韓愈 永貞行 #4
嗣皇卓犖信英主,文如太宗武高祖。膺圖受禪登明堂,共流幽州鯀死羽。
四門肅穆賢俊登,數君匪親豈其朋。
果然、順宗は位を遜られて、皇太子が即位されたので、それが即ち憲宗であり、その憲宗は、卓落として、天晴の英主におわし、文は唐王朝の基礎を固め、名君たる太宗の如く、武は隋末の乱を平げられた高祖の如く、やがて、圖籙にあたり、禅を受けて、帝位に上られたのである。
よって、明堂を開いて、諸侯を朝し、天の符命をうけ、同時に、舜が勇についで立つべく、共工を幽州に流し、鯀を羽山に殛した史実と同じように命を下し、小人どもの罪を糺し、王叔文の一党をことごとく斥けられた。
到るところの役所は、俄に粛穆となり、その職にかなうところの賢俊の士が、次第に登庸され、局面の全く一変したのは、国家のために慶すべきことである。ここに、劉禹錫・柳宗元等、数君の如きは、王叔文等と格別の縁故もなく、まさか其朋党ではあるまいと思われていたが、いづれも、員外郎という清要の職に居り、世間からも評判されて居たところのものである。
韓愈100 -#4《 巻三20 永貞行》 #4 韓愈(韓退之)
805年貞元21年 38歳<1584> Ⅱ#4 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6904
韓愈詩-韓愈100 -#4
年:805年貞元21年 38歳
卷別: 卷三三八 文體: 雜言古詩
詩題: 永貞行
【貞元二十一年,德宗崩,順宗立,改元永貞。韋執誼,王叔文等用事,又謀奪中官兵,制天下之命,是年八月,皇太子即位,帝自稱太上皇,上貶執誼,叔文等,愈故作〈永貞行〉云。】
作地點: 目前尚無資料
及地點:幽州 (河北道南部 幽州 幽州)
羽山 (河南道 沂州 羽山)
永貞行
(永貞の世の歌〔805年の出来事の裏話〕)
君不見太皇諒陰未出令,小人乘時偷國柄。
順宗皇帝は、折角、御即位に成ったけれども、まだ先帝徳宗の喪に居られる諒闇中でもあり、色色と御遠慮があるところから、まだ政令を発せられなかった。然るに、小人どもは、奇貨居るべしと爲し、公然、国家の権柄を倫み、天子の詔を矯めて、非常に暴逆なる振舞をした。
北軍百萬虎與貔,天子自將非他師。
中でも、一番怪しからぬのは、北軍は御親兵で、貔虎の精鋭百万を算すべく、天子が御自身に大元帥と御成りなされ、決して、他の者にその兵権を委ねられることのできない制度であるにも拘わらず、王叔文・韋執誼の輩は、第一に兵権を自分達の手に収めなければ、おもう存分の事ができぬというので、北軍の大将たるべき印を奪い、詔を矯めて、集中の者に附與した。
一朝奪印付私黨,懍懍朝士何能為。
そこで、在廷の朝士は、懍懍として、皆心に恐れ、見す見す悪い事とは知れながら、その命に屈従するようになり、何人も、これに封して反抗することができなかった。
(永貞行)
君見ずや太皇諒陰 未だ令を出さず,小人 時に乘じて國柄を偷む。
北軍百萬 虎と貔と,天子自ら將として他の師に非ず。
一朝 印を奪うて私黨に付す,懍懍たる朝士 何ぞ能く為ん。
#2
狐鳴梟噪爭署置,睗睒跳踉相嫵媚。
