韓愈  祭十二郎文》#1

年月日,季父愈聞汝喪之七日,乃能銜哀致誠,使建中遠具時羞之奠,告汝十二郎之靈。

嗚呼!吾少孤,及長,不省所怙,惟兄嫂是依。

(溧陽の尉をつとめていた孟郊から、韓老成の死を報ずる手紙が来たので、それを受取ってから七日目、韓愈は祭文を書き、使者に持たせて韓老成の霊前にそなえさせた)年月日、末の叔父の私は、お前の喪を聞いてから七日、はじめて悲しみを心に含みながらも、真心をささげて、建中を使いとして遠く時節の物の供物をそなえて、お前十二郎のみたまに告げさせるのである。ああ、私は幼くて父を失いみなし子となり、やや長じて後は、恨む所の親の機嫌を伺うこともなく、兄と嫂にばかり世話になったものだ。

76-1 《八讀巻六11 祭十二郎文》-1 韓愈(韓退之)  803年貞元19 38歳<1452 Ⅱ【18分割】 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6244

 
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韓愈詩-76- 祭十二郎文

十二郎の名は老成、率府参軍韓介の子、韓愈の兄の子である。韓介には二子あり、百川と老成、起居舎人会(韓愈の長兄)に子がなかったので、老成にその後を嗣がせた。老成には湘と滂との二子があった。百川が死んだので韓愈は滂をその祖父韓介の後嗣とした。

韓会と韓介は仲卿の子であったが、会、介、百川の三人が先に死んだので、それ故に文中に「吾が上に三兄有り、不幸にして皆早世せり、先人の後を承くる者は、孫に在りてはただ汝のみ、子に在りてはただ吾のみ」という。しかし滂が祖父韓介の後を嗣いだとする説のほかに叔父百川の嗣となったという説もある。十二郎とは排行の順が十二番目の男子。貞元十九年の作である。

 

貞元19(803)四月、彼の妻の母が死んだ。六十九歳。姓は西氏、河南法曹をつとめた(これもさほど地位の高くない地方官である)慮胎という人に嫁ぎ、夫に死に別れてからは、女手ひとつで二男三女を育てあげた。その末の娘が韓愈の妻である(韓文三四、河南府法曹参軍慮府君夫人苗氏墓誌銘)。

そして五月には、江南にいた甥の韓老成が死んだ。韓愈が汴州にいたころ、韓老成が一度たずねて来たが、それ以後は全く会っていない。前年、韓老成からの手紙に脚気の気味があると言ってきたが、江南にはよくある風土病と、韓愈はさほど気にしなかった。ところがこの年、溧陽の尉をつとめていた孟郊から、ふいに韓老成の死を報ずる手紙が来たのである。それを受取ってから七日目、韓愈は祭文を書き、使者に持たせて韓老成の霊前にそなえさせた。

 

韓愈詩-76-1祭十二郎文

作者:韓愈 唐                 

803年貞元19 38

本作品收錄於:《全唐文/0568

 

§1-3分割

#1

年月日,季父愈聞汝喪之七日,乃能銜哀致誠,使建中遠具時羞之奠,告汝十二郎之靈。嗚呼!吾少孤,及長,不省所怙,惟兄嫂是依。

#2

中年兄歿南方,吾與汝俱幼,從嫂歸葬河陽,既又與汝就食江南,零丁孤苦,未一日相離也。吾上有三兄,皆不幸早世。承先人後者,在孫惟汝,在子惟吾。

#3

兩世一身,形單影隻。嫂撫汝指吾而言曰:「韓氏兩世,惟此而已。」汝時猶小,當不複記憶;吾時雖能記憶,亦未知其言之悲也。

年月日。季父愈、汝の喪を聞くの七日、乃ち能く哀(あい)を銜(ふく)み誠を致し、建中をして遠く時羞(じしゅう)の奠(てん)を具え、汝十二郎の霊に告げしむ。

 嗚呼(ああ)吾少(わか)くして孤()なり。長ずるに及んで怙(たの)むところを省(せい)せず。惟だ兄と嫂(あによめ)とに是れ依る。中年に兄南方に歿す。吾と汝と倶(とも)に幼く、嫂に従いて河陽に帰葬(きそう)す。既にしてまた汝と食に江南に就く。零丁孤苦(れいていこく)未だ嘗て一日も相離れず。

