韓愈 贈侯喜  さて、ようやく温水に到着してみると、かねてより聞いていたこととは違っていて、ただ微汒として、ろくろく水もなく、絶えてはまた流れるという有様で、水深葉というと車のわだちが土中にめり込んだくらいしかないし、水幅は車の心棒がやっと通るかという程度のものである。

 
 2015年4月16日の紀頌之5つのBlog 
 ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場 
 Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
 
LiveDoorBlog
224 《(改訂版) 巻6-1 襄陽歌 -#2》Index-14 Ⅱ― 9-734年開元二十二年34歳 <224> Ⅰ李白詩1461 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5853 
 孟浩然 詩 index李白詩index謝霊運 詩 index司馬相如 《 子虛賦 ・上林賦 》揚雄 《 甘泉賦 》 ●諸葛亮(孔明)出師表 
 曹植(曹子建)詩 65首 index文選 賦)兩都賦序・西都賦・東都賦 (班固)《李白 全詩》
  総合案内
(1)漁父辞 屈原『楚辞・九歌』東君 屈原《楚辞 『九辯』》 宋玉  <案内> 
 ●唐を代表する 中唐 韓愈 全500首  
 Ⅱ中唐詩・晩唐詩
  LiveDoorBlog
61 《巻03-15 贈侯喜》   (吾黨侯生字叔巳,) 韓愈(韓退之)ID 《 801年貞元17年 34歳》   ()<1374> Ⅱ韓昌黎集 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5854 
 ・李商隠詩 (1) 136首の75首・李商隠詩 (2) 135首の61首●韓愈index-1 ・孟郊、張籍と交遊・汴州乱41首●韓愈詩index-2[800年 33歳~804年 37歳]27首●韓愈詩index-3 805年 38歳・]陽山から江陵府 36首●韓愈詩index-4 806年 39歳 江陵府・権知国子博士 51首(1)25首 
 index-5 806年39歳 50首の(2)25首index-6[807年~809年 42歳]20首index-7[810年~811年 44歳] 34首index-8 [812年~814年47歳]46首index-9[815年~816年 49歳] 57首index-10[817年~818年 51歳]・「平淮西碑」28首 
 index-11 819年 52歳 ・『論佛骨表』左遷 38首index-12 820年 53歳 ・9月國子祭酒に。18首index-13 821年~822年 55歳 22首index-14 823年~824年 57歳・病気のため退職。没す。 14首韓愈 哲学・儒学「五原」賦・散文・上奏文・碑文など 
 孟郊張籍     
 ●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。" 
 Ⅲ杜甫詩全1500首   LiveDoorBlog766年大暦元年55歲-47-#5奉節-38-#5 《巻16-10 八哀詩八首(八)故右僕射相國張公九齡 -5》 杜甫index-15 杜甫<910-#5> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5855 
 杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩) 杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首 
 杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首 
 ●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている 
 Ⅳブログ漢・唐・宋詞詩集 Fc2Blog 
        
 ●花間集全詩●森鴎外の小説『魚玄機』、芸妓で高い評価を受けた『薛濤』の詩。唐時代にここまで率直な詩を書く女性が存在した奇跡の詩。唐から五代詩詞。花間集 
 Ⅴ.唐五代詞詩・宋詞詩・女性 LiveDoorBlog『花間集』全詩訳注解説(改訂版)-4.薛昭蘊131《巻三34浣溪紗八首 其五》巻三3431-〈131〉漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-5857 
 薛濤の全詩花間集(1巻花間集(2巻花間集(3巻花間集(4巻花間集(5巻 
 魚玄機全詩花間集(6巻花間集(7巻花間集(8巻花間集(9巻花間集10巻 
 温庭筠66首 花間集1・2巻皇甫松11首 花間集二巻韋莊47首 花間集二巻薛昭蘊19首 花間集三巻牛嶠31首 花間集三・四巻張泌27首 花間集四巻 
 毛文錫31首 花間集5巻牛希濟11首 花間集5巻欧陽烱17首 花間集5・6巻和凝20首 花間集6巻顧夐56首 花間集6・7巻孫光憲47首 花間集7・8巻 
 魏承班15首 花間集8・9巻鹿虔扆6首 花間集9巻閻選8首 花間集9巻尹鶚6首 花間集9巻毛熙震29首 花間集9・10巻李珣39首 花間集10巻 
  ■最近Best5 賦・詩・詞(漢詩4ブログ各部門)漢詩総合サイト 07ch 
 杜甫全詩案内韓愈全詩案内李白全集文選古詩源花間集案内 
 
