韓愈  劉生詩 #1

生名師命其姓劉,自少軒輊非常儔。棄家如遺來遠遊,東走梁宋揚州。

遂凌大江極東陬,洪濤舂天禹穴幽。

(韓愈の門人に成ったから、今後は、道を重んじて修學せよといって、しっかりと之を指導して遣ったというもの)#1

劉生君は名を師命といい、姓を劉というものである、幼少の時より、兎角、世間の人とは一風かわった事をする男であり、もとより並大抵のものではない天邪鬼であった。おのが家、家系などは打ち捨て、顧みず、さながら忘れたるが如く、遠く天下の名山大川に遊び、東は梁宋地方より、和以南、揚州に及んで走り回った。それから、長江下流域の別称、揚子江を渡って、東の陬、即ち、いにしえの越地までも極めた。越の地は、海に接しているから、洪涛天を舂いて起り、そして、會稽には禹を葬った穴があるが、その幽奥なるところまで、一一探検して仕舞った。

韓愈102-#1《 巻四01 劉生詩》 #1 韓愈(韓退之)  805年貞元21 38歳<1589> Ⅱ#1 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6929

 

 
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 韓愈詩-韓愈102-#1

年:805年貞元21 38

卷別:    卷三三九              文體:    七言古詩

詩題:    劉生詩

作地點:              陽山(江南西道 / 連州 / 陽山)

及地點:              梁州 (山南西道 梁州 梁州) 別名:漢中         

宋州 (河南道 宋州 宋州) 別名:宋               

揚州 (淮南道 揚州 揚州) 別名:廣陵、淮南、淮海    

禹穴 (江南東道 越州 會稽)             

陽山 (江南西道 連州 陽山)             

交遊人物/地點:劉師命      當地交遊 (江南西道 連州 陽山)

 

 

劉生詩 #1

(韓愈の門人に成ったから、今後は、道を重んじて修學せよといって、しっかりと之を指導して遣ったというもの)#1

生名師命其姓劉,自少軒輊非常儔。

劉生君は名を師命といい、姓を劉というものである、幼少の時より、兎角、世間の人とは一風かわった事をする男であり、もとより並大抵のものではない天邪鬼であった。

棄家如遺來遠遊,東走梁宋揚州。

おのが家、家系などは打ち捨て、顧みず、さながら忘れたるが如く、遠く天下の名山大川に遊び、東は梁宋地方より、和以南、揚州に及んで走り回った。

遂凌大江極東陬,洪濤舂天禹穴幽。

それから、長江下流域の別称、揚子江を渡って、東の陬、即ち、いにしえの越地までも極めた。越の地は、海に接しているから、洪涛天を舂いて起り、そして、會稽には禹を葬った穴があるが、その幽奥なるところまで、一一探検して仕舞った。

#2

越女一笑三年留,南逾橫嶺入炎州。

青鯨高磨波山浮,怪魅炫曜堆蛟虯。

讙譟猩猩遊,毒氣爍體黃膏流。

#3

問胡不歸良有由,美酒傾水炙肥牛。

妖歌慢舞爛不收,倒心迴腸為青眸。

千金邀顧不可酬,乃獨遇之盡綢繆。

#4

瞥然一餉成十秋,昔鬚未生今白頭。

五管歷遍無賢侯,迴望萬里還家羞。

陽山窮邑惟猿猴,手持釣竿遠相投。

#5

我為羅列陳前修,芟蒿斬蓬利鋤耰。

天星迴環數纔周,文學穰穰囷倉稠。

車輕御良馬力優,咄哉識路行勿休,往取將相酬恩讎。

 

(劉生の詩) #1

生は 名を師命 其の姓を劉という,少より軒輊【けんち】常儔に非ず。

家を棄ること遺れたるが如く 來って遠遊し,東は梁宋に走り 揚州に【およ】ぶ

遂び大江を凌ぎ 東陬を極む,洪濤 天を舂いて 禹穴幽なり。

 

『劉生詩』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

劉生詩 #1

生名師命其姓劉,自少軒輊非常儔。

棄家如遺來遠遊,東走梁宋揚州。

遂凌大江極東陬,洪濤舂天禹穴幽。

(下し文)
(劉生の詩) #1

生は 名を師命 其の姓を劉という,少より軒輊【けんち】常儔に非ず。

家を棄ること遺れたるが如く 來って遠遊し,東は梁宋に走り 揚州に【およ】ぶ

遂び大江を凌ぎ 東陬を極む,洪濤 天を舂いて 禹穴幽なり。

(現代語訳)
(韓愈の門人に成ったから、今後は、道を重んじて修學せよといって、しっかりと之を指導して遣ったというもの)#1

劉生君は名を師命といい、姓を劉というものである、幼少の時より、兎角、世間の人とは一風かわった事をする男であり、もとより並大抵のものではない天邪鬼であった。

おのが家、家系などは打ち捨て、顧みず、さながら忘れたるが如く、遠く天下の名山大川に遊び、東は梁宋地方より、和以南、揚州に及んで走り回った。

それから、長江下流域の別称、揚子江を渡って、東の陬、即ち、いにしえの越地までも極めた。越の地は、海に接しているから、洪涛天を舂いて起り、そして、會稽には禹を葬った穴があるが、その幽奥なるところまで、一一探検して仕舞った。


(訳注)

劉生詩 #1

(韓愈の門人に成ったから、今後は、道を重んじて修學せよといって、しっかりと之を指導して遣ったというもの)