 吾上に三兄有り。皆不幸にして早世す。先人の後を承くる者、孫に在りては惟だ汝のみ、子に在りては惟だ吾のみ。両世一身にて形(かたち)単に影隻(せき)なり。嫂常(かつ)て汝を撫し吾を指さして言いて曰く「韓氏の両世、惟だ此のみ」と。汝時に尤も小なり。当(まさ)に復た記憶せざるべし。吾時に能く記憶すと雖も、亦た未だその言の悲しきことを知らず。

 

§2-4分割

吾年十九,始來京城,其後四年,而歸視汝。又四年,吾往河陽省墳墓,遇汝從嫂喪來葬。又二年,吾佐董丞相於汴州,汝來省吾,止一,請歸取其孥。明年丞相薨,吾去汴州,汝不果來。是年吾佐戎徐州,使取汝者始行,吾又罷去,汝又不果來。吾念汝從於東,東亦客也,不可以久,圖久遠者,莫如西歸,將成家而致汝。嗚呼!孰謂汝遽去吾而歿乎!

 

吾與汝俱少年,以為雖暫相別,終當久與相處,故舍汝而旅食京師,以求升鬥之祿,誠知其如此,雖萬乘之公相,吾不以一日輟汝而就也!

 

 吾年十九。始めて京城に来る。その後四年にして帰りて汝を視る。また四年にして吾河陽に往き、墳墓を省するに、汝が嫂の喪に従い来たりて葬るに遇う。また二年にして吾董丞相に汴州に佐()たり。汝来りて吾を省す。止まること一歳にして、帰りてその孥()を取らんと請う。明年に丞相薨じて、吾汴州を去る。汝来ることを果たさず。是の年、吾戎(じゅう)に徐州に佐たり。汝を取る者をして始めて行かしめしとき、吾また罷め去る。汝また来ること果たさず。吾汝の東に従うを念(おも)うに、東も亦た客なり、以って久しゅうすべからず。久遠を図るものは、西帰(せいき)するに如くは莫()し。将(まさ)に家を成して汝を致さんとす。嗚呼、孰(たれ)か謂(おも)わん汝遽(にわ)かに吾を去りて歿せんとは。

 

 吾と汝と倶(とも)に少年なりしとき、以為(おも)えらく暫くは相別ると雖も、終には当(まさ)に久しく相与(とも)に処()るべしと。故に汝を捨てて京師に旅食し、以って斗斛(とこく)の祿を求む。誠にその此(かく)の如くなるを知らば、万乗の公相なりと雖も、吾以って一日も汝を輟()てて就かざりしなり。

 

§3-4

去年孟東野往,吾書與汝曰:「吾年未四十,而視茫茫,而髮蒼蒼,而齒牙動搖,念諸父與諸兄,皆康強而早世,如吾之衰者,其能久存乎!吾不可去,汝不肯來,恐旦暮死,而汝抱無涯之戚也。」孰謂少者歿而長者存,強者夭而病者全乎!嗚呼!其信然邪?其夢邪?其傳之非其真邪?信也,吾兄之盛德,而夭其嗣乎?汝之純明,而不克蒙其澤乎?少者強者而夭歿,長者袁者而全存乎?未可以為信也,夢也,傳之非其真也;東野之書,耿蘭之報,何為而在吾側也?嗚呼!其信然矣。

去年孟東野往きしとき、吾書を汝に与えて曰く「吾年未だ四十ならずして、視ること茫々たり、髪蒼蒼たり、歯牙動揺す。諸父と諸兄との、皆康彊(こうきょう)にして早世せるを念(おも)えば、吾の衰うる如き者は、それ能く久しく存せんや。吾去()くべからず、汝肯(あえ)て来らずんば、旦暮に死して、汝が涯し無き戚(うれ)いを抱かんことを恐る」と。

