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807-08元和二年40歳昌黎文巻八02《毛頴傳§4-1》〔#9〕Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之Blog10198
韓愈詩-32-(8)§4-1

穎は次第に進んで中書令に拝し任ぜられて、天子と益々おそれ親しんだ。

天子は常に穎を中書君と呼んだ。

天子は自分自身で政事を決し、衡を以て自分で書煩の分量を定めてそれを一日の仕事の目途として、宮女でもその左右に立つことはできなかった。

ただ毛穎と燭火を持つ者とだけは、常に天子のそばに侍っていた。天子が休息して、はじめて仕事をやめるのであった。

 

 

 

 

 

韓昌黎集 巻三十六 《毛頴傳》

 

 

 

 

 

§1-1

毛穎者,中山人也。

其先明眎,佐禹治東方土。

養萬物有功,因封於卯地,死為十二神。

嘗曰:「吾子孫神明之後,不可與物同。

當吐而生。」

已而果然。

§1-2

明視八世孫,世傳當殷時居中山,得神仙之術,能匿光使物,竊姮娥、騎蟾蜍入月。

其後代遂隱不仕云。

居東郭者曰 夋兔,

狡而善走,與韓盧爭能,盧不及。

盧怒,與宋鵲謀而殺之,醢其家。 

§2-1

秦始皇時,蒙將軍恬南伐楚,次中山。

將大獵以懼楚。

召左右庶長與軍尉,以《連山》筮之。

得天與人文之兆。

§2-2

筮者賀曰:「今日之獲,不角不牙,衣褐之徒。

缺口而長鬚,八竅而趺居。

獨取其髦,簡牘是資.天下其同書。

秦其遂兼諸侯乎!」

 

§2-3

遂獵,圍毛氏之族,拔其豪,載穎而歸,

獻俘於章臺宮,聚其族而加束縛焉。

秦皇帝使恬賜之湯沐,而封諸管城,號曰管城子。

曰見親寵任事。
 

§3-1

穎為人,強記而便敏,

自結繩之代以及秦事,無不纂錄。

陰陽、卜筮、占相、醫方、族氏、山經、地志、字書、圖畫、九流、百家天人之書。

§3-2

及至浮圖、老子、外國之,皆所詳悉。又通於當代之務,官府簿書、巿井貸錢注記,惟上所使。

§3-3

自秦皇帝及太子扶蘇、胡亥、丞相斯、中車府令高,下及國人,無不愛重。又善隨人意,正直、邪曲、巧拙,一隨其人。雖見廢棄,終默不泄。惟不喜武士,然見請,亦時往。

 

§4-1

累拜中書令,與上益狎,上嘗呼為中書君。

上親決事,以衡石自程,雖宮人不得立左右,獨穎與執燭者常侍,上休方罷。

§4-2

穎與絳人陳玄、弘農陶泓及會稽褚先生友善。

相推致,其出處必偕。上召穎,三人者不待詔輒俱往,上未嘗怪焉。 

§4-3

後因進見,上將有任使,拂拭之,因免冠謝。

上見其髮禿,又所摹畫不能稱上意。

上嘻笑曰:「中書君老而禿,不任吾用。

§4-4

吾嘗謂中書君,君今不中書邪?」對曰:「臣所謂盡心者。」

因不復召,歸封邑,終於管城。

其子孫甚多,散處中國夷狄,皆冒管城,惟居中山者,能繼父祖業。 

 

§5-1

太史公曰:「毛氏有兩族。

其一姓,文王之子,封於毛。

所謂魯、衛、毛、聃者也。

戰國時有毛公、毛遂。

獨中山之族,不知其本所出,子孫最為蕃昌。

《春秋》之成,見於孔子,而非其罪。

-2

及蒙將軍拔中山之豪,始皇封諸管城,世遂有名。

姓之毛無聞。

穎始以俘見,卒見任使。

秦之滅諸侯,穎與有功。

賞不酬勞,以老見疏。

秦真少恩哉。」

 

 


807-08元和二年40

毛頴傳-9(§4-1

昌黎先生集 昌黎文巻八02

全唐文/0567/5

807年元和240

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10198

 

