其盲。
目はくろぐろとしているが、こりかたまってしまいなに一つ見えないのだ。
耳肅肅兮,聽不聞聲。
耳はシーンシーンとしているけれど、いくらすましても声はきこえない。
朝不日出兮,夜不見月與星。
朝になっても日は出ず、夜るに月も星さえも見えない。
有知無知兮,為死為生?
知覚があるだろうかそれともないのか、死んでいるのだろうかそれとも生きているのか。
嗚呼,臣罪當誅兮,天王聖明。

ああ、わたしの罪は処刑に相当するのだ、天子の徳はまちがいがないことなのだ。


現代語訳と訳註
(本文)
拘幽操 文王羑裏作
目窈窈兮,其凝其盲。
耳肅肅兮,聽不聞聲。
朝不日出兮,夜不見月與星。
有知無知兮,為死為生?
嗚呼,臣罪當誅兮,天王聖明。


(下し文) 拘幽操【こうゆうそう】
文王 羑裏【ゆうり】に作る
目 窈窈【ゆうゆう】として,其れ凝り 其れ盲【めし】い。
耳 肅肅【しゅくしゅく】として,聽けども聲を聞かず。
朝 不日の出でず,夜 月と星とを見ず。
知有りや 知無しや,死と為さんや 生と為さんや?
嗚呼【ああ】,臣が罪は誅【ちゅう】に當り,天王は聖明なり。


(現代語訳)
目はくろぐろとしているが、こりかたまってしまいなに一つ見えないのだ。
耳はシーンシーンとしているけれど、いくらすましても声はきこえない。
朝になっても日は出ず、夜るに月も星さえも見えない。
知覚があるだろうかそれともないのか、死んでいるのだろうかそれとも生きているのか。
ああ、わたしの罪は処刑に相当するのだ、天子の徳はまちがいがないことなのだ。


(訳注)
拘幽操

・拘幽操「ひとやにとらわれ」のうた。
文王羑裏作
蔡邕『琴操』「文王備修道德,百姓親附。是時崇侯虎與文王列為諸侯,德不能及文王,常嫉妒之。乃譖文王於紂曰:“西伯昌,聖人也。長子發、中子旦,皆聖人也。三聖合謀,將不利於君,君其慮之。紂用其言,乃囚文王於羑裏,擇日欲殺之。於是文王四臣太顛、閎夭、散宜生、南宮適之徒,往見文王。文王為反目者,紂之好色也。文王在羑裏時,演八卦以為六十四卦,作鬱尼之辭。」
(文王、徳を修め、百姓親附す。崇侯虎、これを疾み、紂に謗って日く、西伯昌は聖人なり。長子発中子旦、皆聖人なり。三聖、謀を合す。君其れ之を慮へ。と。乃ち文王か羑裏に囚へ、将に之を殺さむとす。ここにおいて、文王の四臣、散宜生の徒、美女大見白馬来鼠を得て、以て紂に献ず。紂遂に西伯を出す。文王、羑裏に在りしとき、易の八卦を演じて六十四となし、鬱厄の辞を作る)

周の文王は、善政を施し、徳行にはげんだので、人民たちは文王に心を寄せた。そこで、殷の紂王(暴君の代名詞紂王))に、文王は人望を集め野心をいだいていると、謹言したものがあって、紂王は、文王を羑裏というところに監禁した。文王が監禁されているときの心持ちを述べたものとして作った歌である。
幽閉された時期に、周易を書いた。その後、昌は財宝と領地を帝辛に献上して釈放され、西伯(西の統括をする諸侯の事)に任じられた。
国許に帰った昌は紂王に目を付けられないようにしながら仁政を行った。
羑裏は、今の河南省湯陰県付近にあった。


目窈窈兮,其凝其盲。
目はくろぐろとしているが、こりかたまってしまいなに一つ見えないのだ。
・訪窃 まっくらな形容。
・凝 目がこちこちになって、見えないこと。


耳肅肅兮,聽不聞聲。
耳はシーンシーンとしているけれど、いくらすましても声はきこえない。
粛粛 静かな様子をいう。シーンシーンという耳鳴りの昔。あるいは風の音だけが聞える状況である。
 注意してきくこと。下の「聞」がきこえてくる意であるのに対する。


