韓愈《讀巻04-14 送孟東野序 -(7)§3-1》 周の末になると、荘周はその大きくとりとめのない言葉をもって鳴った。楚は大国であるから、その亡びるときに、屈原を以て楚辞が鳴りひびいた。

 

 
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戦国時代(紀元前350年頃)東方地図 

(7)§3-1

其末也,莊周以其荒唐之辭鳴。

周の末になると、荘周はその大きくとりとめのない言葉をもって鳴った。

楚大國也,其亡也以屈原鳴。

楚は大国であるから、その亡びるときに、屈原を以て楚辞が鳴りひびいた。

臧孫辰、孟軻、荀卿,以道鳴者也。

減孫辰・孟珂・萄卿は道理を以て鳴る者であった。

楊朱、墨翟、管夷吾、晏嬰、老聃、申不害、韓非、慎到、田駢、鄒衍、尸佼、孫武、張儀、蘇秦之屬,皆以其術鳴。

楊朱・墨召・管夷吾・畳嬰・老嗣・申不害・韓非・憐到・田研・秘術・戸佼・孫武・張儀・蘇秦のたぐいは、皆その学術を以て鳴ったのである。

(8)§3-2

秦之興,李斯鳴之。漢之時,司馬遷、相如、揚雄,最其善鳴者也。其下魏晉氏,鳴者不及於古,然亦未嘗也。

(9)§3-3

就其善者,其聲清以浮,其節數以急,其辭淫以哀,其志弛以肆。其為言也,亂雜而無章,將天醜其德,莫之顧耶?何為乎不明其善鳴者也?

 

(7)§3-#1

其の末や、荘周其の荒唐の辞を以て鳴る。楚は大国なり。

其の亡ぶるや、屈原を以て鳴る。

臧孫辰、孟軻、荀卿は、道を以て鳴る者なり。

楊朱、墨翟、管夷吾、晏嬰、老聃、申不害、韓非、慎到、田駢、鄒衍、尸佼、孫武、張儀、蘇秦の屬は、皆其の術を以て鳴る。

(8)§3-#2

秦の興るや、李斯 之れに鳴る。

漢の時、司馬遷・相加・揚雄は、最も其の善く鳴る者なり。

其の魏 晋氏に下りては、鳴る者古に及ばず。

然れども亦未だ嘗て絶えざるなり。

(9)§3-#3

就【たとい】其の善く鳴る者も、其の聾清にして以て浮、其の節数にして以て急、其の辞淫にして以て哀、其の志弛にして以て肆なり。

其の言為るや、乱雑にして章無し。

將 天其の徳を醜として、之を顧みること莫きか。

何為れぞや、其の善く鳴る者を鳴らさざる。

 

戦国時代勢力図 

《讀巻04-14 送孟東野序 -(7)§3-1

『送孟東野序』 現代語訳と訳註解説
(
本文)
(7)§3-1

其末也,莊周以其荒唐之辭鳴。

楚大國也,其亡也以屈原鳴。

臧孫辰、孟軻、荀卿,以道鳴者也。

楊朱、墨翟、管夷吾、晏嬰、老聃、申不害、韓非、慎到、田駢、鄒衍、尸佼、孫武、張儀、蘇秦之屬,皆以其術鳴。


(下し文)
(7)§3-#1

其の末や、荘周其の荒唐の辞を以て鳴る。楚は大国なり。

其の亡ぶるや、屈原を以て鳴る。

臧孫辰、孟軻、荀卿は、道を以て鳴る者なり。

楊朱、墨翟、管夷吾、晏嬰、老聃、申不害、韓非、慎到、田駢、鄒衍、尸佼、孫武、張儀、蘇秦の屬は、皆其の術を以て鳴る。


(現代語訳)
周の末になると、荘周はその大きくとりとめのない言葉をもって鳴った。

楚は大国であるから、その亡びるときに、屈原を以て楚辞が鳴りひびいた。

減孫辰・孟珂・萄卿は道理を以て鳴る者であった。

楊朱・墨召・管夷吾・畳嬰・老嗣・申不害・韓非・憐到・田研・秘術・戸佼・孫武・張儀・蘇秦のたぐいは、皆その学術を以て鳴ったのである。


(訳注) (7)§3-1

 

其末也,莊周以其荒唐之辭鳴。

周の末になると、荘周はその大きくとりとめのない言葉をもって鳴った。

莊周 荘子(そうし、生没年は厳密には不明だが、紀元前369 - 紀元前286年と推定されている)は、中国の戦国時代の宋国の蒙(現在の河南省商丘あるいは安徽省蒙城)に産まれた思想家で、道教の始祖の一人とされる人物である。荘周(姓=荘、名=周)。字は子休とされるが、字についての確たる根拠に乏しい。

