原性(まとめ) 韓愈(韓退之) 

2013年3月7日 同じ日の紀頌之5つのブログ

Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩
・白馬篇 曹植 魏詩<52-#3>古詩源 巻五 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2028
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Ⅱ中唐詩・晩唐詩●唐を代表する中唐の韓愈の儒家としての考えのよくわかる代表作の一つ
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Ⅲ杜甫詩1000詩集●杜甫の全作品1141首を取り上げて訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"
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Ⅳブログ漢・唐・宋詞詩集●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている
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Ⅴ.唐五代詞詩・宋詞詩・女性 ●森鴎外の小説 ”激しい嫉妬・焦燥に下女を殺してしまった『魚玄機』”といわれているがこれに疑問を持ち異なる視点で解釈して行く。唐時代にここまで率直な詩を書く女性が存在した奇跡の詩
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謝靈運詩 http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/1901_shareiun000.html 謝靈運詩 六朝期の山水詩人。この人の詩は上品ですがすがしい男性的な深みのある詩である。後世に多大な影響を残している。
謝靈運が傲慢で磊落だったというが彼の詩からはそれを感じさせるということは微塵もない。謝靈運、謝朓、孟浩然は好きな詩人である。
登永嘉緑嶂山詩 #1 謝霊運 <20> 詩集 386ー http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10/archives/67474554.html
登池上樓 #1 謝霊運<25>#1  ー http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10/archives/67502196.html
孟浩然の詩 http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/209mokonen01.html 孟浩然の詩 盛唐初期の詩人であるが謝霊運の詩に傾倒して山水詩人としてとてもきれいな詩を書いている。特に山水画のような病者の中で細やかな部分に動態を感じさせる表現力は素晴らしい。

李商隠詩 http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/3991_rishoin000.html
李商隠詩 華やかな時はほんの1年余り、残りは不遇であった。それが独特な詩を生み出した。この詩人の詩は物語であり、詩を単発で見ては面白くなく、数編から十数編のシリーズになっているのでそれを尊重して読まれることを進める。
女性詩人 http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/0josei00index.html 女性詩人 古代から近世に至るまで女性の詩は書くことを許されない環境にあった。貴族の子女、芸妓だけである。残されている詩のほとんどは詞、楽府の優雅、雅なものへの媚の詞である。しかしその中に針のような痛みを感じさせるものがあるのである。
孟郊詩 http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/328_moukou001.html 「文章得其微,物象由我裁。」詩人が作り出す文章は細やかなる描写表現を得ているものだ、万物の事象をも作り出すことさえも詩人自身の裁量でもってするのである。
李商隠詩 http://kanbuniinkai7.dousetsu.com/99_rishoinn150.html Ⅰ李商隠150首 



原性(まとめ) 韓愈(韓退之) <116-11>Ⅱ中唐詩609 漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ2029

原道孔子廟001306










一段目
性也者,與生俱生也;
「性」というものは、誕生により生ずるのであり、人間の生きるための心のはたらきである。
情也者,接於物而生也。
「情」というものは、生まれ持つ「性」という心のはたらきが外物と接して生ずる感情をいうのである。
性之品有三,而其所以為性者五;
性の区別等級に三つあって、その性という概念に五種類がある。
情之品有三,而其所以為情者七。

感情の品等に三つあって、その情というものに七種類がある。

性なる者は生と倶に生ずるなり。
情なる者は物に接して生ずるなり。
性の品に三有り。而して其の性為る所以の者五あり。
情の品に三有り。而して其の情為る所以の者七あり。



