韓愈  湘中  

猿愁魚踴水翻波,自古流傳是汨羅。

蘋藻滿盤無處奠,空聞漁父扣舷歌。
(湘江流域の平原に来て汨羅に臨んで、屈原を弔って歌ったもの)猿は悲しげな鳴き声をあげ、魚ははね躍り、湘江の水は波をわきたたせて、まことに瀟湘八景をみる。そしてここには昔から屈原が投身して死んだところとして、世間に知られている汨羅の故跡である。その魂をまつるために、蘋蘩を盤いっぱいに盛ったが、さてどこに向ってすすめたら良いかわからず、屈原がであった漁父がその人かと思われる様な漁父が相変わらず、船端を叩きながらうたう舟歌がむなしく聞こえてくる。
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韓愈が監察御史で罪を得て陽山に流されたのか(1

803貞元十九年、長安を含む一帯は正月から七月まで雨がなかった。その上、秋には異常に早い霜を見た。農作物は全滅に近い被害を受けた。

首都長安は、地方行政制度の上では長安県(長寿坊南西角)・万年県(宣楊坊東南角)の二県に分けられる。二県を統括する上部機関が京兆府(光徳坊東南角)と呼ばれるもので、その長官を京兆府尹と称する。長安地方の農作物の作柄を調査するのは京兆府の所管事項であり、時の京兆府尹は、さきに、韓愈が手紙を送った李実である。

この手紙で韓愈は李実に向って、「未見有赤心事上,憂國如家如閤下者。今年以來,不雨者百有餘日,種不入土,野無青草,而盜賊不敢起,穀價不敢貴。」未だ赤心もて上に事へ、国を憂ふるに家の如くすること、閣下の如き者を見ず」などとはめちぎったが、これは就職を依頼する手紙の性質上、やむを得なかったことである。実際には、李実は民に臨むのに温情よりも厳格を旨とし、法の適用について仮借しない、酷史と呼ばれる種類の官僚だったらしい。だから、京兆府戸の報告書に、雨はなかったが農作物の作柄は特に良好と書いて、皇帝に提出した。凶作ならば税の減免が行われるはずなのに、この報告書では、特別な措置のとりようがない。農民は大凶作の上に、例年どおりの課税を負担しなければならなくなった。

韓愈はこれを見て、監察御史の摘発すべき事態と考えた。そこで書いたのが、「御史台より天旱人饑を上論する状」(韓文三七)である。

禦史臺上論天旱人饑狀

右臣伏以今年已來,京畿諸縣,夏逢亢旱,秋又早霜,田種所收,十不存一。陛下恩逾慈母,仁過春陽,租賦之間,例皆蠲免。所征至少,所放至多;上恩雖弘,下困猶甚。至聞有棄子逐妻,以求口食;坼屋伐樹,以納錢;寒餒道途,斃踣溝壑。有者皆已輸納,無者徒被追征。臣愚以為此皆群臣之所未言,陛下之所未知者也。

臣竊見陛下憐念黎元,同於赤子,至或犯法當戮,猶且寬而宥之,況此無辜之人,豈有知而不救?又京師者,四方之腹心,國家之根本,其百姓實宜倍加憂恤。今瑞雪頻降,來年必豐,急之則得少而人傷,緩之則事存而利遠。伏乞特敕京兆府,應今年錢及草粟等在百姓腹征未得者,並且停征,容至來年,蠶麥庶得,少有存立。

臣至陋至愚,無所知識。受恩思效,有見輒言,無任懇款慚懼之至。謹錄奏聞。謹奏。

 

そこには農民の窮状を述べ、「子を棄て 妻を逐ひ、以て口食を求め、屋をち樹を伐り、以て税銭を納む」というありさまであり、これを救済するためには、本年度の課税の未徴収分はしばらく凍結し、来年の蚕と麦の収穫期が過ぎて、農民に少しく余裕ができてから徴収する処置をとろがよいと論じてあった。

これは当時の役人として、まず穏当な意見といえよう。ただし、穏当すぎて、愈がどれほど農民の身になって考えたか、疑問成思われる。農民の立場からすれば、減税か免税になってもよい事態なのに、韓愈の意見では徴収が延期されるだけのことであって、その場だけは息がつけるものの、結局のところ大した恩恵とはいえない。しかし、韓愈の立場からいえば、本年度の課税は朝廷ですでに決定された方針であり、監察御史として、そこにまで文句はつけにくい。だから既定の方針はそのままにして、徴税方法だけを操作し、農民の苦痛を軽減しょうとする。これならば、朝廷のどこにもさしさわりは生じないはずであった。

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年:804年貞元20 37

卷別:    卷三四三              文體:    七言

詩題:    湘中

作地點:              目前尚無資料

及地點:              郴州 (江南西道 郴州 郴州) 別名:湘中         

 

 

湘中

猿愁魚踴水翻波,自古流傳是汨羅。

蘋藻滿盤無處奠,空聞漁父扣舷歌。

(湘江流域の平原に来て汨羅に臨んで、屈原を弔って歌ったもの)

