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李商隠詩
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原道 韓退之(韓愈)詩<115-4>Ⅱ中唐詩576 漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ1870


3段目の1
周道衰,孔子沒。
周王朝の政道が衰え、孔子が死去して以後、その教えも没していく。
火于秦,黃老于漢,
秦の始皇帝の時に、儒書を焼く弾圧があり、漢代には黄帝老子の黄老思想が盛んになっていく、
佛于晉、魏、梁、隋之間。
晋・北魏・梁・隋の南北朝の間には仏教を信じるものが主流になっている。
其言道德仁義者,不入于楊,則入于墨。

その六朝時代に道徳や仁義を言う者は、楊朱の「為我説」の個人主義にはいり、はいらない場合は、墨子の兼愛・非戦・節倹の道にはいっていたのだ。

不入于老,則入于佛。
入于彼,必出于此。
入者主之,出者奴之;
入者附之,出者汙之。
噫!後之人其欲聞仁義道德之說,孰從而聽之?

3段目
周道衰え,孔子沒して。秦に火あり,漢に黃老あり,
晉、魏、梁、隋の間に佛あり。
其の道德仁義を言う者,楊に入らざれば,則ち墨に入る。

老に入らざれば,則ち佛に入る。
彼に入れば,必ず此を出ず。
入る者は之を主とし,出づる者之を奴とする;
入る者は之に附き,出づる者は之を汙とする。
噫!後の人其れ仁義道德の說を聞かんと欲するも,孰に從ってか之を聽かん?

原道 韓退之(韓愈)01

『原道』3段目 現代語訳と訳註
(本文)

周道衰,孔子沒。火于秦,黃老于漢,
佛于晉、魏、梁、隋之間。
其言道德仁義者,不入于楊,則入于墨。


(下し文)
周道衰え,孔子沒して。秦に火あり,漢に黃老あり,
晉、魏、梁、隋の間に佛あり。
其の道德仁義を言う者,楊に入らざれば,則ち墨に入り。


(現代語訳)
周王朝の政道が衰え、孔子が死去して以後、その教えも没していく。
秦の始皇帝の時に、儒書を焼く弾圧があり、漢代には黄帝老子の思想が盛んになっていく、
秦の始皇帝の時に、儒書を焼く弾圧があり、漢代には黄帝老子の黄老思想が盛んになっていく、
晋・北魏・梁・隋の南北朝の間には仏教を信じるものが主流になっている。
その六朝時代に道徳や仁義を言う者は、楊朱の「為我説」の個人主義にはいり、はいらない場合は、墨子の兼愛・非戦・節倹の道にはいっていたのだ。


(訳注)
周道衰,孔子沒。

周王朝の政道が衰え、孔子が死去して以後、その教えも没していく。
・周 殷王朝をほろぼし、黄河中流域を支配した古代王朝。 前770年に遷都して以後1小国となり、前256年に秦に滅ぼされた。 遷都の前770年以降を東周時代とよぶが、東周時代はほぼ春秋戦国時代と重なる。
・孔子 紀元前551年‐紀元前479年は、春秋時代の中国の思想家、哲学者。儒家の始祖。 氏名は孔、諱は丘、字は仲尼(ちゅうじ)。孔子とは尊称である(子は先生という意味)。


