原鬼 韓愈(韓退之) <118-1>

2013年3月12日 同じ日の紀頌之5つのブログ
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原鬼 韓愈(韓退之) <118-1>Ⅱ中唐詩614 漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ2054
作〈原鬼〉。此篇收錄於 韓昌黎文集第一卷 
当時、不可解なもの、現象などにより、民間信仰から、道教、末法の仏教へ移行したものが多く、これを人間の精霊(鬼)の本原の理を明らかにすることにより防ごうというものである。
 

原鬼
一段目
有嘯於梁,從而燭之,無見也。斯鬼乎?曰:非也,鬼無聲。有立於堂,從而視之,無見也。斯鬼乎?曰:非也,鬼無形。有觸吾躬,從而執之,無得也。斯鬼乎?曰:非也,鬼無聲與形,安有氣。
二段目
曰:鬼無聲也,無形也,無氣也,果無鬼乎?曰:有形而無聲者,物有之矣,土石是也;有聲而無形者,物有之矣,風霆是也;有聲與形者,物有之矣,人獸是也;無聲與形者,物有之矣,鬼神是也。
韓愈0016三段目
曰:然則有怪而與民物接者,何也?
曰:是有二:有鬼,有物。
漠然無形與聲者,鬼之常也。
民有忤於天,有違於民,
有爽於物,逆於倫,而感於氣,於是乎鬼有形於形,有憑於聲以應之,而下殃禍焉,皆民之為之也。
其既也,又反乎其常。
四段目
曰:何謂物?曰:成於形與聲者,土石、風霆、人獸是也;反乎無聲與形者,鬼神是也;不能有形與聲,不能無形與聲者,物怪是也。故其作而接於民也無恆,故有動於民而為禍,亦有動於民而為福,亦有動於民而莫之為禍福,適丁民之有是時也。


原鬼
一段目
有嘯於梁,從而燭之,無見也。
横になって天井を見る。すると家の梁桁でヒューッと息継いだものがある。そこで燭でそこら辺りを照らして見るが、見えるものがないのである。
斯鬼乎?曰:非也,鬼無聲。
これは精霊ではなかろうか。私は断言していう、「そうではない。精霊には声がない。」と。
有立於堂,從而視之,無見也。
家の奥座敷に立っているものがあるようだ。そこへ行ってよく見てみるが、見えるものがない。
斯鬼乎?曰:非也,鬼無形。
これこそが精霊であろうか。私はいう、「そうではない。精霊には形がないのだ。」と。
有觸吾躬,從而執之,無得也。
私の身体にふれるものがある。では、それを求めて手につかまえようとしても、手に取れるものがない。
斯鬼乎?曰:非也,鬼無聲與形,安有氣。

それこそが精霊であろうか。私はいう、「そうではない。精霊には声もなく、形もないのだから、どうして手に実際に感じる感覚があるというのか。」と。

梁に嘯【うそぶく】くもの有り。従って之を燭【てら】すに、見ること無し。
斯れ鬼か。日く、非なり、鬼には聾無しと。
堂に立つもの有り、従って之を視るに、見ること無し。
斯れ鬼か。日く、非なり、鬼に形無しと。
吾が躬【み】に觸【ふ】るるもの有り、従って之を執【とら】ふるに、得ること無し。
斯れ鬼か。曰く、非なり、鬼には馨と形と無し、安んぞ気有らんと。


『原鬼』 現代語訳と訳註
(本文)
一段目
有嘯於梁,從而燭之,無見也。斯鬼乎?曰:非也,鬼無聲。有立於堂,從而視之,無見也。斯鬼乎?曰:非也,鬼無形。有觸吾躬,從而執之,無得也。斯鬼乎?曰:非也,鬼無聲與形,安有氣。


(下し文)
梁に嘯【うそぶく】くもの有り。従って之を燭【てら】すに、見ること無し。
斯れ鬼か。日く、非なり、鬼には聾無しと。
堂に立つもの有り、従って之を視るに、見ること無し。
斯れ鬼か。日く、非なり、鬼に形無しと。
吾が躬【み】に觸【ふ】るるもの有り、従って之を執【とら】ふるに、得ること無し。
斯れ鬼か。曰く、非なり、鬼には馨と形と無し、安んぞ気有らんと。


(現代語訳)
横になって天井を見る。すると家の梁桁でヒューッと息継いだものがある。そこで燭でそこら辺りを照らして見るが、見えるものがないのである。
これは精霊ではなかろうか。私は断言していう、「そうではない。精霊には声がない。」と。
家の奥座敷に立っているものがあるようだ。そこへ行ってよく見てみるが、見えるものがない。
これこそが精霊であろうか。私はいう、「そうではない。精霊には形がないのだ。」と。
私の身体にふれるものがある。では、それを求めて手につかまえようとしても、手に取れるものがない。
それこそが精霊であろうか。私はいう、「そうではない。精霊には声もなく、形もないのだから、どうして手に実際に感じる感覚があるというのか。」と。


 (訳注)
原鬼 一段目

当時、不可解なもの、現象などにより、民間信仰から、道教、末法の仏教へ移行したものが多く、これを人間の精霊(鬼)の本原の理を明らかにすることにより防ごうというものである。当時奇怪な現象を人の精霊のしわざであるとし、道女信仰、祈祷などによる事件がおおかったので、精霊と物の怪との区別を論じたのである。『説文』に「人の帰(き)する所を鬼(き)となす」という。『爾雅』釈訓に「鬼の言たる帰なり」 と、また『礼記』礼運篇注に「鬼は精魂の帰する所」とある。鬼は本来声も形もないものだから知覚できない、もし知ることができるならは、それは物であり、物の怪であるというものである。


有嘯於梁,從而燭之,無見也。
横になって天井を見る。すると家の梁桁でヒューッと息継いだものがある。そこで燭でそこら辺りを照らして見るが、見えるものがないのである。
○嘯 うそぶく。口をすぼめて、声を長くひいて息を出す。口笛をふく。
○従 そこへ行く。それを追い求める。
○燭 燈火でてらす。


斯鬼乎?曰:非也,鬼無聲。
これは精霊ではなかろうか。私は断言していう、「そうではない。精霊には声がない。」と。


有立於堂,從而視之,無見也。
家の奥座敷に立っているものがあるようだ。そこへ行ってよく見てみるが、見えるものがない。
・堂 家の奥座敷。


斯鬼乎?曰:非也,鬼無形。
これこそが精霊であろうか。私はいう、「そうではない。精霊には形がないのだ。」と。


有觸吾躬,從而執之,無得也。
私の身体にふれるものがある。では、それを求めて手につかまえようとしても、手に取れるものがない。


斯鬼乎?曰:非也,鬼無聲與形,安有氣。
それこそが精霊であろうか。私はいう、「そうではない。精霊には声もなく、形もないのだから、どうして手に実際に感じる感覚があるというのか。」と。
○気 現象、触れて知覚できるもの。現象を構成する物質的な要素。実際の感覚。


kairo10680