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807-08元和二年40歳昌黎文巻八02《毛頴傳§5-1》〔#13〕Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之Blog10234

太史公はいう、毛氏は両族がある。

その一つは姫姓で、周の文王の子が毛の地に封ぜられた。

世にいう所の魯・衛・毛・聃のうちの一国である。

戦国時代には、毛公・毛遂という人があった。

 

 

 

 

 

韓昌黎集 巻三十六 《毛頴傳》

 

 

 

 

 

§1-1

毛穎者,中山人也。

其先明眎,佐禹治東方土。

養萬物有功,因封於卯地,死為十二神。

嘗曰:「吾子孫神明之後,不可與物同。

當吐而生。」

已而果然。

§1-2

明視八世孫,世傳當殷時居中山,得神仙之術,能匿光使物,竊姮娥、騎蟾蜍入月。

其後代遂隱不仕云。

居東郭者曰 夋兔,

狡而善走,與韓盧爭能,盧不及。

盧怒,與宋鵲謀而殺之,醢其家。 

§2-1

秦始皇時,蒙將軍恬南伐楚,次中山。

將大獵以懼楚。

召左右庶長與軍尉,以《連山》筮之。

得天與人文之兆。

§2-2

筮者賀曰:「今日之獲,不角不牙,衣褐之徒。

缺口而長鬚,八竅而趺居。

獨取其髦,簡牘是資.天下其同書。

秦其遂兼諸侯乎!」

 

§2-3

遂獵,圍毛氏之族,拔其豪,載穎而歸,

獻俘於章臺宮,聚其族而加束縛焉。

秦皇帝使恬賜之湯沐,而封諸管城,號曰管城子。

曰見親寵任事。
 

§3-1

穎為人,強記而便敏,

自結繩之代以及秦事,無不纂錄。

陰陽、卜筮、占相、醫方、族氏、山經、地志、字書、圖畫、九流、百家天人之書。

§3-2

及至浮圖、老子、外國之,皆所詳悉。又通於當代之務,官府簿書、巿井貸錢注記,惟上所使。

§3-3

自秦皇帝及太子扶蘇、胡亥、丞相斯、中車府令高,下及國人,無不愛重。又善隨人意,正直、邪曲、巧拙,一隨其人。雖見廢棄,終默不泄。惟不喜武士,然見請,亦時往。

 

§4-1

累拜中書令,與上益狎,上嘗呼為中書君。

上親決事,以衡石自程,雖宮人不得立左右,獨穎與執燭者常侍,上休方罷。

§4-2

穎與絳人陳玄、弘農陶泓及會稽褚先生友善。

相推致,其出處必偕。上召穎,三人者不待詔輒俱往,上未嘗怪焉。 

§4-3

後因進見,上將有任使,拂拭之,因免冠謝。

上見其髮禿,又所摹畫不能稱上意。

上嘻笑曰:「中書君老而禿,不任吾用。

§4-4

吾嘗謂中書君,君今不中書邪?」對曰:「臣所謂盡心者。」

因不復召,歸封邑,終於管城。

其子孫甚多,散處中國夷狄,皆冒管城,惟居中山者,能繼父祖業。 

 

§5-1

太史公曰:「毛氏有兩族。

其一姓,文王之子,封於毛。

所謂魯、衛、毛、聃者也。

戰國時有毛公、毛遂。

§5-2

獨中山之族,不知其本所出,子孫最為蕃昌。

《春秋》之成,見於孔子,而非其罪。

及蒙將軍拔中山之豪,始皇封諸管城,世遂有名。

§5-3

姓之毛無聞。

穎始以俘見,卒見任使。

秦之滅諸侯,穎與有功。

賞不酬勞,以老見疏。

秦真少恩哉。」

 


807-08元和二年40

毛頴傳-13(§5-1

昌黎先生集 昌黎文巻八02

全唐文/0567/5

807年元和240

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10234

 

13 §5-1

太史公曰:「毛氏有兩族。

太史公はいう、毛氏は両族がある。

其一姓,文王之子,封於毛。

その一つは姫姓で、周の文王の子が毛の地に封ぜられた。

所謂魯、衛、毛、聃者也。

世にいう所の魯・衛・毛・聃のうちの一国である。

戰國時有毛公、毛遂。

戦国時代には、毛公・毛遂という人があった。

§5-1

太史公 曰く:「毛氏に兩族有り。

其の一は姓,文王の子,毛に封ぜらる。

所謂る魯、衛、毛、聃という者なり。

戰國の時に毛公、毛遂有り。

#14 §5-2

獨中山之族,不知其本所出,子孫最為蕃昌。

《春秋》之成,見於孔子,而非其罪。

及蒙將軍拔中山之豪,始皇封諸管城,世遂有名。

#15 §5-3

姓之毛無聞。

穎始以俘見,卒見任使。

秦之滅諸侯,穎與有功。

賞不酬勞,以老見疏。

秦真少恩哉。」

 

