《論佛骨表》(4) その後殷の湯もまた年百歳、湯王の孫大成は在位七十五年、武丁は在位五十九年、文書歴史等にその年寿の終わった歳を言っていないけれども、その年数を推しはかれば、たぶんまたともに首歳よりは減らないであろう。

2013年12月10日  の紀頌之5つのブログ
●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場
Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
 
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班孟堅(班固) 《西都賦》(20)#8(數々の宮殿)-1 文選 賦<112―20>18分割55回 Ⅱ李白に影響を与えた詩974 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3418
●唐を代表する中唐の韓愈の儒家としての考えのよくわかる代表作の一つ
Ⅱ中唐詩・晩唐詩
 
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《論佛骨表》(4)元和十四年韓愈(韓退之) Ⅱ中唐詩 <887>  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3419韓愈詩-227-4
●杜甫の全作品1141首を取り上げて訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"
Ⅲ杜甫詩1000詩集  LiveDoorブログ 715 《王閬州筵奉酬十一舅惜別之作》 蜀中転々 杜甫 <622>  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3420 杜甫詩1000-622-878/1500五言律詩
●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている
Ⅳブログ漢・唐・宋詞詩集 Fc2ブログ 219 《登科後》 孟郊  唐宋詩  kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 3421 (12/10)
●●森鴎外の小説『魚玄機』、芸妓で高い評価を受けた『薛濤』の詩。唐時代にここまで率直な詩を書く女性が存在した奇跡の詩
Ⅴ.唐五代詞詩・宋詞詩・女性 LiveDoor 天仙子二首其一 皇甫松 ⅩⅫ唐五代詞・「花間集」 Gs-375-6-#67  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3422
 
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謝靈運が傲慢で磊落だったというが彼の詩からはそれを感じさせるということは微塵もない。謝靈運、謝朓、孟浩然は好きな詩人である。
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孟浩然の詩 http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/209mokonen01.html 孟浩然の詩盛唐初期の詩人であるが謝霊運の詩に傾倒して山水詩人としてとてもきれいな詩を書いている。特に山水画のような病者の中で細やかな部分に動態を感じさせる表現力は素晴らしい。
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《論佛骨表》(4)元和十四年韓愈(韓退之) Ⅱ中唐詩 <887>  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3419韓愈詩-227-4

 

 

#3

其後,殷湯亦年百

その後殷の湯もまた年百歳、

湯孫太戊在位七十五年,

湯王の孫大成は在位七十五年、

武丁在位五十九年,書史不言其年壽所極,

武丁は在位五十九年、文書歴史等にその年寿の終わった歳を言っていないけれども、

推其年數,蓋亦俱不減百

その年数を推しはかれば、たぶんまたともに首歳よりは減らないであろう。

周文王年九十七

周の文王は年九十七歳、

武王年九十三,穆王在位百年。

武王は年九十三歳、穆壬は在位百年であった。

此時佛法亦未入中國,非因事佛而致然也。

この時には仏教は前と同じくまだ中国に入っていなかった。仏に仕えるおかげでそのように長寿を招いたのではない。

其の後、殷湯も亦た年 百歳、

湯の孫、太戊は位に在ること七十五年、

武丁は在位、五十九年、

書史其の年壽【ねんじゅ】の極まる所を言はざれども、其の年数を推すに、蓋し亦た供に百歳に減ぜず。

周の文王は年が九十七歳、武王は年が九十三歳、穆王は在位、百年なりき。

此の時、佛法亦た未だ中国に入らず。佛に事【つか】うるに因って然るを致すに非ざるなり。 

幻日環01 

『論佛骨表』 現代語訳と訳註

(本文) #3

其後,殷湯亦年百

湯孫太戊在位七十五年,

武丁在位五十九年,書史不言其年壽所極,

推其年數,蓋亦俱不減百

周文王年九十七

武王年九十三,穆王在位百年。

此時佛法亦未入中國,非因事佛而致然也。

 

(下し文)

其の後、殷湯も亦た年 百歳、

湯の孫、太戊は位に在ること七十五年、

武丁は在位、五十九年、

書史其の年壽【ねんじゅ】の極まる所を言はざれども、其の年数を推すに、蓋し亦た供に百歳に減ぜず。

周の文王は年が九十七歳、武王は年が九十三歳、穆王は在位、百年なりき。

此の時、佛法亦た未だ中国に入らず。佛に事【つか】うるに因って然るを致すに非ざるなり。

 

