807年元和二年40- 巻一-01元和聖德詩 -説文(1-3

 

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807年元和二年40- 巻一-01元和聖德詩 -説文(1-3 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集9658

北宋の穆伯長はこう云っている、「韓退之の《元和聖德詩》、《平淮西碑》,柳宗元の《雅章、雅詩歌曲》之類など、すべてその辞はおごそかで厳格、条理正義、偉才であり、詩經、書經のごとく制作され、盛漢の時に作られた上奏文の「表」と比較しても、唐の善き特質があらわされ、能くとびぬけた山のように、卓越した詩文である。」と。

《筆墨閑錄》 ではこういっている、「この序文は即ち司馬遷の文であるといってもよいもので、司馬相如の文ではありえないというものである。」と

 

 

 

 

 

韓昌黎集巻一《元和聖徳詩 幷序及び関連

 

 

 

 

 

説文(1-1

此詩元和二年作。《憲宗紀》:永貞元年八月即位,明年正月改元元和。楊惠琳據夏州叛。三月辛巳,夏州兵馬使周承全斬惠琳,傳首以獻。九月辛亥,高崇文奏收成都,擒劉辟以獻。

1-2

十月壬午,淄青李師道,十一月戊申,武寧張皆受命。二年正月己丑朔,上親獻太清宮太廟。辛卯,祀昊天上帝於郊丘。還宮,大赦天下。公時為國子博士,分教東都,此詩所以作也。

1-3

穆伯長曰:“退之《元和聖德詩》、《淮西碑》,柳《雅章》之類,皆辭嚴義偉,制作如經,能然聳唐德於盛漢之表。”《筆墨閑錄》云:“此序乃司馬遷之文,非相如文也。”

 

説文 (2
元和聖德詩(並序。初憲宗即位,劍南劉闢自稱留後以叛。元和元年正月,以高崇文為左神策行營節度使討闢。九月,克成都,十月,闢伏誅。二年正月己丑,朝獻於大清宮。庚寅,朝享於太廟。辛卯,祀昊天上帝於郊丘,還宮,大赦天下。) 韓愈


元和聖德詩並序。(序-1
臣愈頓首再拜言。臣伏見皇帝陛下即位已來,誅流姦臣,朝廷清明、無有欺蔽。

外斬楊惠琳・劉闢,以收夏蜀,東定青徐積年之叛,海怖駭,不敢違越,郊天告廟,神靈歡喜,風雨晦明,無不從順。

(序-2

太平之期,適當今日。臣蒙被恩澤,日與群臣序立紫宸殿陛下,親望穆穆之光。

而其職業,又在以經籍教導國子。誠宜率先作歌詩以稱道盛德,不可以辭語淺薄不足以自效為解。

(序-3

輒依古作四言元和聖德詩一篇。

凡千有二十四字,指事實錄,具載明天子文武神聖,以警動百姓耳目,傳示無極,其詩曰。



元和聖德詩  (七大段)一段20句 #1§1-1
皇帝即阼,物無違拒。曰暘而暘,曰雨而雨。
維是元年,有盜在夏。欲覆其州,以踵近武。

#2   1-2
皇帝曰嘻,豈不在我。負鄙為艱,縱則不可。
出師征之,其眾十旅。
#3
   1-3
軍其城下,告以福禍。腹敗枝披,不敢保聚。

擲首陴外,降幡夜豎。

 

二段36句  #4  §2-1

疆外之險,莫過蜀土。韋皋去鎮,劉辟守後。
血人於牙,不肯吐口。開庫啖士,曰隨所取。
#5
    2-2
汝張汝弓,汝鼓汝鼓。汝為表書,求我帥汝。

事始上聞,在列鹹怒。皇帝曰然,嗟遠士女。
#6
    2-3

苟附而安,則且付與。讀命於庭,出節少府。

朝發京師,夕至其部。辟喜謂黨,汝振而伍。

#7    2-4
蜀可全有,此不當受。萬牛臠炙,萬甕行酒。

以錦纏股,以紅帕首。

#8    2-5

有恇其凶,有餌其誘。其出穰穰,隊以萬數。

遂劫東川,遂據城阻。

三段30句   #9  §3-1

皇帝曰嗟,其又可許。爰命崇文,分卒禁禦。
有安其驅,無暴我野。日行三十,徐壁其右。
#10
    3-2
辟黨聚謀,鹿頭是守。崇文奉詔,進退規矩。
戰不貪殺,擒不濫數。四方節度,整兵頓馬。
#11
    3-3