#2

獨り中山の族のみ,其の本の出ずる所を知ず。

子孫 最も蕃昌なりと為す。

《春秋》の成るや,見孔子にたる,而も其の罪に非ず。

蒙將軍 中山の豪を拔き,始皇 諸を管城に封ずるに及ぶ,

世よに遂に名有り。

#3

而して姓の毛は聞ゆる無し。

穎 始めは俘を以って見え,卒【おわり】には任使せらる,

秦の諸侯を滅し,穎 與【あず】かって功有り。

賞 勞に酬いず,老を以って疏【うと】んぜられ,秦 真に恩少きかな。」と。

 

 

《毛頴傳》現代語訳と訳註解説

(本文)

13 §5-1

太史公曰:「毛氏有兩族。

其一姓,文王之子,封於毛。

所謂魯、衛、毛、聃者也。

戰國時有毛公、毛遂。

 

(下し文)

§5-1

太史公 曰く:「毛氏に兩族有り。

其の一は姓,文王の子,毛に封ぜらる。

所謂る魯、衛、毛、聃という者なり。

戰國の時に毛公、毛遂有り。

 

(現代語訳)

太史公はいう、毛氏は両族がある。

その一つは姫姓で、周の文王の子が毛の地に封ぜられた。

世にいう所の魯・衛・毛・聃のうちの一国である。

戦国時代には、毛公・毛遂という人があった。

 

(訳注)

 

13 §5-1

毛穎傳

○毛穎 《「穎」は穂先の意》毛筆の異称。毛は筆の毛、当時は免の毛であったから筆の姓とした。穎は筆先の細い毛。これを名とした。

筆を人に擬して伝を立てたのである。着想から滑稽であり、叙事は更に諧謔味を帯び、韓愈の俳諧文の代表作である。特に諷諭の意を捜る必要はない。詩文を通じて、韓愈(退之)の文学には俳諧味がある。これはその一種の表現と見るべきであろう。

 

太史公曰:「毛氏有兩族。

太史公はいう、毛氏は両族がある。

68. 太史公 中国前漢時代の官職。国史の編纂や暦の制定などにあたった。前漢で太史公を務めた『史記』の著者である司馬遷の自称。 本紀、世家、列伝の終わりの部分には、「太史公曰」から始まる文章があり、本紀、世家、列伝で紹介した人物についての司馬遷の評価が書かれている。

 

其一姓,文王之子,封於毛。

その一つは姫姓で、周の文王の子が毛の地に封ぜられた。

69. 姫姓 周王朝は姫姓の家。

70. 文王之子 周文王の第八子鄭が毛伯に封ぜられ、毛姓となる。毛は河南省宜陽県境にあった古代の国名。文王は、中国の周朝の始祖。姓は姫、諱は昌。父季歴と母太任の子、虢仲・虢叔の兄。周王朝の創始者である武王の父にあたる。「寧王」とも呼ばれる。文王は商に仕えて、三公の地位にあり、父である季歴の死後に周の地を受け継ぎ、岐山のふもとより本拠地を灃河の西岸の豊邑に移し、仁政を行ってこの地を豊かにしていた。

 

所謂魯、衛、毛、聃者也。

世にいう所の魯・衛・毛・聃のうちの一国である。

71. 所謂 世にいう所の、『左伝』僖公二十四年に「魯・衛・毛・聃は文の昭なり」とあるのをいう。

 

戰國時有毛公、毛遂。

戦国時代には、毛公・毛遂という人があった。

72. 毛公 大毛公亨、毛公萇、共に『詩経』を伝えた漢の儒者。その訓伝によって『毛詩』(詩経)が伝わった。

73. 毛遂 古代の戦国時代、趙の国の都邯鄲は強大な秦の軍隊に包囲され、危険にさらされていた。そこで邯鄲を救うため、趙の王は楚の国と連合して秦に立ち向かう策を立て、楚を説得するため、親王である平原君を遣ることにした。こちら平原君は早速自分の食客の中から知勇兼備の士20人を選び、同行させようとしたが、19人は選べたものの、あと一人足りない。と、このとき、食客の一人毛遂が、同行を申し出た。

毛遂は自ら薦めて「自らを錐にたとえて、遂をして早く嚢中に処るを得しめは、乃ち穎脱して出でん。特(ただ)其の末の見(あら)わるるのみに非ざるなり」といって、従って功をてたという故事がある。