 孰()れか謂(おも)わん少(わか)き者は歿して長ぜる者は存し、彊(つよ)き者は夭して病める者は全(まった)からんとは。

嗚呼、それ信(まこと)に然るか、それ夢なるか。それこれを伝うることその真に非ざるか。信ならば吾が兄の盛徳にして、その嗣()を夭(よう)せんや。汝の純明にして、その沢(たく)を蒙ること克(あた)わざらんや。少者彊者(きょうしゃ)にして夭歿し、長者衰者にして存全せんや。未だ以って信と為すべからざるなり。夢なり、伝われることそれ真に非ざるなりとせば、東野の書、耿蘭(こうらん)の報、何爲(なんす)れぞ吾が側(かたわら)に在るや。嗚呼、それ信に然らん。
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§4-3

吾兄之盛德,而夭其嗣矣;汝之純明宜業其家者,而不克蒙其澤矣。所謂天者誠難測,而神者誠難明矣;所謂理者不可推,而壽者不可知矣。雖然,我自今年來,蒼蒼者欲化而為白矣,動搖者欲而落矣,毛血日益衰,誌氣日益微,幾何不從汝而死也!死而有知,其幾何離;其無知,悲不幾時,而不悲者無窮期矣。汝之子始十,吾之子始五,少而強者不可保,如此孩提者,又可冀其成立邪?嗚呼哀哉,嗚呼哀哉!

吾が兄の盛徳にして、その嗣を夭せり。汝の純明にして宜しくその家を業とすべき者、その沢を蒙ること克(あた)わず。所謂天なるものは誠に測り難く、神(しん)なるものは誠に明らかにし難し。所謂理なるものは推()すべからず、寿なるものは知るべからず。
然りと雖も吾今年来、蒼蒼たるもの或いは化して白と為れり。動揺するもの、或いは脱けて落ちぬ。毛血日に益々衰え、志気日に益々微なり。幾何(いくばく)か汝に従って死せざらん。死して知ること有らば、それ幾何か離れん。それ知ること無くんば、悲しむこと幾時ならずして、悲しまざるもの窮まる期(とき)無からん。汝の子始めて十歳、吾の子始めて五歳なり。少(わか)くして彊(つよ)き者、保つべからざること此の如し。孩提(がいてい)なる者、またその成立を冀(こいねが)うべけんや。嗚呼哀しいかな。嗚呼哀しいかな。
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§5-4

汝去年書云:「比得軟病,往往而劇。」吾曰:是病也,江南之人,常常有之。未始以為憂也。嗚呼!其竟以此而殞其生乎?抑別有疾而至斯乎?汝之書六月十七日也,東野云:汝歿以六月二日,耿蘭之報無月日:蓋東野之使者不知問家人以月日,如耿蘭之報不知當言月日,東野與吾書,乃問使者,使者妄稱以應之耳。其然乎?其不然乎?

 

今吾使建中祭汝,吊汝之孤,與汝之乳母。彼有食可守以待終喪,則待終喪而取以來,如不能守以終喪,則遂取以來。其餘奴婢,並令守汝喪。吾力能改葬,終葬汝於先人之兆,然後惟其所願。

汝が去年の書に云う、此ごろ軟脚の病を得たり往々にして劇(はなは)だしと。吾曰く、是の疾や江南の人常々にこれ有り。未だ始めより以って憂いと為さずと。嗚呼、それ竟(つい)に此れを以ってその生を殞(おと)せるか、抑々(そもそも)別に疾(やまい)有って斯(ここ)に至れるか。
汝の書は、六月十七日なり。東野云う汝が歿すること六月二日を以ってすと。耿蘭の報は月日無し。蓋(けだ)し東野の使者は、家人に問うに月日を以ってするを知らず。耿蘭の報の如きは、当(まさ)に月日を言うべきを知らず。東野が吾に書を与えんとして、乃ち使者に問うに、使者妄(みだ)りに称して以ってこれに応(こた)えしのみならん。それ然るか、それ然らざるか。