彼等の党派は、もう大丈夫だというので、狐の如く鳴き、梟の如く噪ぎ、人選で任官させるという段取りはじめたことにより、その党中の者どもは、互に猟官運動を爲し、目を閃めかし、體を躍らし、頻りに嫵媚を呈し、どうか上官の気に入って、善い役に有り付こうというので、大騒ぎをやらかしたのである。
夜作詔書朝拜官,超資越序曾無難。
その揚句には、王叔文や韋執誼などは、夜中に、勝手に詔書を作って、翌朝、それぞれ任命したが、その官の授け方は、如何にも乱暴極まるもので、資格にもかまわず、順序をば飛び越して、少しも憚ることなくやったのである。
公然白日受賄賂,火齊磊落堆金盤。
おまけに、賄賂を白昼公然として受け、「火齊」という珍らしい鉱物を、磊落として金盤に堆く盛ら上げて、持ち込んでくるものがあり、妻はその上に寝臥したという。
狐 鳴き 梟 噪いで 爭うて 署置す,睗睒 跳踉して相い嫵媚す。
夜 詔書を作って朝に官を拜す,資を超えて 序を越えて曾て難無し。
公然 白日 賄賂を受け,火齊 磊落 金盤に堆す。
#3
元臣故老不敢語,晝臥涕泣何汍瀾。
そこで、元老とか元勲とか云はれる人人は、権勢の遠く相及ぼさないところから、彼等のなすがままにして、あえて語らず、鄭珣瑜の如きは、もう世が末になった、唐の社稷も滅亡が近いといって啼泣し、涙に咽びつつ、その家に帰り、昼寝をして、再び出ないといふ始末、しかも、決然起って之を争うものは無かった。
董賢三公誰復惜,侯景九錫行可歎。
王叔文の一党の羽ぶりの善いことは、かの董賢が三公になり、侯景が九錫を賜わったと同じく、誰も彼奴に此大官は勿体ないといって、非難するものもないが、行く行くは、慨歎すべき有様であった。
國家功高德且厚,天位未許庸夫干。
そうはいっても、従来、唐室は固家の治に貢献した功績が高く、前代の徳澤は厚くして、遍く民心にしみわたっているから、たとえ 衰えたとはいえ、詰らぬものが天位を覬覦することは出来ない筈である。
元臣 故老 敢えて語らず,晝臥して 涕泣 何ぞ汍瀾たり。
董賢の三公 誰か復た惜まん,侯景の九錫 行く歎ず可し。
國家 功高くして 德且た厚し,天位 未だ許さず 庸夫の干すを。
#4
嗣皇卓犖信英主,文如太宗武高祖。
果然、順宗は位を遜られて、皇太子が即位されたので、それが即ち憲宗であり、その憲宗は、卓落として、天晴の英主におわし、文は唐王朝の基礎を固め、名君たる太宗の如く、武は隋末の乱を平げられた高祖の如く、やがて、圖籙にあたり、禅を受けて、帝位に上られたのである。
膺圖受禪登明堂,共流幽州鯀死羽。
よって、明堂を開いて、諸侯を朝し、天の符命をうけ、同時に、舜が勇についで立つべく、共工を幽州に流し、鯀を羽山に殛した史実と同じように命を下し、小人どもの罪を糺し、王叔文の一党をことごとく斥けられた。
四門肅穆賢俊登,數君匪親豈其朋。
到るところの役所は、俄に粛穆となり、その職にかなうところの賢俊の士が、次第に登庸され、局面の全く一変したのは、国家のために慶すべきことである。ここに、劉禹錫・柳宗元等、数君の如きは、王叔文等と格別の縁故もなく、まさか其朋党ではあるまいと思われていたが、いづれも、員外郎という清要の職に居り、世間からも評判されて居たところのものである。
嗣皇 卓犖【たくらく】信【まこと】に英主,文は太宗の如く 武は高祖。
圖に膺【あた】り 禪を受けて明堂に登る,共は幽州に流され 鯀【こん】は羽に死す。