二段目
曰:何也?
続いて言う:それはどういうことかといえば、次のようなわけである。
曰:性之品有上中下三。
続いて言う:「性」それは“人の誕生により生ずるもののであり、人間の生きるための心のはたらきである”ものに上・中・下の三等があるということだ。
上焉者,善焉而已矣;
その内の上等のものは善ばかりということである。
中焉者,可導而上下也;
その内の中等のものは、導きにより上等にも下等にもなりうるものである。
下焉者,惡焉而已矣。
その内の下等のものは、悪ばかりということである。
其所以為性者五:曰仁、曰禮、曰信、曰義、曰智。
人間の心の働きとするところの「性」に五種ある。「仁」という人間愛の心であり、「礼」という道徳形式の定めに従う心であり、「信」という言行一致のいつわりのない心であり、「義」という理性によって正しい行いをする心であり、「智」という善悪是非を判断する心のはたらきである。
上焉者之於五也,主於一而行於四;
上等の生まれつきのものの、この五種の徳性に対する関係は、その内一つを主として、他の四種に行きわたり働く(実行は相互に関係して成長するもの)。
中焉者之於五也,一不少有焉,
中等の性のものが、五つの徳性に対する関係は、その内一種が少しだけ有るという程度である。
則少反焉,其於四也混;
あるいは、少し叛いている。そして他の四種の徳は、備えていたり、不足していたりして、混合、不安定な状態である。
下焉者之於五也,反於一而悖於四。
性の下等な者が、五つの徳に対する心の働きは、その内の一つには完全にそむいていて、他の四種についても実行しようと云う意識にもかけているということだ。
性之於情視其品。
生れながらにそなわった「性」と「情」との関係は、情の上中下の三品位に比例していているのである。

日く、何ぞやと。
日く、性の品に上中下の≡有り。
上なる者は善のみ。
中なる者は導いて上下す可きなり。
下なる者は悪のみ。
其の性為る所以の者五あり。日く仁、白く禮、日く信、曰くく義、日く智と。
上なる者の五に於けるや、一に主にして四に行はる。中なる者の五に於けるや、一少しく有せざれは、則ち少しく反し、其の四に於けるや混す。
下なる者の五に於けるや、一に反して四に悖る。性の情に於ける、其の品に視ふ。
原性 韓愈(韓退之) <116-2>Ⅱ中唐詩600 漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ1984

原性 韓愈(韓退之) <116-3>Ⅱ中唐詩601 漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ1989


三段目
情之品有上中下三,其所以為情者七:
性」という心のはたらきが外物と接して生ずる感情の品には、上・中・下の三つの品がある。その感情の種類とするところのものは七種である。
曰喜、曰怒、曰哀、曰懼、曰愛、曰惡、曰欲。
まずいう、「喜び」である。続いて言うのは「怒り」であり、続いて言うのは「哀しみ」であり、続いて言うのは「懼れ」であり、続いて言うのは「愛」であり、続いて言うのは「悪【にく】しみ」であり、続いて言うのは「欲」である。
上焉者之於七也,動而處其中;
上等の情とこの七種の感情との関係は、情が動いて、しかも過不足のない適度のところに安定しているものである。
中焉者之於七也,有所甚,有所亡,然而求合其中者也;
中等者の「情」とこの「七種の感情」との関係は、過度に発動するところがあるものである。
と同時に欠乏しているところがあるのである。しかし、その過不足のないところに適合させることを求めるのである。

下焉者之於七也,亡與甚,直情而行者也。
下等者の「情」とこの「七種の感情」との関係は、全く欠乏しているのと、過度のものと、ともにその感情の動くままに行うものをいうのである。
情之於性視其品。

「情」と「性」との関係は、性の品の等級に見合っているものというわけである。

情の品に上中下の三有り。其の情爲る所以【ゆえん】の者七あり。曰く喜、曰く怒、日く京、曰く怖、曰く愛、曰く悪、曰く欲と。
上なる者の七に於けるや、動いて其の中に處【お】る。

中なる者の七に於けるや、甚しき所有り、
亡き所有り。然れども其の中に合はんことを求むる者なり。
下なる者の七に於けるや、亡きと甚【はなはだ】しきと、直情にして行ふ者なり。
情の性に於ける、其の品に視【なぞら】ふと。
原性 韓愈(韓退之) <116-4>Ⅱ中唐詩602 漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ1994



四段目
孟子之言性曰:人之性善。
孟子の性を論ずる説にいう。:人の性は善である。
荀子之言性曰:人之性惡。
筍子の人の性を論ずる説はこういう:人の性は悪である。
揚子之言性曰:人之性善惡混。
揚子の人の性を論ずる説はこういう。:人の性は善と悪が混合しているのである。
夫始善而進惡,與始惡而進善,與始也混而今也善惡,
そもそも始めは善いけれども悪に進むという孟子の説と、もともと悪いけれども善に進むという荀子の説と、始めは善悪混合しているけれども、今は善となり、或いは悪にとなるという揚雄の説である。
皆舉其中而遺其上下者也,得其一而失其二者也。