上章請討,俟命起坐。皇帝曰嘻,無汝煩苦。
荊並洎梁,在國門
。出師三千,各選爾醜。
#12
    3-4
四軍齊作,殷其如阜。或拔其角,或
其距。
長驅洋洋,無有齟齬。

 

四段34句  #13  §4-1

八月壬午,辟棄城走。載妻與妾,包裹稚乳。

是日崇文,入處其宇。分散逐捕,搜原剔藪。

#14    4-2

辟窮見窘,無地自處。俯視大江,不見洲渚。

遂自顛倒,若杵投臼。取之江中,枷脰械手。

#15    4-3

婦女累累,啼哭拜叩。來獻闕下,以告廟社。

周示城市,鹹使觀睹。

#16    4-4

攣索,夾以砧斧。婉婉弱子,赤立傴僂。

牽頭曳足,先斷腰膂。
#17
    4-5

次及其徒,體骸撐拄。末乃取辟,駭汗如寫。

揮刀紛紜,爭膾脯。


五段28句  #18  §5-1 

優賞將吏,扶珪綴組。帛堆其家,粟塞其庾。
哀憐陣沒,廩給孤寡。贈官封墓,周匝宏溥。
#19
    5-2
經戰伐地,寬免租簿。施令酬功,急疾如火。
天地中間,莫不順序。幽恒青魏,東盡海浦。

#20    5-3

南至徐蔡,區外雜虜。怛威赧德,踧踖蹈舞。

掉棄兵革,私習簋簠。

#21    5-4

來請來覲,十百其耦。皇帝曰籲,伯父叔舅。

各安爾位,訓厥甿畝。

 

六段56句  #22   §6-1
正月元日,初見宗祖。躬執百禮,登降拜俯。

薦于新宮,視瞻梁梠.。戚見容色,淚落入俎。
#23
     6-2

侍祠之臣,助我惻楚。乃以上辛,於郊用牡。
除于國南,鱗筍毛簴。廬幕周施,開揭磊砢,

#24    6-3

獸盾騰拏,圓壇帖妥。天兵四羅,旂常婀娜。

駕龍十二,魚魚雅雅。宵升於丘,奠璧獻斝。
#25
  §6-4

眾樂驚作,轟豗融冶。紫焰噓呵,高靈下墮。
群星從坐,錯落侈哆。日君月妃,煥赫婐梔。

#26   6-5

瀆鬼濛鴻,嶽祗峨。飫沃膻薌,祥降嘏。
鳳凰應奏,舒翼自拊。赤麟黃龍,逶陀結糾。
#27
   6-6

卿士庶人,黃童白叟。踴躍歡呀,失喜噎歐。
乾清坤夷,境落褰舉。帝車回來,日正當午。
#29
    §6-7

幸丹鳳門,大赦天下。滌濯剗,磨滅瑕垢。

續功臣嗣,拔賢任耇,孩養無告,仁滂施厚。

七段52句   #30  §7-1

皇帝神聖,通達今古。聽聰視明,一似堯禹。
生知法式,動得理所。天錫皇帝,為天下主。
#31
    7-2

並包畜養,無異細。億載萬年,敢有違者?

皇帝儉勤,盥濯陶瓦。斥遣浮華,好此綈紵。
#32
    7-3

敕戒四方,侈則有咎。天錫皇帝,多麥與黍。
無召水旱,耗於雀鼠。億載萬年,有富無窶。
#33
    7-4

皇帝正直,別白善否。擅命而狂,既翦既去。

盡逐群奸,靡有遺侶。天錫皇帝,厖臣碩輔。

#34    7-5

博問遐觀,以置左右。億載萬年,無敢餘侮。
皇帝大孝,慈祥悌友。怡怡愉愉,奉太皇后。

#35    7-7

浹於族親,濡及九有。天錫皇帝,與天齊壽。
登茲太平,無怠永久。

36    7-8

億載萬年,為父為母。博士臣愈,職是訓詁。

作為歌詩,以配吉甫。


807年元和二年40-0

元和聖德詩 説文-(1)-2

昌黎先生集 巻一-01

全唐文/0551

807年元和二年40 (55)

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ9651

 

説文(1-1

此詩元和二年作。

この詩は。807年元和二年の作品である。

《憲宗紀》:永貞元年八月即位,明年正月改元元和。

唐“憲宗紀”に、憲宗は、805年永貞元年八月即位し、年が明けて正月に元号を元和に改定した。

楊惠琳據夏州叛。

その年に、楊惠琳が夏州に據して反乱を起こした。(夏桵の留後の楊惠琳が命を拒んだ))