 

(1)§1-1毛穎傳

毛穎者,中山人也。

毛穎というものがいる、中山の人である。

其先明眎,佐禹治東方土。

その先祖の明師は、夏の南王を佐けて、東方の土地を治めた。

養萬物有功,因封於卯地,死為十二神。

万物を養い育てて手柄があった。それに困って卯の地に封ぜられて諸侯となった。死んで十二神の一となった。

嘗曰:「吾子孫神明之後,不可與物同。

明師は以前にいった、わが子孫は神の後裔である。他の万物と同じであってはならない。

當吐而生。」

だから子を産むには、当然口から吐いて生まなければならない、と。

已而果然。

やがて果たしてその通りになった。

§1-2

明視八世孫,世傳當殷時居中山,得神仙之術,能匿光使物,竊姮娥、騎蟾蜍入月。

明師の八世の孫は、世に伝えるところでは、殷の当時に中山に居り、神仙になる術を得て、光を匿したり、または物を使って働かせることができた。羿の妻姮娥を窃み取り、蟾蜍(ひき蛙)に騎って月に入った。

其後代遂隱不仕云。

其の後代の人々はそのまま隠れて君に仕えなかったという。

居東郭者曰 〈夋兔〉,

東の城郭付近に屠る者は夋といった。

狡而善走,與韓盧爭能,盧不及。

すばしこくてよく走った。韓盧という韓国の黒犬と、その走る能力を争ったところ、盧は及ばなかった。

盧怒,與宋鵲謀而殺之,醢其家。 

それで盧は怒って宋鵲という犬と相談して、夋を殺して、その一家のものすべてを殺して“肉びしお”にした。

 

§2-1

秦始皇時,蒙將軍恬南伐楚,次中山。

始皇帝の時に、蒙恬将軍は、南方の楚国を伐って軍を中山に駐留した。

將大獵以懼楚。

大いにそこで猟をして、楚国を懼れさせようとするのであった。

召左右庶長與軍尉,以《連山》筮之。

将軍は左右の庶長(将軍) と軍尉(軍法官)らを召して、先ず連山易を以て、筮竹で占う。

得天與人文之兆。

「天から人文を与える」という兆候(うらかた)を得た。

 

§2-2

筮者賀曰:「今日之獲,不角不牙,衣褐之徒。

占う者は祝いを述べていった、今日の獲物は、角はなく、牙もない、粗毛の布の衣を着た仲間であろう。

缺口而長鬚,八竅而趺居。

そして口が裂けて三つ口で、長い鬚があり、体に一つ少ない八つの穴があって脚を組んで坐るであろう。

獨取其髦,簡牘是資.天下其同書。

ひとりその中の長い毛の秀でた者を取り用いて、文書に役立たせれば、天下はそれこそ文字を同じくして統一されるであろう。

秦其遂兼諸侯乎!」

秦はそれこそ遂に諸侯を兼ね合わせるようになることであろう!」と。

 

§2-3

遂獵,圍毛氏之族,拔其豪,載穎而歸,

そのまま猟をして毛氏の一族を囲み、その中のすぐれたものを抜き取り、毛頴を車に載せて帰った。

獻俘於章臺宮,聚其族而加束縛焉。

そして、俘虜を章台官に献じ、毛氏の一族を集めて束ね縛った。

秦皇帝使恬賜之湯沐,而封諸管城,號曰管城子。

秦の皇帝は、蒙恬をして、毛穎に湯あみし頭髪を洗う邑(領地)として湯沐邑を賜らせ、次いでこれを管城に封じて、号して管城子ということになった。

曰見親寵任事。

その後日々親しく寵愛されて仕事を受け持つことになった。

 

§2-1

秦の始皇の時,蒙將軍の恬は南のかた楚を伐って,中山に次る。

將に大いに獵して以て楚を懼さんとす。

左右の庶長と軍尉とを召して,《連山》を以て之を筮【ぜい】す。

天は人文を與うるの兆を得たり。

 