今吾建中をして汝を祭り、汝の孤と汝の乳母とを弔わしむ。彼に食有り、守りて以って喪を終うること能わずんば、則ち遂に取りて以って来たり、その余の奴婢(どひ)、あわせて汝が喪を守らしめん。吾が力能く改め葬らば、終に汝を先人の兆(ちょう)に葬らん。然る後は惟だそれ願うところのままにせん。


§6 -4

嗚呼!汝病吾不知時,汝歿吾不知日,生不能相養於共居,歿不能撫汝以盡哀,斂不憑其棺,窆不臨其穴,吾行負神明,而使汝夭,不孝不慈,而不得與汝相養以生,相守以死。一在天之涯,一在地之角,生而影不與吾形相依,死而魂不與吾夢相接,吾實為之,其又何尤?彼蒼者天,曷其有極!

 

自今已往,吾其無意於人世矣。當求數頃之田於伊潁之上,以待餘年,教吾子與汝子,幸其長成,吾女與汝女,待其嫁,如此而已。嗚呼!言有窮而情不可終,汝其知也邪?其不知也邪?嗚呼哀哉!尚饗。

 

ああ、そなたの病気になったのも知らず、そなたの死んだ日も知らない。生きている時は扶養して同居することもできなかった。死んでもそなたにとりすがって哀しみを尽すこともできず、柩に納めるときも側に居てやれず、埋葬にも立ち会うことができなかった。私の行いが神に背いたためにそなたを若死にさせてしまた。先祖に対しては不孝、そなたに対しては不慈であり、そなたと一緒に生活することも、そなたの柩を守ることもできなかった。一方は天の涯て一方は地のすみに遠く離れて、生きていたときも幼い日のように影が形に添うように暮らすことができなかった。死んでもそなたの霊魂が私の夢に現れて相逢うことも適わない。これみな私の所為なのだからこの上なにをとがめよう。蒼蒼たる天よ私の悲しみはいつになったら終わるのであろうか。
これから後、私はこの世界に居たくない。手ごろな広さの田を伊水か潁水のほとりに持って残された年を送りたい。吾が子とそなたの子を教え、一人前になるのを願い、吾が娘とそなたの娘が成長してともに嫁に行くのを待ちたい。これだけが望みだ。ああ言葉は限り有るが、情は尽きることが無い。そなたに私の言葉がわかるだろうか。あるいはわからないであろうか。ああ哀しいかな御霊よ願わくは饗()けよ。


 

祭十二郎文§1-3分割 #1

(溧陽の尉をつとめていた孟郊から、韓老成の死を報ずる手紙が来たので、それを受取ってから七日目、韓愈は祭文を書き、使者に持たせて韓老成の霊前にそなえさせた)

年月日,季父愈聞汝喪之七日,

年月日、末の叔父の私は、お前の喪を聞いてから七日、

乃能銜哀致誠,使建中遠具時羞之奠,告汝十二郎之靈。

はじめて悲しみを心に含みながらも、真心をささげて、建中を使いとして遠く時節の物の供物をそなえて、お前十二郎のみたまに告げさせるのである。

嗚呼!吾少孤,及長,不省所怙,惟兄嫂是依。

ああ、私は幼くて父を失いみなし子となり、やや長じて後は、恨む所の親の機嫌を伺うこともなく、兄と嫂にばかり世話になったものだ。

#2

中年兄歿南方,吾與汝俱幼,從嫂歸葬河陽,既又與汝就食江南,零丁孤苦,未一日相離也。吾上有三兄,皆不幸早世。承先人後者,在孫惟汝,在子惟吾。

#3

兩世一身,形單影隻。嫂撫汝指吾而言曰:「韓氏兩世,惟此而已。」汝時猶小,當不複記憶;吾時雖能記憶,亦未知其言之悲也。

(十二郎を祭る文)