三月辛巳,夏州兵馬使周承全斬惠琳,傳首以獻。

806318日、華州の兵馬使の周承全に楊惠琳を斬らせた、この首をこれを預け伝えて獻上した。

九月辛亥,高崇文奏收成都,擒劉辟以獻。

9月立秋から48日目、東川節度使副使の高崇文は成都に攻め込み、これを尽く平定し、劉闢を擒にし、京師に送ってこれを斬り、献上した。

 

説文(1-1

此詩 元和二年の作なり。

《憲宗紀》に:永貞元年 八月即位,明年 正月 改元して元和とす。

楊惠琳 夏州に據して叛す。

三月辛巳,夏州 兵馬使 周承全は惠琳を斬り,傳首して以て獻ず。

九月辛亥,高崇文 奏じて成都を收め,劉辟を擒にし以て獻ず。

 

1-2

十月壬午,淄青李師道,十一月戊申,武寧張皆受命。二年正月己丑朔,上親獻太清宮太廟。辛卯,祀昊天上帝於郊丘。還宮,大赦天下。公時為國子博士,分教東都,此詩所以作也。

1-2

十月 壬午,李師道を淄青とし,

十一月 戊申,武寧の張 皆 命を受く。

二年 正月 己丑の朔,親獻 太清宮 太廟に上つる。

辛卯,昊天上帝 郊丘に於て祀る。

宮に還り,天下に大赦す。

公 時に 國子博士と為り,東都に分教す,此の詩 以て作る所なり。

1-3

穆伯長曰:“退之《元和聖德詩》、《淮西碑》,柳《雅章》之類,皆辭嚴義偉,制作如經,能崒然聳唐德於盛漢之表。”

北宋の穆伯長はこう云っている、「韓退之の《元和聖德詩》、《平淮西碑》,柳宗元の《雅章、雅詩歌曲》之類など、すべてその辞はおごそかで厳格、条理正義、偉才であり、詩經、書經のごとく制作され、盛漢の時に作られた上奏文の「表」と比較しても、唐の善き特質があらわされ、能くとびぬけた山のように、卓越した詩文である。」と。

《筆墨閑錄》云:“此序乃司馬遷之文,非相如文也。”

《筆墨閑錄》 ではこういっている、「この序文は即ち司馬遷の文であるといってもよいもので、司馬相如の文ではありえないというものである。」と

1-3

穆伯長 曰く:

“退之の《元和聖德詩》、《淮西碑》,柳の《雅章》之類,皆辭嚴に 義偉に,制作 經の如く,能く崒然として唐德を盛漢の表に聳えしむ。”

《筆墨閑錄》に云う:“此の序 乃ち司馬遷の文なり,相如の文に非らずや。”

 

 

《元和聖德詩並序》現代語訳と訳註解説

(本文) 
1-3

穆伯長曰:“退之《元和聖德詩》、《淮西碑》,柳《雅章》之類,皆辭嚴義偉,制作如經,能崒然聳唐德於盛漢之表。”

《筆墨閑錄》云:“此序乃司馬遷之文,非相如文也。”

 

(下し文)
1-3

穆伯長 曰く:

“退之の《元和聖德詩》、《淮西碑》,柳の《雅章》之類,皆辭嚴に 義偉に,制作 經の如く,能く崒然として唐德を盛漢の表に聳えしむ。”

《筆墨閑錄》に云う:“此の序 乃ち司馬遷の文なり,相如の文に非らずや。”

 

(現代語訳)

北宋の穆伯長はこう云っている、「韓退之の《元和聖德詩》、《平淮西碑》,柳宗元の《雅章、雅詩歌曲》之類など、すべてその辞はおごそかで厳格、条理正義、偉才であり、詩經、書經のごとく制作され、盛漢の時に作られた上奏文の「表」と比較しても、唐の善き特質があらわされ、能くとびぬけた山のように、卓越した詩文である。」と。

《筆墨閑錄》 ではこういっている、「この序文は即ち司馬遷の文であるといってもよいもので、司馬相如の文ではありえないというものである。」と

 

 

(訳注)

1-3

穆伯長曰:“退之《元和聖德詩》、《淮西碑》,柳《雅章》之類,皆辭嚴義偉,制作如經,能崒然聳唐德於盛漢之表。”