猿は悲しげな鳴き声をあげ、魚ははね躍り、湘江の水は波をわきたたせて、まことに瀟湘八景をみる。そしてここには昔から屈原が投身して死んだところとして、世間に知られている汨羅の故跡である。
その魂をまつるために、蘋蘩を盤いっぱいに盛ったが、さてどこに向ってすすめたら良いかわからず、屈原がであった漁父がその人かと思われる様な漁父が相変わらず、船端を叩きながらうたう舟歌がむなしく聞こえてくる。
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(湘中) 
猿愁え魚って水は波を翻【ひるがえ】し、古【いにし】え自【よ】り流伝す走れ汨羅【べきら】たりと。
頻藻【ひんそう】盤に満つるも奠【てん】する処無し、空しく聞く 漁父の舷【ふなばた】をいて歌うを
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韓愈 陽山00 

『湘中』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

湘中

猿愁魚踴水翻波,自古流傳是汨羅。

蘋藻滿盤無處奠,空聞漁父扣舷歌。
湘中(含異文)

猿愁魚踴水翻波【猿愁魚躍水翻波】,自古流傳是汨羅。

蘋藻滿盤無處奠,空聞漁父扣舷歌。


(下し文)
(湘中) 

猿愁え魚踴って水は波を翻【ひるがえ】し、古【いにし】え自【よ】り流伝す走れ汨羅【べきら】たりと。

頻藻【ひんそう】盤に満つるも奠【てん】する処無し、空しく聞く 漁父の舷【ふなばた】を扣いて歌うを。

 

(現代語訳)
(湘江流域の平原に来て汨羅に臨んで、屈原を弔って歌ったもの)

猿は悲しげな鳴き声をあげ、魚ははね躍り、湘江の水は波をわきたたせて、まことに瀟湘八景をみる。そしてここには昔から屈原が投身して死んだところとして、世間に知られている汨羅の故跡である。
その魂をまつるために、蘋蘩を盤いっぱいに盛ったが、さてどこに向ってすすめたら良いかわからず、屈原がであった漁父がその人かと思われる様な漁父が相変わらず、船端を叩きながらうたう舟歌がむなしく聞こえてくる。

(訳注)

湘中
(湘江流域の平原に来て汨羅に臨んで、屈原を弔って歌ったもの)

湘中:湘江 五嶺(現・南嶺)山脈を流域源流にして北流して洞庭湖に流入する、長江の支流である。湘江の川の神は「湘妃」「湘君」といい、娥皇と女英の二人の女神からなる。娥皇と女英は舜帝の妃であったが、舜が没すると悲しんで川に身を投じ、以後川の神となった。斑竹の表面にある斑紋は、娥皇と女英の涙が落ちた跡が残って斑になったという言い伝えがあり、湘江竹、湘竹、涙竹などの別名がある。

春秋時代から戦国時代にかけてこの地にあった楚の人々は、湘水神を崇めた。楚の人であった屈原にも『湘夫人』という詩がある。

楚の地に伝わる湘妃などの神話、桃源郷をはじめとする伝説、およびこの地を流浪した屈原の詩により、風光明媚な湘江流域は神話的想像力や詩的想像力をかきたてる土地とみなされるようになっていった。これを背景に、洞庭湖から湘江、瀟水にかけての地域には瀟湘八景という名所が設定され、中国をはじめ東アジアで書画の題材となってきた。

 

猿愁魚踴水翻波,自古流傳是汨羅。

猿は悲しげな鳴き声をあげ、魚ははね躍り、湘江の水は波をわきたたせて、まことに瀟湘八景をみる。そしてここには昔から屈原が投身して死んだところとして、世間に知られている汨羅の故跡である。
猿愁 中国南部の猿は、手長猿、悲鳴のような啼き方をする。孟浩然『宿桐廬江寄廣陵舊遊』「山暝聽猿愁,滄江急夜流。」(山暝【くらく】して猿愁を聽き,滄江【そうこう】急ぎて夜に流る。)李白『尋高鳳石門山中元丹邱』「寂寂聞猿愁、行行見云收。」(寂寂(せきせき)として猿の愁うるを聞き、行行雲の収まるを見る。)