 (現代語訳)

その後殷の湯もまた年百歳、

湯王の孫大成は在位七十五年、

武丁は在位五十九年、文書歴史等にその年寿の終わった歳を言っていないけれども、

その年数を推しはかれば、たぶんまたともに首歳よりは減らないであろう。

周の文王は年九十七歳、

武王は年九十三歳、穆壬は在位百年であった。

この時には仏教は前と同じくまだ中国に入っていなかった。仏に仕えるおかげでそのように長寿を招いたのではない。

 

(訳注) #3

其後,殷湯亦年百

その後殷の湯もまた年百歳、

○殷湯 中国古代殷王朝の創設者。殷の始祖契(せつ)より14世目。武湯,武王,天乙,成湯ともいわれ,卜辞では唐(湯と同音),成,大乙と書く。亳(はく)(河南省偃師県)に都をおき,伊尹(いいん)などの賢臣を用い,異民族をも心服させ,その徳は禽獣にもおよんだという。夏の属国の韋(河南省滑県南東),昆吾(河南省許昌県東)などを滅ぼして疆域を拡大した。夏王の桀は暴政を行い,人心が離反したので,これを攻めて滅ぼし,殷王朝を創設した。

 

湯孫太戊在位七十五年,

湯王の孫大成は在位七十五年、

○太戊 殷の第9代の帝。帝太庚の子。帝雍己の弟。なお卜辞では帝雍己の前に即位したとされる。

中宗は、賢人伊陟を相とし、殷を復興させた。参朝しなかった諸侯もこのときには、参朝するようになったという。

 

武丁在位五十九年,書史不言其年壽所極,

武丁は在位五十九年、文書歴史等にその年寿の終わった歳を言っていないけれども、

○武丁 武丁(ぶてい)は殷朝の第22代帝。太子時代には賢人の甘盤について学問を修めた。 武丁は、衰えた殷を復興させようと考えていたが、補佐する者がいなかったので、即位してから3年間は自ら政治に口を出さなかった。ある夜に説(えつ)という名の聖人を夢に見たが、群臣の中にはこのような人物はいなかった。そこで、方々に人を遣わしてこの人物を探させると、道を作る労役者の中にこの人物がいた。武丁が話してみると、まことに聖人であったために、傅(ふ)という姓を与え、傅説と呼んだ。傅説の補佐で殷はまた復興した。

○書史 文書、歴史など。

○所極 寿命の窮まった歳。

 

 

推其年數,蓋亦俱不減百

その年数を推しはかれば、たぶんまたともに首歳よりは減らないであろう。

 

周文王年九十七

周の文王は年九十七歳、

○周文 (? - 紀元前1152年-紀元前1056年 寿命 97才)は、中国の周朝の始祖。姓は姫、諱は昌。父季歴と母太任の子。周王朝の創始者である武王の父にあたる。文王は商に仕えて、三公(特に重要な三人の諸侯)の地位にあり、父である季歴の死後に周の地を受け継ぎ、岐山のふもとより本拠地を灃河(渭河の支流である。湖南省の澧水とは字が異なる)の西岸の豊邑(正しくは豐邑。後の長安の近く)に移し、仁政を行ってこの地を豊かにしていた。

 

武王年九十三,穆王在位百年。

武王は年九十三歳、穆壬は在位百年であった。

○武王 、周朝の創始者。殷を滅ぼし、周を立てた。文王の次子。同母兄に伯邑考、同母弟に管叔鮮、周公旦、蔡叔度、霍叔処、康叔封らがいる。子は成王、唐叔虞(晋の開祖)、邘叔、応叔、韓叔ら。

穆王(ぼくおう)は周朝の第5代王。 昭王の子であり、昭王が楚への遠征途上で行方不明になったことより仮に王位に即位、その後に昭王の死が判明したので正式に即位した。 彼は中国全土を巡るのに特別な馬(穆王八駿)を走らせていたと言われる。 

 

此時佛法亦未入中國,非因事佛而致然也。

この時には仏教は前と同じくまだ中国に入っていなかった。仏に仕えるおかげでそのように長寿を招いたのではない。

○致然 そのような結果を来す。致は招く、至らす。
sas0009