§2-2

筮者 賀して曰く:「今日の獲は,角あらず牙あらず,褐を衣るの徒ならん。

缺口【けっこう】にして長鬚,八竅【はっきょう】にして趺居せん。

獨り其の髦を取って,簡牘【かんとく】に是れ資せば.天下 其れ書を同じゅうせん。

秦 其れ遂に諸侯を兼ねんか!」と。

 

§2-3

遂に獵し,毛氏の族を圍み,其の豪を拔き,穎を載せて歸る。

俘を章臺の宮を獻じ,其の族を聚めて束縛を加う。

秦の皇帝恬をして之に湯沐を賜わしめて,而して諸管城に封じ,號して管城子と曰う。

曰びに親寵せられて事に任ず。

 

§3-1

穎為人,強記而便敏,

毛頴は生まれつき物覚えがよくて、敏捷でる、

自結繩之代以及秦事,無不纂錄。

太古には縄を結んで文字の代わりとした時代から秦の事に及ぶまで、集め記さないものはない。

陰陽、卜筮、占相、醫方、族氏、

陰陽二気の理や亀卜筮竹のこと、占いや人相家相のこと、医術、氏族系図のこと、

山經、地志、字書、圖畫、九流、百家天人之書,

山岳の記事地理の書、文字の書物、図画、九流の学派百家の学説、天と人間との関係の書物、

-2

又善隨人意,正直、邪曲、巧拙,一隨其人。

毛頴も人々の心持ちに善く随って、正しく道理にかなったことも、よこしまに曲がって道理にそむくことも、上手にも下手にも、すべて彼を使う人のままに随って記した。

雖見廢棄,終默不泄。

たとえやめられ捨てられても、最後までただだまって人に洩らすことはなかった。

惟不喜武士,然見請,亦時往。

このように従順な毛頴も、ただ武士を好まなかった。そうではあったが、頼まれれば、また時には行って用事をした。(武士でも筆を使うこともある)

頴は人と為り、強記にして便敏、結縄の代より以て秦の事に及ぶまで、纂録せざる無し。

陰陽、卜筮、占相、醫方、族氏、山経、地志、字書、圖畫、九流百家、天人の書、及び浮圖老子、外国の説に至るまで、皆 詳悉にする所。

 

又当代の務に通ず。官府の簿書、市井貨錢の注記、惟上の使ふ所のままなり。

秦の皇帝及び太子扶蘇・胡亥、丞相斯、中車府の令高より、下は国人に及ぶまで、愛重せざる無し。

又善く人意に随ひ、正直邪曲巧拙、一に其の人に随ふ。

廃棄せらると雖も、終に黙して洩さず。

惟武士を喜ばず。然れども請はるれば亦時に往く。
 

 (9)§4-1

累拜中書令,與上益狎。

穎は次第に進んで中書令に拝し任ぜられて、天子と益々おそれ親しんだ。

上嘗呼為中書君。

天子は常に穎を中書君と呼んだ。

上親決事,以衡石自程,雖宮人不得立左右。

天子は自分自身で政事を決し、衡を以て自分で書煩の分量を定めてそれを一日の仕事の目途として、宮女でもその左右に立つことはできなかった。

獨穎與執燭者常侍,上休方罷。

ただ毛穎と燭火を持つ者とだけは、常に天子のそばに侍っていた。天子が休息して、はじめて仕事をやめるのであった。

 §4-1

累拜中書令,與上益狎,上嘗呼為中書君。

上親決事,以衡石自程,雖宮人不得立左右,獨穎與執燭者常侍,上休方罷。

§4-2

穎與絳人陳玄、弘農陶泓及會稽褚先生友善。

相推致,其出處必偕。上召穎,三人者不待詔輒俱往,上未嘗怪焉。 

§4-3

後因進見,上將有任使,拂拭之,因免冠謝。

上見其髮禿,又所摹畫不能稱上意。

上嘻笑曰:「中書君老而禿,不任吾用。

§4-4

吾嘗謂中書君,君今不中書邪?」對曰:「臣所謂盡心者。」

因不復召,歸封邑,終於管城。

其子孫甚多,散處中國夷狄,皆冒管城,惟居中山者,能繼父祖業。 

 