北宋の穆伯長はこう云っている、「韓退之の《元和聖德詩》、《平淮西碑》,柳宗元の《雅章、雅詩歌曲》之類など、すべてその辞はおごそかで厳格、条理正義、偉才であり、詩經、書經のごとく制作され、盛漢の時に作られた上奏文の「表」と比較しても、唐の善き特質があらわされ、能くとびぬけた山のように、卓越した詩文である。」と。

11. 穆伯長 穆修(979年-1032年),字伯長,北宋鄆州汶阳(今汶上)人。 生於太平興國四年(979年),出身於官宦世家,幼時好學,不事章句,性格剛烈,不易與人相處。曾師事陳摶,學得《太極圖》,傳周敦頤,又長於《春秋》之學。大中祥符二年(1009年)進士。

12. 淮西碑 「平淮西碑」(淮西を平ぐるの碑)のこと。碑は文を石にきざみ、宮室廟屋、墓陵の上に立てる立石で、その文章の体を碑という。詩は、その「平淮西碑」の書かれるに到った経緯を述べ、それが極諌したことになり、結果、崇仏皇帝であった憲宗の逆鱗に触れ、潮州(広東省)刺史に左遷され、いったん建てられた碑石が取り壊されたことを憤りつつ、韓愈の文学の卓越せることを賞讃している。814年元和九年に呉少陽が死ぬと、その部下は勝手に少陽の子元済を立てて、朝廷の任命を請うて来た。朝廷は許さなかったので遂に叛いた。憲宗は裴度の意見を用いて之を討つことに決した。裴度は淮西宣慰処置使、兼彰義軍節度使となったが、韓愈を行軍司馬に任じた。

淮水西方の土地、蔡の地を淮西という。この地方の賊が平定すると、韓愈は裴度に随って朝廷に帰り、功を以て刑部侍即を授けられ、「准西を平ぐる碑」を作れとの詔を受けた。これは韓愈一生の最も重大な作品で、苦心努力の結晶であった。彼の代表作の中でも有数のものである。主旨は惟西の平定によって、憲宗の天下支配が成ったことを頌するのである。

13. 柳《雅章》之類 柳河集,正文·卷一·雅歌曲のこと。柳宗元は、同時期の韓愈とともに古文復興運動の主唱者とされる。六朝から隋唐において主流であった四六駢儷文の修辞主義的傾向を批判し、達意を旨とする秦漢の古文を範とした新たな文体を提唱した。

14. 嚴義偉 おごそかで厳格、条理正義、偉才であること。

15. 制作如經 詩經、書經のごとく制作されることをいう。

16. 崒然 とびぬけた山のように、卓越した状態を言う。

17. 唐德 唐における徳は、人間の持つ気質や能力に、社会性や道徳性が発揮されたものである。 徳は卓越性、有能性で、それを所持する人がそのことによって特記されるものである。人間に備わって初めて、徳は善き特質となる。人間にとって徳とは均整のとれた精神の在り方を指すものである。

18. 盛漢之表 漢のもっとも盛んな時に、「表」が作られ、それは公開される上奏文を指すものであった。

 

《筆墨閑錄》云:“此序乃司馬遷之文,非相如文也。” 
《筆墨閑錄》 ではこういっている、「この序文は即ち司馬遷の文であるといってもよいもので、司馬相如の文ではありえないというものである。」と

19. 司馬遷 (前145?~?) 中国、前漢の歴史家。字あざなは子長。官名により太史公と称する。父司馬談の歴史編纂へんさんの大志を受け継ぐ。匈奴きようどに降伏した李陵りりようを弁護して武帝の怒りに触れ、宮刑に処せられたが、修史の志を貫き、紀伝体の歴史書「史記」を完成。

20. 相如 司馬 相如(しば しょうじょ、紀元前179 - 紀元前117年)は、中国の前漢の頃の文章家である。蜀郡成都の人。字は長卿(ちょうけい)。名は、もと犬子(けんし)と言った。

賦の名人として知られ、武帝に仕え、その才能を高く評価された。また妻である卓文君との恋愛も有名である。武帝は早速司馬相如を召した。そのとき、司馬相如は、「子虚の賦」が諸侯のことを書いた内容であり、天子(皇帝)にたてまつるのにはふさわしくないと言った。そして、司馬相如は天子にふさわしくなるように「子虚の賦」を改作して、「天子游獵賦(『文選』では「子虚賦」と「上林賦」に分割。「子虚・上林賦」と称されることが多い。)」として、武帝にたてまつった。武帝は大いに喜び、司馬相如を郞に復職させた。