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登永嘉緑嶂山詩 #1 謝霊運 <20> 詩集 386ー
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李商隠詩 http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/3991_rishoin000.html 李商隠詩 華やかな時はほんの1年余り、残りは不遇であった。それが独特な詩を生み出した。この詩人の詩は物語であり、詩を単発で見ては面白くなく、数編から十数編のシリーズになっているのでそれを尊重して読まれることを進める。
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李商隠詩
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原道 韓退之(韓愈)詩<115-1>Ⅱ中唐詩573 漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ1858


儒教の復興は、彼の思想の基盤である。古文復興運動とは表裏のものであり、その観点から原道」「原性」「原毀」「原人」「「原鬼」などを著している。その一方で、排仏論も、彼の儒教復興の姿勢からきたものであった。六朝から隋、唐にかけての崇仏の傾向が強くくなったのも中国人民に儒教が嫌悪されたからで、学問として哲学としても敬遠されたのだ。そうした中で、韓愈の一門は中国古来の儒教の地位を回復しようとするのであった。

「原」(尋ねるという意味)は、『淮南子』の「原道訓」に倣って、韓愈が始めた論文の一種で、本原をたずねて推論する性質のもであって、「原道」「原性」「原毀」「原人」「原鬼」の五原がある。
《原性》を書いて性三品説を確立した。
《原毀》世の謗りは人は多情であっても名声あるものを嫉妬することにある。
《原人》人間とは何か、人道、「仁」の本原の理を明らかにする。
《原鬼》人間の精霊の本原の理を明らかにする。
ということである。
まず原道から始めることとする。長文のため、意味によって区切り、おおむね14段分割し、掲載は22回程度になる。
原道 韓退之(韓愈)01

原道
『原道』:儒教家の道徳根原へ本質を原(たず)ねる文。

老荘や釈迦の教えが盛んであった盛唐、中唐において、これらの思想を排斥して'中国古来の聖人の道、儒家の実際主義の道徳を明らかにするもので、韓愈の思想を最もよ-表明した議論文ということになる。


1段目
道をたずねる。
博愛之謂仁,行而宜之之謂義。
分け隔てなく人々を愛すること、これを仁という。そういう行為は適宜におこなうこと、これを義という。
由是而之焉之謂道,足乎己無待於外之謂德。
この仁と義により通って行くこと、これを道という。人が生まれならに得ている性格、また学問や修養によって身つけ得たもの、外から何にもしないで与えられることを待たないものであること、これを徳という。徳は得、自身に得ている人格である
仁與義為定名,道與德為虛位。
この場合、仁と義は具体的に人を愛する情と、適宜という理性をもって行いを宜しくする筋道とであるから、定格した名称である。それに反して、道と徳は由るべき道とか、得ている性格とかいうものであるからそれは内容の虚しいものでしかないのだ。従って各種の内容の入り得る場所、すなわち抽象概念である。
故道有君子小人,而德有凶有吉。
それ故、道には君子のものがあり、小人の道もある。そして徳には悪い不祥な人格もあれば、良い嘉すべき人格もあるということである。

博く愛する之を仁と謂う。行って之を宜しうする、之を義と謂う。
これ由【よ】って之く、之を道と謂う、己に足りて、外に待つこと無き、之を徳と謂う。
仁と義は定名爲り、道と徳は虚位為り。
故に道君子有り 小人有り、而して徳に凶有り吉有り。

『原道』 現代語訳と訳註
(本文)
1段目
博愛之謂仁,行而宜之之謂義。由是而之焉之謂道,足乎己無待於外之謂德。仁與義為定名,道與德為虛位。故道有君子小人,而德有凶有吉。


(下し文)
博く-愛する之を仁と謂う。行って之を宜しうする、之を義と謂う。
これ由【よ】って之く、之を道と謂う、己に足りて、外に待つこと無き、之を徳と謂う。
仁と義は定名爲り、道と徳は虚位為り。
故に道君子有り 小人有り、而して徳に凶有り吉有り。


(現代語訳)
道をたずねる。
分け隔てなく人々を愛すること、これを仁という。そういう行為は適宜におこなうこと、これを義という。
この仁と義により通って行くこと、これを道という。人が生まれならに得ている性格、また学問や修養によって身つけ得たもの、外から何にもしないで与えられることを待たないものであること、これを徳という。徳は得、自身に得ている人格である
この場合、仁と義は具体的に人を愛する情と、適宜という理性をもって行いを宜しくする筋道とであるから、定格した名称である。それに反して、道と徳は由るべき道とか、得ている性格とかいうものであるからそれは内容の虚しいものでしかないのだ。従って各種の内容の入り得る場所、すなわち抽象概念である。
それ故、道には君子のものがあり、小人の道もある。そして徳には悪い不祥な人格もあれば、良い嘉すべき人格もあるということである。


(訳注)
原道 1段目


博愛之謂仁,行而宜之之謂義。
分け隔てなく人々を愛すること、これを仁という。そういう行為は適宜におこなうこと、これを義という。
○愽愛 分け隔てなく人々を愛すること。
○仁 仁愛、人の道。仁はひと訓ずる。人間関係に存在す愛情をいう。人のなさけ。これは、親子兄弟から博く一般に及ぼす、博愛が仁の窮極であるから、博愛を仁という。
○義 すじみち、理性によって行動を規制し、宜しくする。義は宜であり、「よし」と訓ずる。


由是而之焉之謂道,足乎己無待於外之謂德。
この仁と義により通って行くこと、これを道という。人が生まれならに得ている性格、また学問や修養によって身つけ得たもの、外から何にもしないで与えられることを待たないものであること、これを徳という。徳は得、自身に得ている人格である。
○由是 仁と義によるおこない。
○道 経由す所、そこを通って行くの道という。儒家では、人に実際に従って行動する、人の在り方をいう。
○徳 得と同じく、人が生まれならに得ている性格、また学問や修養によって身つけ得たものもある。ともに身に得た人格を指す。


仁與義為定名,道與德為虛位。
この場合、仁と義は具体的に人を愛する情と、適宜という理性をもって行いを宜しくする筋道とであるから、定格した名称である。それに反して、道と徳は由るべき道とか、得ている性格とかいうものであるからそれは内容の虚しいものでしかないのだ。従って各種の内容の入り得る場所、すなわち抽象概念である。
○定名 定格した固定的内容を有する名称。きまっていて他のもので置き換えることないもの。
虚位 空置、そこにはさまざまの内容が入ることできる。儒家のいう道徳は、人の実際に行うべき実践道徳であり、老荘のいわゆる道は、形而上の万物の本体をさしていい、徳は人間をはじめ万物の得ている自然性をいうのである。


故道有君子小人,而德有凶有吉。
それ故、道には君子のものがあり、小人の道もある。そして徳には悪い不祥な人格もあれば、良い嘉すべき人格もあるということである。
○君子 有徳の人、仁義を行う人、民を治める人。
○小人 徳の卑小な人、名利を求めて仁義を思わぬ人。下位の被治者。
○凶・吉 良い悪いの2種類で表すときに使うことばである。