韓愈詩index-7 [810年元和5年 43歳~811年元和6年 44歳]・河南令・尚書職方員外郎 34首
《韓愈詩index-7[810年元和5年 43歳~811年元和6年 44歳]・河南令・尚書職方員外郎 34首》Ⅱ中唐詩 <986>漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3914韓愈詩-韓愈詩index-7
問題は兼務の両部員外郎のほうに発生した。両部は礼部に属し、祭両・易占および宗教に関する事務を管掌する。仏教の寺院および道教の道観も、制度上は両部の所管であった。ところが、当時、寺院や道観を事実上管理していたのは宦官たちであった。玄宗皇帝が道教を国教として依頼、道教が朝廷内に入り込み、同時に宦官と結託すことになり、皇帝の地位させ裏で左右するところまで権力を持ってきていた。
本来、宦官は皇帝の身のまわりの世話をする本来は賎しい職だったが、皇帝の寵愛を受け、皇后側室の庇護を受け、そして外部勢力と接近すことにより朝廷内の警部まで実質的にするようになっていた。
韓愈はこれに対し、宦官の寺院または道観への立ち入りを禁止したのであるが、これは法律てきには正しくても、絶大な権力を握っている宦官たちに反発は免れなかったのである。
韓愈は勤務ぶりから、あらゆる点について、少しでも誤りや欠点があればそこを取りあげて弾劾しょうと、細かい点までチェックが入り、陰湿な攻撃を受けることになったのである。
堪り兼ねた韓愈は東都留守の以前に四門博士だったとき、国子祭酒という直属上官の地位にあった鄭余慶に手紙を送り、自分の立場を訴えた。
表面だって宦官に逆らうもののいない時代に、韓愈は孤立無援の立場に自らを置いたのである。
