韓愈(韓退之) 《晩春》 
彼の文章の才を認めてこの発令があった以上、実際の仕事は兼務の史館修撰のほうにあったし、ほかの人たちの彼を見る目も、ほとんどもっぱら史館の地位にある者としてであった。史館修撰というのは、史料を集めたり、取捨選択したりするが、最終的にはそれを利用して歴史を書くことを本務とする。歴史は後世に残るものであり、その時代を代表するものなのだから、文章の才にかけて当代一流の人が執筆しなければならないというのが、中国のどの時代にもあった考え方である。




2013年5月12日 同じ日の紀頌之5つのブログ
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晩春 韓愈(韓退之) <116>Ⅱ中唐詩675 漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ2359

詩題: 晚春 
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作 者: 韓愈 
作時年: 元和八年  813年 
年 齢: 46歲 
卷別: 卷三四四  文體: 七言絕句 
韓愈の散文として有名な「進学の解」は、813年の初めに書かれたものである。それは国子博士である韓愈と学生たちとの対話という形式をとり、「古えの道」を守ろうとする決意を述べるものであったが、この文章が宰相たち(当時の宰相は複数で、武元衡・李書甫・李終らの人々であった)の目にふれたとき、彼らが最も評価したのは韓愈の「文章の才」であった。そこで彼は813年元和八年三月、比部郎中兼史館修撰に転職させられた。
晩春はこの頃の作品である。
進学の解
http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-rihakujoseishi/archives/6240580.html


晚春
(春も終わろうとしているころ。)
誰收春色將歸去,慢綠妖紅半不存。  
春の盛りの景色が去って行き、誰が晩春さえも納めて帰ろうとしているのだろうか。若葉の薄緑色は妖艶な紅の花に半分の色なのにその主役を奪われている。
榆莢祗能隨柳絮,等閒撩亂走空園。  

春の盛りの景色が去って行き、誰が晩春さえも納めて帰ろうとしているのだろうか。若葉の薄緑色は妖艶な紅の花に半分の色なのにその主役を奪われている。

晚春
誰か春色を收めて將に歸り去り,慢綠【まんりょく】妖紅【ゆうこう】半ば存せず。 
榆莢【ゆきょう】祗だ能く柳絮に隨い,等閒【とうかん】撩亂【りょうらん】空園【くうえん】を走る。
 

柳絮01






『晚春』 現代語訳と訳註
(本文)

晚春
誰收春色將歸去,慢綠妖紅半不存。 
榆莢祗能隨柳絮,等閒撩亂走空園。 
 

(下し文)
晚春
誰か春色を收めて將に歸り去り,慢綠【まんりょく】妖紅【ゆうこう】半ば存せず。 
榆莢【ゆきょう】祗だ能く柳絮に隨い,等閒【とうかん】撩亂【りょうらん】空園【くうえん】を走る。 


sakura0081(現代語訳)
(春も終わろうとしているころ。)
春の盛りの景色が去って行き、誰が晩春さえも納めて帰ろうとしているのだろうか。若葉の薄緑色は妖艶な紅の花に半分の色なのにその主役を奪われている。
春の盛りの景色が去って行き、誰が晩春さえも納めて帰ろうとしているのだろうか。若葉の薄緑色は妖艶な紅の花に半分の色なのにその主役を奪われている。


(訳注)
晚春

(春も終わろうとしているころ。)
813年、元和八年、春の終わりの時期。春は早春、盛春、晩春の三春、三か月。


誰收春色將歸去,慢綠妖紅半不存。 
春の盛りの景色が去って行き、誰が晩春さえも納めて帰ろうとしているのだろうか。若葉の薄緑色は妖艶な紅の花に半分の色なのにその主役を奪われている。
・慢綠 薄緑色。
・妖紅 妖艶な紅。


榆莢祗能隨柳絮,等閒撩亂走空園。 
にれの実のさやはただ白い綿毛をとばしていた柳に従っているようだ。楡と柳はどちらもこの春に乱れ飛び散っていつもの誰もいない庭園林になってしまった。
・榆莢 にれの実のさや。
・柳絮 白い綿毛のついた柳の種子。また、それが春に飛び漂うこと。盛春から晩春にかけての風物詩。
・等閒 ひとしく。ともに。
・撩亂 乱れ飛び散る。
・空園 誰もいない園林。


韓愈の散文として有名な「進学の解」は、813年の初めに書かれたものである。それは国子博士である韓愈と学生たちとの対話という形式をとり、「古えの道」を守ろうとする決意を述べるものであったが、この文章が宰相たち(当時の宰相は複数で、武元衡・李書甫・李終らの人々であった)の目にふれたとき、彼らが最も評価したのは韓愈の「文章の才」であった。そこで彼は813年元和八年三月、比部郎中兼史館修撰に転職させられた。
晩春はこの頃の作品である。

しかし、彼の文章の才を認めてこの発令があった以上、実際の仕事は兼務の史館修撰のほうにあったし、ほかの人たちの彼を見る目も、ほとんどもっぱら史館の地位にある者としてであった。史館修撰というのは、史料を集めたり、取捨選択したりするが、最終的にはそれを利用して歴史を書くことを本務とする。歴史は後世に残るものであり、その時代を代表するものなのだから、文章の才にかけて当代一流の人が執筆しなければならないというのが、中国のどの時代にもあった考え方である。



韓愈《晩春》兼務の仕事は史館修撰であった。史館修撰というのは、史料を集めたり、取捨選択したりするが、最終的にはそれを利用して歴史を書くことを本務とする。文章の才にかけて当代一流の人が執筆するのが中国のどの時代にもあった考え方である。