○汨羅 今の湖南省長抄の付近の川の名で、その昔、戦国時代末期の楚の屈原は、政敵に謹言されて都を放逐され、洞庭湖畔を放浪した末、旧羅江に身を投げて自殺した。彼の痛憤は「離騒」「九章」などの韻文にうたわれ、それらは『楚辞』に収められている。
李白『江上吟』
木蘭之枻沙棠舟,玉簫金管坐兩頭。
美酒尊中置千斛,載妓隨波任去留。
仙人有待乘黄鶴,海客無心隨白鴎。
屈平詞賦懸日月,楚王臺榭空山丘。
興酣落筆搖五嶽,詩成笑傲凌滄洲。
功名富貴若長在,漢水亦應西北流。
木蘭(もくらん)の枻(かい) 沙棠(さとう)の舟,
玉簫(ぎょくしょう) 金管(きんかん)  兩頭(りょうとう)に 坐(ざ)す。
美酒 尊中(そんちゅう)千斛(せんこく)を置き,妓を載せて波に 隨ひて去留(きょりゅう)に 任(まか)す。
仙人 待つ有りて 黄鶴(こうかく)に 乘り,海客(かいきゃく)心 無くして 白鴎(はくおう) 隨(したが)ふ。
屈平(くっぺい)の詞賦(しふ)は 日月(じつげつ)を 懸(か)くるも,楚王(そおう)の臺榭(だいしゃ)は 山丘(さんきゅう)に 空し。
興(きょう)酣(たけなは)にして 筆(ふで)を 落とせば  五嶽を 搖(うご)かし,詩 成りて 笑傲(しょうごう)すれば  滄洲(そうしゅう)を 凌(しの)ぐ。
功名(こうみょう)富貴(ふうき) 若(も)し 長(とこしな)へに在(あ)らば,漢水(かんすい)も亦(ま)た 應(まさ)に 西北に 流るべし。
李白『秋浦歌十七首 其六』 
愁作秋浦客。 強看秋浦花。 
山川如剡縣。 風日似長沙
愁えて秋浦の客と作()り、強()いて秋浦の花を看()る。
山川(さんせん)は  剡県(せんけん)の如く、風日(ふうじつ)は  長沙(ちょうさ)に似るに。

李白『贈王判官時余歸隱居廬山屏風疊』(王判官に贈る 時に余帰隠し廬山屏風畳に居る)
贈王判官時余歸隱居廬山屏風疊 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350-229

李白、杜甫、李商隠、韓愈、多くの詩人が洞庭湖について、屈原に関してたくさん詩を作っている。

 

蘋藻滿盤無處奠,空聞漁父扣舷歌。

その魂をまつるために、蘋蘩を盤いっぱいに盛ったが、さてどこに向ってすすめたら良いかわからず、屈原がであった漁父がその人かと思われる様な漁父が相変わらず、船端を叩きながらうたう舟歌がむなしく聞こえてくる。
蘋藻 かたばみ藻と水藻。水草。この水藻を敬ってお供えをするということに基づいている。『左傳、㐮公二十八』「済澤之阿、行两潦之蘋藻、寘諸宗室、季蘭尸之、敬也。敬可棄乎。」(済澤之阿、行潦の蘋藻も、諸を宗室に寘【お】き、季蘭これを尸【つかさど】るは、敬なり。敬として棄つく可けん乎。)とある。屈原の祭壇が分からないのである。

漁父 隠遁者のこと。『楚辞』のなかにはまた「漁父」という一篇があり、現在では後世の人の作とされるが、韓愈の時代には屈原が作ったものと信じられていた。「漁父」とは「漁師のおやじ」という意味で、ここの漁父は隠者であり、屈原が、「挙世みな酔う」なかで自分一人正気でいるこんな目にあっているのだというと、それなら、自分もその酒の余りを飲み、世の中の人たちといっしょに酔ったらよいではないかという。しかし、屈原と漁父とでは、しょせん生き方が違う。それを知った漁父は、ふなはたを叩いて歌をうたいながら舟を濯ぎ去る。


この詩は愈が配流の旅の途中、洞羅にさしかかって作ったものである。同じく都から追放された者として、彼はわが身を屈原になぞらえているのである。ただし汨羅江のほとりに漁師の歌・舟歌はいくらも聞けたであろうが、現代の漁父は、一人も韓愈のそばへ舟を濯ぎ寄せ、声をかけようとはしてくれなかった。左遷、流刑の旅である。気軽に声をかけてくれる者はいない。その寂しさを屈原の孤独と重ねているのである。

孟郊『答盧仝』(「楚屈入水死,詩孟踏雪僵。」(楚の屈は 水に入りて死し、詩の孟は雪を踏んで僵【たおれ】る。)
楚の屈原は世をはかなみ湘水に入水して死んだ。詩人である孟郊は、作詩に雪道を歩いて倒れて死んでしまうほどの努力をしている。
○楚屈 戦国時代の楚の政治家、詩人。氏は屈。諱は平または正則。字が原。春秋戦国時代を代表する詩人であり、政治家としては秦の張儀の謀略を見抜き踊らされようとする懐王を必死で諫めたが受け入れられず、楚の将来に絶望して入水自殺した
中唐詩 Ⅶ孟郊(孟東野) 答盧仝#1 <24> kanbun-iinkai紀頌之の漢詩ブログ248


李商隠『楚宮』 「湘波如涙色漻漻、楚厲迷魂逐恨遙。」(湘波 涙如 色漻漻【りょうりょう】たり、楚厲【それい】の迷魂 恨みを逐いて遙かなり。)
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李商隠 『潭州』「潭州官舎暮樓空、今古無端人望中。湘涙浅深滋竹色、楚歌重畳怨蘭叢。」(潭州の官舎 暮楼空し、今古 端なくも人望中る。湘涙 浅深 竹色を涼し、楚歌 重畳 蘭叢を怨む。)
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