![韓愈(韓退之)02](https://livedoor.blogimg.jp/kanbuniinkai10-rihakujoseishi/imgs/e/c/ec6cfd4f-s.png)
《韓愈詩index-3 [805年貞元21年 38歳]陽山から江陵府参事軍 36首》Ⅱ中唐詩 <982> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3894韓愈詩-韓愈詩index-3
805年 貞元二十一年、順宗の即位で、韓愈は大赦にあい、夏の終わりごろ陽山をたち、友人の張署がいる郴州にゆき、新任の命令を待った。ふたりは、もう一人の友李方叔とともに、同じとき監察御史から左遷され、ともに南方僻地の県令となっていた。このたびの異動では、韓愈と張署のふたりが、共に、江陵府の法曹参軍事となった。正式の任命書をうけとると、韓愈は任地に向かい、途中、衡山に立ち寄り『謁衡獄廟遂宿獄寺題門樓』「衡嶽廟に閲し、遂に嶽寺に宿り、門樓に題す」、『岣嶁山』「岣嶁の山」、『別盈上人』「盈上人に別る」、『祝融峰』「祝融の峰」などの詩をつくった。
さらに北上して、潭州、いまの湖南省長沙市に入り、その地方の長官である湖南観察使の楊憑をたずね、その部下の侍御史の社某の案内で湘西寺に遊び『陪杜侍御遊湘西兩寺獨宿有題一首』「杜侍御に陪して湘西両寺に游び独宿し、一首題あり、因って楊常侍に献ず」をつくったのがこの詩である。
805年 この年は、中央では、順宗が即位し、王叔文党が政権をにぎり、まもなく皇太子が摂政となり、王叔文が追放され、順宗が譲位し、皇太子が即位し、永貞と改元した実に慌ただしい年で朝廷内の大混乱の年であったとされる。その永貞元年も、韓愈が江陵に到着してまもなくおわる。新しい年をむかえ、新帝憲宗は、元号を「元和」と改めた。