それぞれの挙げている説には、その性の中等のものを取りあげて論じているのであり、その上等のものと下等のものとを忘れているのである。その一つである中等の性を理解してはいるが、他の二つ、上等と下等の性を論外のものとして見落としているのだ。
孟子の性を言ふ、日く、人の性は善なりと。
荀子の性を言ふ、日く、人の性は悪なりと。
揚子の性を言ふ、日く、人の性は善悪混ずと。
夫れ始め善にして悪に進むと、始め悪にして善に進むと、始めや混じて今や善悪なると、
皆其の中を挙げて其の上下を遺す者なり。其の一を得て、其の二を失ふ者なり。


五段目
叔魚之生也,其母視之,知其必以賄死。
叔魚が生まれた時、その母は彼を見て、彼は必ず賄賂のために死ぬであろうことを知った。
楊食我之生也,叔向之母聞其號也,知必滅其宗。
楊食我が生まれた時、叔向の母はそのなき声を聞いて、必ずその一族を滅はすであろうことを知った。
越椒之生也,子文以為大戚,知若敖氏之鬼不食也。
越椒の生まれた時、伯父子文は「この子は殺さないと」大きな心配としたのだ。しかし、本当に若敦氏は滅んで祖先は祭りの供物を受けなくなることを知った。
人之性果善乎?後稷之生也,其母無災,其始匍匐也,
このように不吉を伴って生まれる人間があることを考えれば、人の性は果たして「善」ということができるのだろうか。それは違う。というのも、后稷が生まれた時のことである。
その母に何の災いもまったくなかった。それは彼がやっとはい始めた時のことである。
則岐岐然,嶷嶷然。
『詩経・大雅•生民の什』后稷についての賦にいう「岐岐然として、意知るなり、その貌嶷嶷然として識別する所有るなり」」と知恵、判断力が早くから備わっていたということである。
文王之在母也,母不憂;既生也,傅不勤;既學也,師不煩;
周の文王が母胎にあった時、母は何の憂いもなかった(ばかりか、百世まで徳により繁栄した)。
やがて生まれた時には、お守の役の者が勤め上げるような骨の折れることもないのである。
人之性果惡乎?
その後学問をするころは、教師に何の面倒も煩わせることなどなかったのだ。
これを思えば、人の「性」が果たして悪であるといえるだろうか。どうも性悪とはいえないようだ。

叔魚の生まるるや、其の母之を視て、其の必ず賄を以て死なんことを知る。
楊食我の生まるるや、叔向の母、其の嗁くを聞いて、必ず共の宗を滅さんことを知る。
越椒の生まるるや、子文以て大戚と為す。
若敖氏の鬼食せざるを知るなり。

人の性は果して善なるか。後稷の生まるるや、
其の母災無し。其の始めて匍匐するや、
則ち岐岐然、嶷嶷然たり。
文王の母に在るや、母憂へず、
既に生まるるや、傅 勤めず、
既に学ぶや、師 煩はず。
人の性果して悪なるか。

六段目
堯之朱,舜之均,文王之管蔡,習非不善也,
而卒為奸;
各聖王の子について言えば、堯の子である丹朱、舜の子である商均、文王の子である管叔と蔡叔らについてである。
聖王・帝である父の子として生まれ、徳の中で育だてられたのであるから、その習学・習慣は善くなかったわけではない。それなのによこしまな人間として育っている。

瞽叟之舜,鯀之禹,習非不惡也,而卒為聖。人之性善惡果混乎?
また舜の父「瞽叟」の子である舜、鯀の子である夏の禹王は、悪人であった父親の影響感化の点からみれば、習学・習慣が悪くないはずはないのである。
それなのに聖人となったのである。これらにより、人の性は、親からの習学・習慣の結果によってなされたものではなく、生まれつき悪であり、或いは生まれつき善であるためというのか、あるいは揚雄の説のように、善悪が果たして混合しているということになるのであろうか。

故曰:三子之言性也,舉其中而遺其上下者也,得其一而失其二者也。
それ故私は結論としていう、「三子の性説は、その中等品の性を取り挙げていい、その上等品と下等品のものを対象外として忘れているのである。
そして、それは、その一つである中等品の性を理解し得てはいるが、他の二つの品、上等と下等の性を見失っている(気づいていない)のである」 と。