 

61 《巻03-15 贈侯喜》   (吾黨侯生字叔巳,) 韓愈(韓退之)ID  801年貞元17年 34歳》   ()1374 Ⅱ韓昌黎集 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5854韓愈詩-61

 

 

年:       貞元十七年

寫作時間:           801

寫作年紀:           34

卷別:    卷三三八              文體:    七言古詩

詩題:    贈侯喜

【愈貞元十七年七月二十二日,與李景興、侯喜、尉遲汾同漁於洛,有不刻在焉,詩必是時作。】

作地點:              洛陽(都畿道 / 河南府 / 洛陽)

交遊人物:侯喜    當地交遊(都畿道 河南府 洛陽)

 

 

贈侯喜  -#1

(この日は一向に魚が釣れなかったから、戯れに、門下の侯喜にたいして不満をいうような意味で作った。)

愈貞元十七年七月二十二日,與李景興、侯喜、尉遲汾同漁於洛,有不刻在焉,詩必是時作。

韓愈は貞元17722日、韓愈門下の李景興、侯喜、尉遅汾らと共に、洛陽城郭外の洛水に魚釣りなどして遊び、その帰途、洛北の惠林寺に往ったところ、遅くなったので、そのまま留泊した。そのときの惠林寺に題名が残っていたために、その時の事実が明らかになった。

吾黨侯生字叔巳,呼我持竿釣溫水。

吾韓門一党の侯生君は字名を叔巳という、その男の発起で一日、竿をかついで、洛水で魚釣りをしようということになった。

平明鞭馬出都門,盡日行行荊棘裡。

そこで朝早く、馬に鞭うって、城門を出たが、その路は、荊棘の間に通じているために、行くのに時間がかかり、一日近くかかってしまった。

溫水微茫又流,深如車轍闊容輈。

さて、ようやく温水に到着してみると、かねてより聞いていたこととは違っていて、ただ微汒として、ろくろく水もなく、絶えてはまた流れるという有様で、水深葉というと車のわだちが土中にめり込んだくらいしかないし、水幅は車の心棒がやっと通るかという程度のものである。

侯喜に贈る)  -#1

【愈は貞元十七年七月二十二日,李景興と、侯喜と、尉遲汾とで洛に於て漁を同じゅうして,不刻有る在らん,詩 必ず是の時に作る。】

吾が黨の侯生 字は叔巳,我を呼び 竿を持して溫水に釣る。

平明 馬に鞭って都門を出で,盡日 行き行く 荊棘の裡。

溫水 微茫 えて又た流る,深きは車轍の如く 闊きは輈を容る。

#2

蝦蟆跳過雀兒浴,此縱有魚何足求。

我為侯生不能已,盤針擘粒投泥滓。

晡時堅坐到黃昏,手倦目勞方一起。

暫動還休未可期,蝦行蛭渡似皆疑。

#3

舉竿引線忽有得,一寸纔分鱗與鬐。

是日侯生與韓子,良久歎息相看悲。

我今行事盡如此,此事正好為吾規。

半世遑遑就舉選,一名始得紅顏衰。

#4

人間事勢豈不見,徒自辛苦終何為。

便當提攜妻與子,南入箕潁無還時。

巳君今氣方我言至切君勿嗤。

君欲釣魚須遠去,大魚豈肯居沮洳。

 