四門 肅穆として 賢俊登り,數君 親に匪ず 豈に其れ朋ならん。
#5
郎官清要為世稱,荒郡迫野嗟可矜。
湖波連天日相騰,蠻俗生梗瘴癘烝。
江氛嶺祲昏若凝,一蛇兩頭見未曾。
怪鳥鳴喚令人憎,蠱蟲群飛夜撲燈。
#6
雄虺毒螫墮股肱,食中置藥肝心崩。
左右使令詐難憑,慎勿浪信常兢兢。
吾嘗同僚情可勝,具書目見非妄徵,嗟爾既往宜為懲。
『永貞行』 現代語訳と訳註解説
(本文)
#4
嗣皇卓犖信英主,文如太宗武高祖。
膺圖受禪登明堂,共流幽州鯀死羽。
四門肅穆賢俊登,數君匪親豈其朋。
(下し文)
#4
嗣皇 卓犖【たくらく】信【まこと】に英主,文は太宗の如く 武は高祖。
圖に膺【あた】り 禪を受けて明堂に登る,共は幽州に流され 鯀【こん】は羽に死す。
四門 肅穆として 賢俊登り,數君 親に匪ず 豈に其れ朋ならん。
(現代語訳)
#4
果然、順宗は位を遜られて、皇太子が即位されたので、それが即ち憲宗であり、その憲宗は、卓落として、天晴の英主におわし、文は唐王朝の基礎を固め、名君たる太宗の如く、武は隋末の乱を平げられた高祖の如く、やがて、圖籙にあたり、禅を受けて、帝位に上られたのである。
よって、明堂を開いて、諸侯を朝し、天の符命をうけ、同時に、舜が勇についで立つべく、共工を幽州に流し、鯀を羽山に殛した史実と同じように命を下し、小人どもの罪を糺し、王叔文の一党をことごとく斥けられた。
到るところの役所は、俄に粛穆となり、その職にかなうところの賢俊の士が、次第に登庸され、局面の全く一変したのは、国家のために慶すべきことである。ここに、劉禹錫・柳宗元等、数君の如きは、王叔文等と格別の縁故もなく、まさか其朋党ではあるまいと思われていたが、いづれも、員外郎という清要の職に居り、世間からも評判されて居たところのものである。
(訳注) #4
永貞行 #4
(永貞の世の歌〔805年の出来事の裏話〕)
永貞行 順宗在位八個月の間における表面の史実は、単に此だけである。韓愈の此詩は、即ち裏面の事実を叙したので、王伾・王叔文が宰相韋執誼と結託して、非常に悪い事を行った有様を写したところは、まことに面白いのみならず、亦た実に正史の缼を補うことができる。但し、劉禹錫・柳宗元等は、その党與であった為に、いづれも、遠地に貶謫されて仕舞った。この二人は、韓愈が曩に陽山令に左遷される時、どうやら中傷を試みたらしいという疑も無いではないが、韓愈は、従前の友誼の上から、そんな事は全然忘れて仕舞い、この詩の後年に於いては、専ら二人の不運を傷んで、同情を寄せて居る。
《順宗》805年に徳宗の崩御により即位した。王叔文を翰林学士に任じ、韓秦、韓曄、柳宗元、劉禹錫、陳諌、凌准、程異、韋執宜ら(二王八司馬)を登用、徳宗以来続いていた官吏腐敗を一新し、地方への財源建て直し、宦官からの兵権を取り返そうとするなどの永貞革新の政策を行なっている。
だが、即位して間もなく脳溢血に倒れ、言語障害の後遺症を残した。さらに8月には宦官の具文珍らが結託して皇帝に退位を迫り、即位後僅か7ヶ月で長男の李純に譲位し、自らは太上皇となった。
翌年、病気により47歳で崩御したが、宦官によって殺害されたとも伝えられている。
その在位中の記録として、韓愈の手になる『順宗実録』(『韓昌黎集』外集に所収)が現存する。