§4-1

累【しきり】に中書令に拜せられ,上と益す狎【な】る。

上 嘗【つね】に呼んで中書君と為す。

上 親【みずか】ら事を決して,衡石を以て自ら程とし,宮人と雖も左右に立つを得ず。

獨り穎と燭をる執る者とのみは常に侍し,上 休んで方に罷む。

§4--2

穎は絳人陳玄、弘農の陶泓 及び會稽の褚先生と友として善し。

相い推致し,其の出處 必ず偕【とも】にす。

上 穎を召せば,三人の者 詔を待たずして 輒ち俱に往く。

上 未だ嘗って怪まず。 

§4--3

後に進み見るに因りて,上 將に任使すること有らんとして,之を拂拭す。

因りて冠を免いで謝す。

上 其の髮の禿するを見る。

又た摹畫【ぼかく】する所 上の意に稱【かな】う能わず。

上 嘻笑して曰く:「中書君 老いて禿す。

吾が用に任せず。

§4-4

吾 嘗て君を中書と謂えり。

君 今 書に中【あたら】ざりて邪【ねじけ】るか?」と。

對えて曰く:「臣は所謂【いわゆる】 心を盡す者なり。」と。

因りて復た召されず。

封邑歸りて,管城に終る。

其の子孫 甚だ多く,中國夷狄に散處す。

皆 管城を冒し,惟だ 中山に居る者のみ,能く父祖の業を繼ぐ。 

 

 

『毛穎傳』 現代語訳と訳註解説
(
本文) 
(8)§4-1

累拜中書令,與上益狎。

上嘗呼為中書君。

上親決事,以衡石自程,雖宮人不得立左右。

獨穎與執燭者常侍,上休方罷。


(下し文) §4-1

累【しきり】に中書令に拜せられ,上と益す狎【な】る。

上 嘗【つね】に呼んで中書君と為す。

上 親【みずか】ら事を決して,衡石を以て自ら程とし,宮人と雖も左右に立つを得ず。

獨り穎と燭をる執る者とのみは常に侍し,上 休んで方に罷む。


(現代語訳)
穎は次第に進んで中書令に拝し任ぜられて、天子と益々おそれ親しんだ。

天子は常に穎を中書君と呼んだ。

天子は自分自身で政事を決し、衡を以て自分で書煩の分量を定めてそれを一日の仕事の目途として、宮女でもその左右に立つことはできなかった。

ただ毛穎と燭火を持つ者とだけは、常に天子のそばに侍っていた。天子が休息して、はじめて仕事をやめるのであった。


(訳注) (8)§4-1

毛穎傳

○毛穎 《「穎」は穂先の意》毛筆の異称。毛は筆の毛、当時は免の毛であったから筆の姓とした。穎は筆先の細い毛。これを名とした。

筆を人に擬して伝を立てたのである。着想から滑稽であり、叙事は更に諧謔味を帯び、韓愈の俳諧文の代表作である。特に諷諭の意を捜る必要はない。詩文を通じて、韓愈(退之)の文学には俳諧味がある。これはその一種の表現と見るべきであろう。

 

累拜中書令,與上益狎。

穎は次第に進んで中書令に拝し任ぜられて、天子と益々おそれ親しんだ。

49. 中書令 中書省長官、詔勅を掌る。これを後に「書に中(あたる」と解するが、これは諧謔であって、本来は宮中の書記を掌るので中書といったものである。

 

上嘗呼為中書君。

天子は常に穎を中書君と呼んだ。

50. 嘗 常と通用する。

 

上親決事,以衡石自程,雖宮人不得立左右。

天子は自分自身で政事を決し、衡を以て自分で書煩の分量を定めてそれを一日の仕事の目途として、宮女でもその左右に立つことはできなかった。

51. 衡石 衡は重さをほかる秤の横棒、石は分銅(おもり) である。

52. 程 目ど。区切り。限度とする。

 

獨穎與執燭者常侍,上休方罷。

ただ毛穎と燭火を持つ者とだけは、常に天子のそばに侍っていた。天子が休息して、はじめて仕事をやめるのであった。