堯の朱、舜の均、文王の管蔡【かんさい】は、
習【ならい】善ならざるに非ざるなり。而も卒に奸を為す。
瞽叟【こそう】の舜、鯀【こん】の禹は、習【ならい】悪ならざるに非ざるなり。
而も卒に聖人と為る。人の性は善悪果して混ずるか。
故に日く、三子の性を言ふや、其の中を舉げて、其の上下を遺【のこ】す者なり。
其の一を得て、其の二を失ふ者なりと。

七段目
曰:然則性之上下者,其終不可移乎?
続いて言う「それならば、生まれつきの上等のものと下等のものとは、最後まで移動することができないというものなのか」と。
曰:上之性,就學而愈明;下之性,畏威而寡罪;
それに対して私はいう、「上等の性は、学問をすることによって、いよいよ善が明確になっていくものである。」
そして「下等の性は、刑罰のおどしが重いほどおそれかしこんで、罪が少なくなるものである。」

是故上者可教,而下者可制也,其品則孔子謂不移也。
「こうしたことゆえに、上等の性は教えることができ、下等の性は制圧しとどめることができるのである。」
「その性の区別は、孔子がいうように移らないのである」と。

曰:今之言性者異於此,何也?
そしていう「今の世の性をいうものはこれとちがっている。それはなぜであるか?」と。
曰:今之言者,雜佛、老而言也;雜佛、老而言也者,奚言而不異?

私はいう、「今の性説は仏教や老子の思想をまじりあって論じているである。」と。
そもそも、「仏教や老荘の考えをまじえて言うものは、何を言って私の説と異なることがないことがあろうか。」と。(論ずる前から違っているのだ。)

曰く:然らば則ち性之上下なる者は,其れ終に不可移すべからざるか?と。
曰く:「上之性は,學に就いて愈いよ明かに;
下之性は,威を畏れて罪 寡【すくな】し;
是の故に上なる者は教えべくして,下なる者は可制すべきなり,其の品は則ち孔子の謂う不移らざるなり」と。
曰く:「今の性を言う者は此に於て異なり,何んぞや?」と。
曰く:今の言う者は,佛と老を雜えて言うなり;
佛と老を雜えて言う者は,奚【なに】を言うて異ならざらんや?」と。



原性01













一段目
性也者,與生俱生也;情也者,接於物而生也。
性之品有三,而其所以為性者五;情之品有三,而其所以為情者七。

二段目
曰:何也?
曰:性之品有上中下三。
上焉者,善焉而已矣;中焉者,可導而上下也;
下焉者,惡焉而已矣。
其所以為性者五:曰仁、曰禮、曰信、曰義、曰智。
上焉者之於五也,主於一而行於四;
中焉者之於五也,一不少有焉,則少反焉,其於四也混;
下焉者之於五也,反於一而悖於四。性之於情視其品。

三段目
情之品有上中下三,其所以為情者七:
曰喜、曰怒、曰哀、曰懼、曰愛、曰惡、曰欲。
上焉者之於七也,動而處其中;
中焉者之於七也,有所甚,有所亡,然而求合其中者也;
下焉者之於七也,亡與甚,直情而行者也。
情之於性視其品。

四段目
孟子之言性曰:人之性善。
荀子之言性曰:人之性惡。
揚子之言性曰:人之性善惡混。
夫始善而進惡,與始惡而進善,與始也混而今也善惡,
皆舉其中而遺其上下者也,得其一而失其二者也。

五段目
叔魚之生也,其母視之,知其必以賄死。
楊食我之生也,叔向之母聞其號也,知必滅其宗。
越椒之生也,子文以為大戚,知若敖氏之鬼不食也。
人之性果善乎?後稷之生也,其母無災,其始匍匐也,
則岐岐然,嶷嶷然。
文王之在母也,母不憂;既生也,傅不勤;既學也,師不煩;
人之性果惡乎?

六段目
堯之朱,舜之均,文王之管蔡,習非不善也,
而卒為奸;
瞽叟之舜,鯀之禹,習非不惡也,而卒為聖。人之性善惡果混乎?
故曰:三子之言性也,舉其中而遺其上下者也,得其一而失其二者也。

七段目
曰:然則性之上下者,其終不可移乎?
曰:上之性,就學而愈明;下之性,畏威而寡罪;
是故上者可教,而下者可制也,其品則孔子謂不移也。
曰:今之言性者異於此,何也?
曰:今之言者,雜佛、老而言也;雜佛、老而言也者,奚言而不異?



原性 韓愈(韓退之) <116-1>Ⅱ中唐詩599 漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ1979