《憲宗》805年4月に立太子され、同年8月には順宗の病を理由にした譲位にともない即位した。即位後は宦官の勢力に対抗するために杜黄裳を登用した。
嗣皇卓犖信英主,文如太宗武高祖。
果然、順宗は位を遜られて、皇太子が即位されたので、それが即ち憲宗であり、その憲宗は、卓落として、天晴の英主におわし、文は唐王朝の基礎を固め、名君たる太宗の如く、武は隋末の乱を平げられた高祖の如く、やがて、圖籙にあたり、禅を受けて、帝位に上られたのである。
【1】
嗣皇 天子のよつぎ。皇位継承の第一順位にある者。皇太子。憲宗を謂う。
【2】
英主 すぐれた君主。英明な君主。順宗からついた憲宗を言う。
【3】
文如太宗 貞観の治と言う、唐王朝の基礎を固める善政を行い、中国史上最高の名君の一人と称えられる。
【4】
武高祖 李 淵、唐の初代皇帝のこと。隋末の混乱の中で長安を落として根拠地とし、恭帝侑を隋の正統として立てたうえで、その禅譲により唐を建国した。
膺圖受禪登明堂,共流幽州鯀死羽。
よって、明堂を開いて、諸侯を朝し、天の符命をうけ、同時に、舜が勇についで立つべく、共工を幽州に流し、鯀を羽山に殛した史実と同じように命を下し、小人どもの罪を糺し、王叔文の一党をことごとく斥けられた。
【5】
図籙にあたる。・図籙(トロク)=天の符命、秉籙(ヘイロク)=籙を秉る=天子の位につくこと承受瑞應之圖。
指帝王得國或嗣位。
晉
潘岳
《為賈謐作贈陸機詩》「
子嬰
面櫬,
漢祖
膺圖。」
【6】
登明堂 朝廷に参礼して諸侯が会すること。
【7】
共流幽州鯀死羽 舜の願いにより、驩兜、共工、鯀、三苗を四方に流した。共工を幽陵に流して北狄と同化させた。舜が鯀のした治水の様子を視察していたところ、鯀は羽山(うざん)で死んでいた。鮌與鯀同,禹父名。《楚辭》:“鯀婞直以忘身。”《書經》:“流共工於幽州,殛鯀於羽山。”以喻伾、叔文也。書經の堯典に「共工か幽州に流し、鯀を羽山に殛す」とあって、共・鯀は王伾王叔文の二人を指す。前に見えた江陵途中寄三學士に「赫然下明詔,首罪誅共兜。」(赫然【かくぜん】として明詔を下し、首罪 共兜【きょうとう】を誅すと。)赫然として明詔を下され、悪人の首魁として共工・駻兜に比すべき前朝の幸臣、王伾・王叔文、韋執誼の輩は、これを誅戮せられた。とあるのと同じ。
四門肅穆賢俊登,數君匪親豈其朋。
到るところの役所は、俄に粛穆となり、その職にかなうところの賢俊の士が、次第に登庸され、局面の全く一変したのは、国家のために慶すべきことである。ここに、劉禹錫・柳宗元等、数君の如きは、王叔文等と格別の縁故もなく、まさか其朋党ではあるまいと思われていたが、いづれも、員外郎という清要の職に居り、世間からも評判されて居たところのものである。
【8】
四門粛穆 《書經》:“賓於四門,四門穆穆。”「四門に賓し、四門穆穆」とある。四門:朝廷の東西南北の門。律令制下の官制は三省六部を頂点とするを朝廷とし、これらを総称する語として四門という。中書省が詔勅(皇帝の命令)の起草、門下省がその審議を行ない、尚書省が配下の六部(礼部・吏部・戸部・兵部・刑部・工部)を通して詔勅を実行する。 粛穆:厳かなこと。
【9】
賢俊 杜黃裳、鄭余慶等を用ひて宰相となぜしことかいふ。謂用杜黃裳、鄭余慶為宰相。
【10】 數君 柳宗元、劉禹錫之屬。