年月日。季父愈、汝の喪を聞くの七日、

乃ち能く哀(あい)を銜(ふく)み誠を致し、建中をして遠く時羞(じしゅう)の奠(てん)を具え、汝十二郎の霊に告げしむ。

 嗚呼(ああ)吾少(わか)くして孤()なり。長ずるに及んで怙(たの)むところを省(せい)せず。惟だ兄と嫂(あによめ)とに是れ依る。

#2

中年に兄南方に歿す。吾と汝と倶(とも)に幼く、嫂に従いて河陽に帰葬(きそう)す。

既にしてまた汝と食に江南に就く。零丁孤苦(れいていこく)未だ嘗て一日も相離れず。

 吾上に三兄有り。皆不幸にして早世す。先人の後を承くる者、孫に在りては惟だ汝のみ、子に在りては惟だ吾のみ。

#3

両世一身にて形(かたち)単に影隻(せき)なり。嫂常(かつ)て汝を撫し吾を指さして言いて曰く「韓氏の両世、惟だ此のみ」と。汝時に尤も小なり。当(まさ)に復た記憶せざるべし。吾時に能く記憶すと雖も、亦た未だその言の悲しきことを知らず。

 

 

『祭十二郎文』 現代語訳と訳註解説
(
本文)
 《八讀巻六11 祭十二郎文》
#1

年月日,季父愈聞汝喪之七日,

乃能銜哀致誠,使建中遠具時羞之奠,告汝十二郎之靈。

嗚呼!吾少孤,及長,不省所怙,惟兄嫂是依。



(下し文)
(十二郎を祭る文)

年月日。季父愈、汝の喪を聞くの七日、

乃ち能く哀(あい)を銜(ふく)み誠を致し、建中をして遠く時羞(じしゅう)の奠(てん)を具え、汝十二郎の霊に告げしむ。

 嗚呼(ああ)吾少(わか)くして孤()なり。長ずるに及んで怙(たの)むところを省(せい)せず。惟だ兄と嫂(あによめ)とに是れ依る。

(現代語訳)
(溧陽の尉をつとめていた孟郊から、韓老成の死を報ずる手紙が来たので、それを受取ってから七日目、韓愈は祭文を書き、使者に持たせて韓老成の霊前にそなえさせた)

年月日、末の叔父の私は、お前の喪を聞いてから七日、

はじめて悲しみを心に含みながらも、真心をささげて、建中を使いとして遠く時節の物の供物をそなえて、お前十二郎のみたまに告げさせるのである。

ああ、私は幼くて父を失いみなし子となり、やや長じて後は、恨む所の親の機嫌を伺うこともなく、兄と嫂にばかり世話になったものだ。


(訳注)

《八讀巻六11 祭十二郎文》 #1

(溧陽の尉をつとめていた孟郊から、韓老成の死を報ずる手紙が来たので、それを受取ってから七日目、韓愈は祭文を書き、使者に持たせて韓老成の霊前にそなえさせた)

○十二郎 排行、一族中の十二番目の男子、韓老成のこと。 

 

年月日,季父愈聞汝喪之七日,

年月日、末の叔父の私は、お前の喪を聞いてから七日、

 

乃能銜哀致誠,使建中遠具時羞之奠,告汝十二郎之靈。

はじめて悲しみを心に含みながらも、真心をささげて、建中を使いとして遠く時節の物の供物をそなえて、お前十二郎のみたまに告げさせるのである。

○乃能 七日たって、やっとそこで・‥の意味。それまでは驚きと悲しみで荘然として何もできなかった。十二郎の死を報じた月日が区々だったので問い合わせに七日を要したので弔祭が遅れたのでこういったのである。

○建中 使者の名。

○時羞 時節の物を供える。

 

嗚呼!吾少孤,及長,不省所怙,惟兄嫂是依。

ああ、私は幼くて父を失いみなし子となり、やや長じて後は、恨む所の親の機嫌を伺うこともなく、兄と嫂にばかり世話になったものだ。

○省所怙 親をいう。《詩経、小雅、蓼莪篇》「無父何怙、無母何恃。」(父無ければ何ぞ怙まん、母無けれは何ぞ恃まん)とある。省は親の顔色を省(かえり)みる。機嫌をうかがう。定省は、朝夕、親の機嫌を伺うこと。『礼記』に「昏に定め(両親の寝所を)て、晨に省る」とあるのによる。

○兄嫂 兄韓会と嫂の鄭夫人。