朝不日出兮,夜不見月與星。
朝になっても日は出ず、夜るに月も星さえも見えない。


有知無知兮,為死為生?
知覚があるだろうかそれともないのか、死んでいるのだろうかそれとも生きているのか。
有知無知 知覚があるかないかさえ分からない。
為死為生 死んでいるのか生きているのかも分からない。


嗚呼,臣罪當誅兮,天王聖明。
ああ、わたしの罪は処刑に相当するのだ、天子の徳はまちがいがないことなのだ。
臣罪当誅 わたしは今のこの罰が当然なほどの罪を犯している。罪のない文王が自ら罪ありといっているのは、反省的な文王の徳の高さをあらわすものだ。
天王 天子のこと。肘をさす。「春秋」に見えるいい方である。
聖明 天子の徳についていうことば。その道はどこにでも通じ、その明は至るところを照らすことをいう。天子さまは何でも御存知だ、まちがいがない、という心持ちを持つ。


蔡邕 『琴操』《拘幽操》
者,文王拘於羑裏而作也。文王備修道德,百姓親附。文王有二子,周公、武王皆聖。是時崇侯虎與文王列為諸侯,德不能及文王,常嫉妒之。乃譖文王於紂曰:“西伯昌,聖人也。長子發、中子旦,皆聖人也。三聖合謀,將不利於君,君其慮之。” 紂用其言,乃囚文王於 裏,擇日欲殺之。於是文王四臣太顛、閎夭、散宜生、南宮適之徒,往見文王。文王為反目者,紂之好色也;桴其腹者,言欲得奇寶也;蹀躞其足者,使疾迅也。於是乃周流海內,經曆風土,得美女二人、水中大貝、白馬朱鬣,以獻於紂。陳於中庭,紂見之,仰天而歎曰:“嘻哉,此誰寶?” 散宜生趨而進曰:“是西伯之寶,以贖刑罪。” 紂曰:“於寡人何其厚也!” 立出西伯。紂謂宜生:“譖岐侯者,長鼻決耳也。” 宜生還,以狀告文王,乃知崇侯譖之。文王在 裏時,演八卦以為六十四卦,作鬱尼之辭:“困於石,據於蒺藜。” 乃申憤以作歌曰:“ 殷道溷溷,浸濁煩兮。朱紫相合,不別分兮。迷亂聲色,信讒言兮。炎炎之虐,使我愆兮。無辜桎梏,誰所宣兮。幽閉牢,由其言兮。遘我四人,憂勤勤兮。得此珍玩,且解大患兮。倉皇迄命,遺後昆兮。作此象變,兆在昌兮。欽承祖命,天下不喪兮。遂臨下土,在聖明兮。討暴除亂,誅逆王兮."


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文王(ぶんのう、ぶんおう、? - 紀元前1152年-紀元前1056年 寿命 97才)は、中国の周朝の始祖。姓は姫、諱は昌。父季歴と母太任の子。周王朝の創始者である武王の父にあたる。
文王は商に仕えて、三公(特に重要な三人の諸侯)の地位にあり、父である季歴の死後に周の地を受け継ぎ、岐山のふもとより本拠地を灃河(渭河の支流である。湖南省の澧水とは字が異なる)の西岸の豊邑(正しくは豐邑。後の長安の近く)に移し、仁政を行ってこの地を豊かにしていた。
この時の商王は暴君の代名詞紂王(帝辛)であった。ある時に昌と同じく三公の一人、鄂崇禹が残酷な殺され方をした事で思わずため息をついたが、これを紂のやり方に不満があると讒言された昌は羑里(ゆうり)に幽閉された。幽閉された時期に、周易を書いた。その後、昌は財宝と領地を帝辛に献上して釈放され、西伯(西の統括をする諸侯の事)に任じられた。
国許に帰った昌は紂王に目を付けられないようにしながら仁政を行った。ある時に虞とゼイという小国が互いの間の紛争の調停を頼むために周にやってきたが、周の人民はあぜを譲り合い、老人を敬する気風があったので、自分達がつまらない事で争っている事に二つの国の君主は恥ずかしくなって、昌に会わずに国許に帰った。
その後、領土を広げ、また太公望呂尚を軍師に迎えた。紂王の無道に見切りを付けた諸侯はみんな昌を頼るようになったが、最後まで商の臣下としてあり続けた。死後息子の武王が文王の積み上げた物を基盤として商を倒し、周王朝を立てた。武王は昌に対し文王と追号した。後世、特に儒家からは武王と並んで聖王として崇められ、為政者の手本となった。