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807-08元和二年40歳昌黎文巻八02《毛頴傳§5-3》〔#15〕Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之Blog10233

毛穎は始め俘虜の身で天子にまみえ、終わりには任用されたのである。

秦が諸侯を滅ぼすのに、毛穎はそれに関係して功があった。

けれども賞はその労に当たらず、やがて年老いて疎んぜられた。秦はまことに恩愛の少ない王朝であることよ、と。

 

 

 

 

 

韓昌黎集 巻三十六 《毛頴傳》

 

 

 

 

 

§1-1

毛穎者,中山人也。

其先明眎,佐禹治東方土。

養萬物有功,因封於卯地,死為十二神。

嘗曰:「吾子孫神明之後,不可與物同。

當吐而生。」

已而果然。

§1-2

明視八世孫,世傳當殷時居中山,得神仙之術,能匿光使物,竊姮娥、騎蟾蜍入月。

其後代遂隱不仕云。

居東郭者曰 夋兔,

狡而善走,與韓盧爭能,盧不及。

盧怒,與宋鵲謀而殺之,醢其家。 

§2-1

秦始皇時,蒙將軍恬南伐楚,次中山。

將大獵以懼楚。

召左右庶長與軍尉,以《連山》筮之。

得天與人文之兆。

§2-2

筮者賀曰:「今日之獲,不角不牙,衣褐之徒。

缺口而長鬚,八竅而趺居。

獨取其髦,簡牘是資.天下其同書。

秦其遂兼諸侯乎!」

 

§2-3

遂獵,圍毛氏之族,拔其豪,載穎而歸,

獻俘於章臺宮,聚其族而加束縛焉。

秦皇帝使恬賜之湯沐,而封諸管城,號曰管城子。

曰見親寵任事。
 

§3-1

穎為人,強記而便敏,

自結繩之代以及秦事,無不纂錄。

陰陽、卜筮、占相、醫方、族氏、山經、地志、字書、圖畫、九流、百家天人之書。

§3-2

及至浮圖、老子、外國之,皆所詳悉。又通於當代之務,官府簿書、巿井貸錢注記,惟上所使。

§3-3

自秦皇帝及太子扶蘇、胡亥、丞相斯、中車府令高,下及國人,無不愛重。又善隨人意,正直、邪曲、巧拙,一隨其人。雖見廢棄,終默不泄。惟不喜武士,然見請,亦時往。

 

§4-1

累拜中書令,與上益狎,上嘗呼為中書君。

上親決事,以衡石自程,雖宮人不得立左右,獨穎與執燭者常侍,上休方罷。

§4-2

穎與絳人陳玄、弘農陶泓及會稽褚先生友善。

相推致,其出處必偕。上召穎,三人者不待詔輒俱往,上未嘗怪焉。 

§4-3

後因進見,上將有任使,拂拭之,因免冠謝。

上見其髮禿,又所摹畫不能稱上意。

上嘻笑曰:「中書君老而禿,不任吾用。

§4-4

吾嘗謂中書君,君今不中書邪?」對曰:「臣所謂盡心者。」

因不復召,歸封邑,終於管城。

其子孫甚多,散處中國夷狄,皆冒管城,惟居中山者,能繼父祖業。 

 

§5-1

太史公曰:「毛氏有兩族。

其一姓,文王之子,封於毛。

所謂魯、衛、毛、聃者也。

戰國時有毛公、毛遂。

§5-2

獨中山之族,不知其本所出,子孫最為蕃昌。

《春秋》之成,見於孔子,而非其罪。

及蒙將軍拔中山之豪,始皇封諸管城,

世遂有名。而姓之毛無聞。

§5-3

 

穎始以俘見,卒見任使。

秦之滅諸侯,穎與有功。

賞不酬勞,以老見疏。

秦真少恩哉。」

 

807-08元和二年40

毛頴傳-14(§5-3

昌黎先生集 昌黎文巻八02

全唐文/0567/5

807年元和240

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10233

 

13 §5-1

太史公曰:「毛氏有兩族。

太史公はいう、毛氏は両族がある。

其一姓,文王之子,封於毛。

その一つは姫姓で、周の文王の子が毛の地に封ぜられた。

所謂魯、衛、毛、聃者也。

世にいう所の魯・衛・毛・聃のうちの一国である。

戰國時有毛公、毛遂。

戦国時代には、毛公・毛遂という人があった。

§5-1

太史公 曰く:「毛氏に兩族有り。

其の一は姓,文王の子,毛に封ぜらる。

所謂る魯、衛、毛、聃という者なり。

戰國の時に毛公、毛遂有り。

#14 §5-2

獨中山之族,不知其本所出。

ただ中山の毛氏の族だけは、その本がどこから出ているのかわからない。

子孫最為蕃昌。

子孫は中でも最も殖えて盛んであるとされる。

《春秋》之成,見於孔子,而非其罪。

『春秋』の書ができ上がったときに、孔子から交わりを絶たれた(孔子は筆を獲麟に絶つ)けれども、それは毛氏の罪ではなかった。

及蒙將軍拔中山之豪,始皇封諸管城,

蒙恬将軍が中山の毛氏の族の豪の者(毫を暗示)を抜いて帰り、始皇帝がこれを管城に封ずるようになった。

世遂有名,而姓之毛無聞。

世々そのまま毛氏の名が聞こえて、姫姓の毛氏は聞こえなくなった。

#2

獨り中山の族のみ,其の本の出ずる所を知ず。

子孫 最も蕃昌なりと為す。

《春秋》の成るや,見孔子にたる,而も其の罪に非ず。

蒙將軍 中山の豪を拔き,始皇 諸を管城に封ずるに及ぶ,

世よに遂に名有り。而して姓の毛は聞ゆる無し。

 