老子と荘子の思想が道教に取り入られる様になると、荘子は道教の祖の一人として崇められるようになり、道教を国教とした唐代は、皇帝玄宗により神格化され、742年に南華真人(なんかしんじん)の敬称を与えられた。また南華老仙とも呼ばれた。著書『荘子』は『南華真経(なんかしんきょう)』と呼ばれるようになった。『三国志演義』の冒頭に登場する南華老仙は荘子をさしている。

 

楚大國也,其亡也以屈原鳴。

楚は大国であるから、その亡びるときに、屈原を以て楚辞が鳴りひびいた。

楚 (そ - 紀元前223年)は、中国に周代、春秋時代、戦国時代にわたって存在した王国。現在の湖北省、湖南省を中心とした広い地域を領土とした。首都は丹陽(ただし、名前が同じだけで場所は何度か変わっている)。

屈原 戦国時代の楚の政治家、詩人。姓は羋、氏は屈。諱は平または正則。字が原。春秋戦国時代を代表する詩人であり、政治家としては秦の張儀の謀略を見抜き踊らされようとする懐王を必死で諫めたが受け入れられず、楚の将来に絶望して入水自殺した。

 

臧孫辰、孟軻、荀卿,以道鳴者也。

減孫辰・孟珂・萄卿は道理を以て鳴る者であった。

臧孫辰 魯の大夫。文仲とおくりなされた。孔子の先輩。『論語』衛霊公篇にみえる。孔子は、臧孫辰には不仁と不智が三つずつあるという(『左伝』)。

孟軻 孟子(もうし、紀元前372? - 紀元前289年)は戦国時代中国の儒学者。姓は不詳、氏は孟、諱は軻(か)、字は子輿(しよ)。亜聖(あせい)とも称される。孟子の「子」とは先生というほどの意。儒教では孔子に次いで重要な人物であり、そのため儒教は別名「孔孟の教え」とも呼ばれる。

あるいはその言行をまとめた書『孟子』(もうし)。性善説を主張し、仁義による王道政治を目指した。

荀卿 紀元前4世紀末、趙に生まれる。斉の襄王に仕え、斉が諸国から集めた学者たち(稷下の学士)の祭酒(学長職)に任ぜられる。後に、讒言のため斉を去り、楚の宰相春申君に用いられて、蘭陵の令となり、任を辞した後もその地に滞まった。

 

楊朱、墨翟、管夷吾、晏嬰、老聃、申不害、韓非、慎到、田駢、鄒衍、尸佼、孫武、張儀、蘇秦之屬,皆以其術鳴。

楊朱・墨召・管夷吾・畳嬰・老嗣・申不害・韓非・憐到・田研・秘術・戸佼・孫武・張儀・蘇秦のたぐいは、皆その学術を以て鳴ったのである。

楊朱 楊朱は中国の春秋戦国時代の思想家。個人主義的な思想である為我説を主張した。字は子居。 人間の欲望を肯定し、自己満足が自然に従うものであるとした。儒家、墨家に対抗し、異端として孟子などから排撃される。著書は伝わらず、「列子」、「荘子」などに学説が断片的であるが記載される。

墨翟 戦国時代の思想家。河南魯山の人。あるいはその著書名。墨家の始祖。一切の差別が無い博愛主義を説いて全国を遊説した。いわゆる墨子十大主張を主に説いたことで世に知られている。諱は翟という。

管夷吾 春秋時代における斉の政治家である。桓公に仕え、覇者に押し上げた。一般には字の仲がよく知られており三国時代の管寧はその後裔という。

晏嬰 春秋時代の斉の政治家。氏は晏、諱は嬰、字は仲、諡は平。莱の夷維の人。父は晏弱。子は晏圉。妻の名及び生まれは史書に記載なし。霊公、荘公光、景公の3代に仕え、上を憚ることなく諫言を行った。名宰相として評価が高く、晏平仲、もしくは晏子と尊称される。

老聃 老子のこと。古代中国の哲学者であり、道教創案の中心人物。「老子」の呼び名は「偉大な人物」を意味する尊称と考えられている。書物『老子』(またの名を『老子道徳経』)を書いたとされるがその履歴については不明な部分が多く、実在が疑問視されたり、生きた時代について激しい議論が行われたりする[2]。道教のほとんどの宗派にて老子は神格(en)として崇拝され、三清の一人である太上老君の神名を持つ。

