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登永嘉緑嶂山詩 #1 謝霊運 <20> 詩集 386ー
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李商隠詩
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原道 韓退之(韓愈)詩<115-3>Ⅱ中唐詩575 漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ1866


2段目
老子之小仁義,非毀之也,其見者小也。
老子がこれまでいう儒家の説く仁義をとるにたらないものとしている、そして仁義をそしるのである、それは彼の視点が小さいことからのものである。
坐井而觀天,曰天小者,非天小也。
その小さい視点というのは井戸の中に座って天を観て、天は小さいというものである。これは天が小さいのではないのであるということである。
彼以煦煦為仁,孑孑為義,其小之也則宜。
彼は小さな日光で温められたようなわずかな愛情の様子を見てそれが仁であるとし、孤立して小さく自己を守るのを義であると思ったことであるし、彼が仁義のとらえ方を小さなものであるとするのも、またもっともなことといえるのである。
其所謂道,道其所道,非吾所謂道也;

彼のいうところの道は、彼が道であるとするところの形而上的、主観的なものを道とするのであり、万物現象の奥にある本体を名づけて道とするのであるから、私のいうところの人間の身に実践で得た道徳性のものをいうのではないのである。

其所謂德,德其所德,非吾所謂德也。
彼(老子)のいういわゆる徳というのは、彼が徳であると意識・認識する所のものを徳とし、形而上の本体の無為自然の在り方に従って生得する自然の性を徳とするのである。私のいうところの人間の身に得た道徳性ではないのである。
凡吾所謂道德云者,合仁與義言之也,天下之公言也。
およそ私のいうところの道徳というものは、人間愛の仁と、理性に照らして宜しとする義とを合わせていうのである。これは天下のどこでも通用する言葉であるのだ。
老子之所謂道德云者,去仁與義言之也,一人之私言也。

老子のいうところの道徳というのは(次元が違っていて)、この仁と義とを捨て去っていうのである。
老子一人の個人的な言葉であるとするものである。


老子も仁義をとして,之を非毀【ひき】するは,其の見る者 小なればなり。
井に坐して天を觀て,天は小なりと曰う者は,天の小なるに非ざりなり。
彼は煦煦【くく】を以って仁と為し,孑孑【けつけつ】を義と為す,其の之を小としるも則ち宜【うべ】なり。
其の所謂【いわゆる】道は,其の道とする所を道とするなり,吾が所謂道に非ざるなり;

其の所謂【いわゆる】德は,其の德とする所を德とし,吾が所謂【いわゆる】德に非ざるなり。
凡そ吾が所謂【いわゆる】道德と云う者は,仁と義とを合せて之を言うなり,天下の公言なり。
老子の所謂【いわゆる】道德と云う者は,仁と義とを去って之を言うなり,一人の私言なり。

原道 韓退之(韓愈)01

『原道』 現代語訳と訳註
(本文)

其所謂德,德其所德,非吾所謂德也。
凡吾所謂道德云者,合仁與義言之也,
天下之公言也。老子之所謂道德云者,
去仁與義言之也,一人之私言也。


(下し文)
其の所謂【いわゆる】德は,其の德とする所を德とし,吾が所謂【いわゆる】德に非ざるなり。
凡そ吾が所謂【いわゆる】道德と云う者は,仁と義とを合せて之を言うなり,天下の公言なり。
老子の所謂【いわゆる】道德と云う者は,仁と義とを去って之を言うなり,一人の私言なり。


(現代語訳)
彼(老子)のいういわゆる徳というのは、彼が徳であると意識・認識する所のものを徳とし、形而上の本体の無為自然の在り方に従って生得する自然の性を徳とするのである。私のいうところの人間の身に得た道徳性ではないのである。
およそ私のいうところの道徳というものは、人間愛の仁と、理性に照らして宜しとする義とを合わせていうのである。これは天下のどこでも通用する言葉であるのだ。
老子のいうところの道徳というのは(次元が違っていて)、この仁と義とを捨て去っていうのである。
老子一人の個人的な言葉であるとするものである。


(訳注)
其所謂德,德其所德,非吾所謂德也。
其の所謂【いわゆる】德は,其の德とする所を德とし,吾が所謂【いわゆる】德に非ざるなり。
彼(老子)のいういわゆる徳というのは、彼が徳であると意識・認識する所のものを徳とし、形而上の本体の無為自然の在り方に従って生得する自然の性を徳とするのである。私のいうところの人間の身に得た道徳性ではないのである。
○徳其所徳 自分の徳と考えるものを徳とした。人智か。棄て、聖徳を絶ち、自然人の性を徳とした。『老子』三十八章に「上徳不徳、是以有徳。下徳不失徳、是以無徳。上徳無爲、而無以爲。」(上徳は徳とせず、是を以て徳有り」という.道徳を意識せずして、自然に生活できてこそ、これを治める人に最上の徳があるのだという。


凡吾所謂道德云者,合仁與義言之也,天下之公言也。
凡そ吾が所謂【いわゆる】道德と云う者は,仁と義とを合せて之を言うなり,天下の公言なり。
およそ私のいうところの道徳というものは、人間愛の仁と、理性に照らして宜しとする義とを合わせていうのである。これは天下のどこでも通用する言葉であるのだ。


老子之所謂道德云者,去仁與義言之也,一人之私言也。
老子の所謂【いわゆる】道德と云う者は,仁と義とを去って之を言うなり,一人の私言なり。
老子のいうところの道徳というのは(次元が違っていて)、この仁と義とを捨て去っていうのである。
老子一人の個人的な言葉であるとするものである。
太行山脈001