洛陽 函谷関002 

 

『贈侯喜』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

贈侯喜  -#1

【愈貞元十七年七月二十二日,與李景興、侯喜、尉遲汾同漁於洛,有不刻在焉,詩必是時作。】

吾黨侯生字叔巳,呼我持竿釣溫水。

平明鞭馬出都門,盡日行行荊棘裡。

溫水微茫又流,深如車轍闊容輈。


(下し文)

侯喜に贈る)  -#1

【愈は貞元十七年七月二十二日,李景興と、侯喜と、尉遲汾とで洛に於て漁を同じゅうして,不刻有る在らん,詩 必ず是の時に作る。】

吾が黨の侯生 字は叔巳,我を呼び 竿を持して溫水に釣る。

平明 馬に鞭って都門を出で,盡日 行き行く 荊棘の裡。

溫水 微茫 えて又た流る,深きは車轍の如く 闊きは輈を容る。


(現代語訳)
(この日は一向に魚が釣れなかったから、戯れに、門下の侯喜にたいして不満をいうような意味で作った。)

韓愈は貞元17722日、韓愈門下の李景興、侯喜、尉遅汾らと共に、洛陽城郭外の洛水に魚釣りなどして遊び、その帰途、洛北の惠林寺に往ったところ、遅くなったので、そのまま留泊した。そのときの惠林寺に題名が残っていたために、その時の事実が明らかになった。

吾韓門一党の侯生君は字名を叔巳という、その男の発起で一日、竿をかついで、洛水で魚釣りをしようということになった。

そこで朝早く、馬に鞭うって、城門を出たが、その路は、荊棘の間に通じているために、行くのに時間がかかり、一日近くかかってしまった。

さて、ようやく温水に到着してみると、かねてより聞いていたこととは違っていて、ただ微汒として、ろくろく水もなく、絶えてはまた流れるという有様で、水深葉というと車のわだちが土中にめり込んだくらいしかないし、水幅は車の心棒がやっと通るかという程度のものである。


莎柵洛陽地図001
(訳注)

贈侯喜  -#1

(この日は一向に魚が釣れなかったから、戯れに、門下の侯喜にたいして不満をいうような意味で作った。)

愈貞元十七年七月二十二日,與李景興、侯喜、尉遲汾同漁於洛,有不刻在焉,詩必是時作

韓愈は貞元17722日、韓愈門下の李景興、侯喜、尉遅汾らと共に、洛陽城郭外の洛水に魚釣りなどして遊び、その帰途、洛北の惠林寺に往ったところ、遅くなったので、そのまま留泊した。そのときの惠林寺に題名が残っていたために、その時の事実が明らかになった。

この詩の前の《巻03-02 山石 》と同時期の作品である。

韓愈が徐州を去って、しばらく洛陽にいた時のものである。

 

吾黨侯生字叔巳,呼我持竿釣溫水。

吾韓門一党の侯生君は字名を叔巳という、その男の発起で一日、竿をかついで、洛水で魚釣りをしようということになった。

溫水 洛水のことで、河南縣北にある。易の乾鑿度に「王者、盛徳の應あれば、洛水先ず温かなり、故に溫洛と號す。」

 

平明鞭馬出都門,盡日行行荊棘裡。

そこで朝早く、馬に鞭うって、城門を出たが、その路は、荊棘の間に通じているために、行くのに時間がかかり、一日近くかかってしまった。

 

溫水微茫又流,深如車轍闊容輈。

さて、ようやく温水に到着してみると、かねてより聞いていたこととは違っていて、ただ微汒として、ろくろく水もなく、絶えてはまた流れるという有様で、水深葉というと車のわだちが土中にめり込んだくらいしかないし、水幅は車の心棒がやっと通るかという程度のものである。