申不害 [?~前337ころ]中国、戦国時代の思想家・政治家。鄭(てい)の人。道家の思想を基に刑名・法術の学を説き、韓の昭侯の宰相として富国強兵に努めた。著「申子」。

韓非 紀元前280? - 紀元前233年)は、中国戦国時代の思想家。『韓非子』の著者。法家の代表的人物。韓非子とも呼ばれる。元来は単に韓子と呼ばれていたが、唐代の詩人韓愈を韓子と呼ぶようになると韓非子と呼ぶことが一般化した。

慎到 (395年-前315年)戦国時代の思想家。斉 (山東省) に遊学し道家思想を学んだと『史記』にあるが,法による政治を説いたので法家の系統に属するともいわれ,その事績はよくわからない。その著『慎子』42編。

田駢 斉王(威王と思われる)に万物平等論を説いた。それを聞いた斉王は、「寡人の有つ所は斉国なり。願わくば斉国の政を聞かん。」と、いらいらして答えた。何か理想の話を聞かされたが、私が聞きたいのは現実の斉を治める方法だ、という意味だ。それに対して田駢は、「臣の言は、政無きけれども、而を以て政を得べし。之を譬うれば材木の若し。材無けれども、而を以て材を得べし。願わくば王の自ら斉国の政を取らんことを。」と答えた。 「私の言うことと政治は無関係に見えますけれど、これは材木を欲しがっている人に林の中の木の話をしているようなもので、私の話にも政治に取り入れられるものがあります。」 という意味だ。(威王はその言葉を理解し、稷下の学者村を造る気になったとも思われる)ここに世に名高い稷下の学士と呼ばれる人々が集まったのだ。宣王、文学遊説の士を喜ぶ。鄒衍、淳于髠、田駢、接与、慎到、環淵の徒の如きより七十六人、皆、列弟を賜い、上大夫と為す。「治めずして議論す。是を以て斉の稷下の学士、復た盛んにして、且に数百人ならんとす。」というところからも分かるように、田駢は稷下の学士の中でも高い地位にあったのだ。

鄒衍 戦国時代の陰陽家。斉の稷下の学士の一人。「騶衍」とも。 宣王、文学遊説の士を喜ぶ。鄒衍、淳于髠、田駢、接与、慎到、環淵の徒の如きより七十六人、皆、列弟を賜い、上大夫と為す。治めずして議論す。是を以て斉の稷下の学士、復た盛んにして、且に数百人ならんとす。

尸佼 戦国時代の学者。名は佼。『史記』によれば荀子と同時代の楚の学者とされている。また,秦の商鞅の客となり商鞅が刑を受けたのち,蜀に逃れて著書の『尸子』 (20) を著わしたといわれるが,事績の詳細についての明証はない。

孫武 春秋時代の武将・軍事思想家。兵法書『孫子』の作者とされており、兵家の代表的人物。斉国出身。字は長卿。孫臏の先祖。「孫子」は尊称である。

張儀 戦国時代の遊説家、政治家。魏の人。蘇秦と共に縦横家の代表的人物とされ、秦の宰相として蘇秦の合従策を連衡策で打ち破り、秦の統一に貢献した。

蘇秦 戦国時代の弁論家。張儀と並んで縦横家の代表人物であり、諸国を遊説して合従を成立させたとされる。蘇代の兄。

 

 

#1

其の末や、荘周其の荒唐の辞を以て鳴る。楚は大国なり。

其の亡ぶるや、屈原を以て鳴る。

臧孫辰、孟軻、荀卿は、道を以て鳴る者なり。

楊朱、墨翟、管夷吾、晏嬰、老聃、申不害、韓非、慎到、田駢、鄒衍、尸佼、孫武、張儀、蘇秦の屬は、皆其の術を以て鳴る。

#2

秦の興るや、李斯 之れに鳴る。

漢の時、司馬遷・相加・揚雄は、最も其の善く鳴る者なり。

其の魏 晋氏に下りては、鳴る者古に及ばず。

然れども亦未だ嘗て絶えざるなり。

#3

就【たとい】其の善く鳴る者も、其の聾清にして以て浮、其の節数にして以て急、其の辞淫にして以て哀、其の志弛にして以て肆なり。

其の言為るや、乱雑にして章無し。

將 天其の徳を醜として、之を顧みること莫きか。

何為れぞや、其の善く鳴る者を鳴らさざる。