韓愈が劉生と遭遇したのは、陽山である。劉生の遇ふところ、皆不羇なることを。故に終篇に、「咄哉識路行勿休,往取將相酬恩讎。」といふ。又集中、劉生の為にせる《巻五03梨花 二首》詩あり、此の詩より前に作られたものともいわれるものである。すると、劉生は、才を負うと共に、志を得ざるより、放蕩に身を持ち崩して居たものらしい。それが陽山縣で、韓退之の門人に成ったから、韓退之は、今後、道を重んじて修學せよといって、しっかりと之を指導して遣ったのが、即ち此詩である。

 

生名師命其姓劉,自少軒輊非常儔。

劉生君は名を師命といい、姓を劉というものである、幼少の時より、兎角、世間の人とは一風かわった事をする男であり、もとより並大抵のものではない天邪鬼であった。

【1】    軒輊  《詩經.小雅.六月》:「戎車既安,如輊如軒。」(西方の馬車は今や味方時に重々しく、時に軽やかに進む)軒は、車の尻尾の方の上がっていること、輊は、車の前の方り上っていること。そこで、軒輊は、抑揚とか、低昂とか、叉甲乙とか、上下とかという意味に用いるのが、普通であるが、ここでは、やや異にして、人が下になるときには自分が上、人が上になるときには自分が下といふ様に、故らに人とちがった振舞をすること.世間の人とは一風かわった事をする男であり、もとより並大抵のものではない天邪鬼であった

 

棄家如遺來遠遊,東走梁宋揚州。

おのが家、家系などは打ち捨て、顧みず、さながら忘れたるが如く、遠く天下の名山大川に遊び、東は梁宋地方より、和以南、揚州に及んで走り回った。

【2】    梁宋 唐書地理志に「宋州睢陽郡は、河南道に属す、本と梁郡、天寶元年、名を更ふ」とあり.杜甫詩《1515 遺懷》の冒頭「昔我遊宋中,惟梁孝王都。」(昔 我 宋中に遊び,惟れ 梁の孝王の都なり。)とある。

杜甫 《1515 遺懷-#1》【5分割】 杜甫詩index-15-766年大暦元年55-51 <915-#1 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6020

宋中 宋は宋州をいい、中は城郭の中をいう。宋州は(河南道、宋州で別名、宋という。

梁孝王都  梁の孝王、名は武、漢の文帝と竇皇后との間に生れる、長子は景帝、次は孝王なり、文帝の十二年に梁に徙封せらる。睢陽に都す、即ち商丘縣の地なり。景帝の五年、孝王睢城を廣むること七十里、大に宮室を治む。東苑を築く、方三百余里。

漢代梁孝王所營建的園囿。在河南省開封縣東南。唐.杜甫〈寄李十二白二十韻〉:「醉舞梁園夜,行歌泗水春。」寄李十二白 二十韻 杜甫 <232-#2> kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ1133 杜甫特集700- 342

唐.李白〈梁園吟〉:「平臺為客憂思多,對酒遂作梁園歌。」梁苑。前漢の文帝の子、景帝の弟、梁孝王劉武が築いた庭園。現在の河南省開封府商丘市東南5kmに在った。宋の都となった。『史記』巻五十八「梁孝王世家」の「史記正義」「吟」は、詩歌の一体。この詩は、第一次在京期の後、長安を離れて梁園に遊んだおり、三十一歳の作と考えられる。梁の孝王が築いた園の名。現・河南省東部、商丘の東にある。竹が多く、修竹園とも呼ばれた。宮室の庭園。『史記・世家・梁孝王』に「孝王,竇太后少子也,愛之,賞賜不可勝道。於是孝王築東苑,方三百餘里。廣陽城七十里。」とある。王昌齡の『梁苑』「梁園秋竹古時煙,城外風悲欲暮天。萬乘旌旗何處在,平臺賓客有誰憐。

169 -1(改訂版《巻06-12 梁園吟 -1Index-11 Ⅱ―6 -731年開元十九年31 43首 <169 -1> Ⅰ李白詩1378 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5438

【3】    揚州 楊州は別名:廣陵、淮南、淮海といい、北に徐州、豫州と接し、西は荊州、南は交州に接していた。楊州は三国時代、呉の孫策・孫権によって支配された土地である。楊州は南部が山岳地帯であるために、人も物資も北部に集中した。このため、三国時代の呉では戦争が相次いで人口不足に陥り、兵力が減少して国が滅亡する一因を成した。しかし楊州は中国南部の要衝地帯であり、晋滅亡後に建国された東晋は、楊州を本拠地としている。隋の煬帝が開削させた大運河により物資の集積地となり、一躍繁栄することとなる。また、煬帝が再三行幸を行い、遊蕩に耽ったため、亡国に至った都市としても知られている。

 

遂凌大江極東陬,洪濤舂天禹穴幽。

それから、長江下流域の別称、揚子江を渡って、東の陬、即ち、いにしえの越地までも極めた。越の地は、海に接しているから、洪涛天を舂いて起り、そして、會稽には禹を葬った穴があるが、その幽奥なるところまで、一一探検して仕舞った。

【4】    東陬 東のかた隅に同じ、即ち越。

【5】    禹穴 禹が皇帝になった後、“巡守大越(見守り続けた大越)”ここで病死してしまったため、会稽山の麓に埋葬した。禹陵は古くは、禹穴と呼ばれ、大禹の埋葬地となった。大禹陵は会稽山とは背中合わせにあり、前には、禹池がある。

杜甫《秦州雜詩二十首 其二十》「唐堯真自聖,野老複何知。曬藥能無婦?應門亦有兒。藏書聞禹穴,讀記憶仇池。為報鴛行舊,鷦鷯寄一枝。」

秦州雜詩二十首 其二十 と<解説とまとめ>杜甫 第5部 <273> kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1268 杜甫詩 700- 387