火于秦,黃老于漢,
秦の始皇帝の時に、儒書を焼く弾圧があり、漢代には黄帝老子の黄老思想が盛んになっていく、
・火于秦 焚書・坑儒(ふんしょ・こうじゅ)のことで、中国を秦王朝が統治していた時代に発生した思想弾圧事件。焚書・坑儒とは、「書を燃やし、儒者を坑する(儒者を生き埋めにする)」。秦の始皇34年(紀元前213年)、博士淳于越は郡県制に反対し、いにしえの封建制を主張した。『史記』によると、丞相の李斯は、儒者たちが古(いにし)えによって現政府を批判していると指摘し、この弾圧を建議した。始皇帝はこの建議を容れて挟書律(医学・占い・農業以外の書物の所有を禁じた令)を制定した。
これにより、民間人が所持していた書経・詩経・諸子百家の書物は、ことごとく郡の守尉に提出させ、焼き払うことが命じられた(焚書)。李斯は、秦の歴史家によるものを除いてすべての史書は燃やすべきであると主張し、各諸派によって書かれた書物は、地域の官僚に処分をするよう命令が出された。儒教の経典である六経のうちの『楽経』はこの時失われ、漢代に五経として確立された。
翌年(紀元前212年)、廬生や侯生といった方士や儒者が、始皇帝が独裁者で刑罰を濫発していると非難して逃亡したため、咸陽の方士や儒者460人余りを生き埋めにし、虐殺した(坑儒)。ただし、その後も秦に仕えた儒者はおり、陳勝・呉広の乱が起きた際に二世皇帝胡亥が儒者の叔孫通に諮問している。
戦国末期には法家によって議論されていた現実的な政策であった。始皇帝はそれを採用したに過ぎず、劉邦政権が踏襲したことによっても、挟書律が少なくとも為政者にとっては現実的な政策であったことが分かる。
○黄老 道家の学をいう。道家の老子・荘子の学は、黄帝からはじまるとして、儒家の堯舜を祖とするのに対して黄老と称した。老子と荘子がまとめてあつかわれるようになったのは、前漢の紀元前139年に成書された百科的思想書の『淮南子』(えなんじ)に初めて見え、魏晋南北朝時代のころの玄学において『易経』『老子』『荘子』があわせて学ばれるようになってからであり、魏以後には、「老荘」というようになる。


佛于晉、魏、梁、隋之間。
晋・北魏・梁・隋の南北朝の間には仏教を信じるものが主流になっている。
○仏 後漢の明帝の時に仏教が伝来した。呉の孫権の赤烏四年(241)インド僧が江南に来て寺を建て、南朝の晋・宋・斉・梁・陳の都した金陵には四百八十寺があったといい、北朝では北魏(元魏ともいう。南朝の東晋から梁までに当たる) の仏教が最も盛んであった。隋は南北朝を統一して、仏教は益々隆盛になった。


其言道德仁義者,不入于楊,則入于墨。
その六朝時代に道徳や仁義を言う者は、楊朱の「為我説」の個人主義にはいり、はいらない場合は、墨子の兼愛・非戦・節倹の道にはいっていたのだ。
○不入于楊,則入于墨 『孟子』滕文公篇下に「天下の言、楊に帰せざれは、則ち墨に帰す」とあるのによる。また「楊氏は我が為にす。足れ君を無みするなり。墨氏は兼愛す。走れ父を無みするなり。父を無みし、君を無みするは、是れ禽獣なり」とある。
・楊 楊朱は戦国時代初期に〈為我説(個人主義)〉を唱えた思想家。生没年不詳。楊子の呼称でも知られる。字は子居。朱は名といわれる。楊朱の事跡は明らかでなく,著書も残らないが,《孟子》《列子》などにその思想がうかがえる。人間にとって最も大切なことは,自己の生命を全うし,その生命と不可分の自然な欲望を十分に満足させて,個人としての充実した人生を送ることであり,死後の名声を求めて天下国家のためにおのれの生命をすり減らしたり,名教道徳にとらわれて自己の欲望を抑制したりするのは無意味だと主張し,孟子などから厳しく非難された。
 戦国時代初期の思想家。名は翟(てき)。墨家の祖。儒家の仁を差別愛であるとみなし、血縁によらない普遍的・無差別的博愛や反戦・平和を説いた。生没年未詳。思想書。現存53編。およびその門人や後学の墨家が著した書。兼愛・非戦・節倹などの墨家的主張を述べたもので、他に論理学・自然科学・戦争技術についての記述もみられる。一種の社会主義的思想である。揚・墨二子は、ともに周代、西紀前五-四世紀の人である。