#15 §5-3

穎始以俘見,卒見任使。

毛穎は始め俘虜の身で天子にまみえ、終わりには任用されたのである。

秦之滅諸侯,穎與有功。

秦が諸侯を滅ぼすのに、毛穎はそれに関係して功があった。

賞不酬勞,以老見疏。

秦真少恩哉。」

けれども賞はその労に当たらず、やがて年老いて疎んぜられた。秦はまことに恩愛の少ない王朝であることよ、と。

-3

穎 始めは俘を以って見え,卒【おわり】には任使せらる,

秦の諸侯を滅し,穎 與【あず】かって功有り。

賞 勞に酬いず,老を以って疏【うと】んぜられ,秦 真に恩少きかな。」と。

 

 

《毛頴傳》現代語訳と訳註解説

(本文)

#15 §5-3

穎始以俘見,卒見任使。

秦之滅諸侯,穎與有功。

賞不酬勞,以老見疏。

秦真少恩哉。」

 

(下し文)

-3

穎 始めは俘を以って見え,卒【おわり】には任使せらる,

秦の諸侯を滅し,穎 與【あず】かって功有り。

賞 勞に酬いず,老を以って疏【うと】んぜられ,秦 真に恩少きかな。」と。

 

(現代語訳)

毛穎は始め俘虜の身で天子にまみえ、終わりには任用されたのである。

秦が諸侯を滅ぼすのに、毛穎はそれに関係して功があった。

けれども賞はその労に当たらず、やがて年老いて疎んぜられた。秦はまことに恩愛の少ない王朝であることよ、と。

 

(訳注)

毛穎傳

○毛穎 《「穎」は穂先の意》毛筆の異称。毛は筆の毛、当時は免の毛であったから筆の姓とした。穎は筆先の細い毛。これを名とした。

筆を人に擬して伝を立てたのである。着想から滑稽であり、叙事は更に諧謔味を帯び、韓愈の俳諧文の代表作である。特に諷諭の意を捜る必要はない。詩文を通じて、韓愈(退之)の文学には俳諧味がある。これはその一種の表現と見るべきであろう。

 

#15 §5-3

穎始以俘見,卒見任使,

毛穎は始め俘虜の身で天子にまみえ、終わりには任用されたのである。

77. 俘 俘虜。

 

秦之滅諸侯,穎與有功,

秦が諸侯を滅ぼすのに、毛穎はそれに関係して功があった。

78. 穎與有功 毛穎がそれに関係して功があった。与は関与。政治には常に文筆がかかわる。

 

賞不酬勞,以老見疏,秦真少恩哉。」

けれども賞はその労に当たらず、やがて年老いて疎んぜられた。秦はまことに恩愛の少ない王朝であることよ、と。

80. 不酬勞 功労に相応しない。

 

807-08元和二年40

毛頴傳-14(§5-3

昌黎先生集 昌黎文巻八02

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807年元和240

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10233

 

13 §5-1

太史公曰:「毛氏有兩族。

太史公はいう、毛氏は両族がある。

其一姓,文王之子,封於毛。

その一つは姫姓で、周の文王の子が毛の地に封ぜられた。

所謂魯、衛、毛、聃者也。

世にいう所の魯・衛・毛・聃のうちの一国である。

戰國時有毛公、毛遂。

戦国時代には、毛公・毛遂という人があった。

§5-1

太史公 曰く:「毛氏に兩族有り。

其の一は姓,文王の子,毛に封ぜらる。

所謂る魯、衛、毛、聃という者なり。

戰國の時に毛公、毛遂有り。

#14 §5-2

獨中山之族,不知其本所出。

ただ中山の毛氏の族だけは、その本がどこから出ているのかわからない。

子孫最為蕃昌。

子孫は中でも最も殖えて盛んであるとされる。

《春秋》之成,見於孔子,而非其罪。

『春秋』の書ができ上がったときに、孔子から交わりを絶たれた(孔子は筆を獲麟に絶つ)けれども、それは毛氏の罪ではなかった。

及蒙將軍拔中山之豪,始皇封諸管城,

蒙恬将軍が中山の毛氏の族の豪の者(毫を暗示)を抜いて帰り、始皇帝がこれを管城に封ずるようになった。

世遂有名,而姓之毛無聞。

世々そのまま毛氏の名が聞こえて、姫姓の毛氏は聞こえなくなった。

#2

獨り中山の族のみ,其の本の出ずる所を知ず。

子孫 最も蕃昌なりと為す。

《春秋》の成るや,見孔子にたる,而も其の罪に非ず。

蒙將軍 中山の豪を拔き,始皇 諸を管城に封ずるに及ぶ,

世よに遂に名有り。而して姓の毛は聞ゆる無し。

 

#15 §5-3

穎始以俘見,卒見任使。

毛穎は始め俘虜の身で天子にまみえ、終わりには任用されたのである。

秦之滅諸侯,穎與有功。

秦が諸侯を滅ぼすのに、毛穎はそれに関係して功があった。

賞不酬勞,以老見疏。

秦真少恩哉。」

けれども賞はその労に当たらず、やがて年老いて疎んぜられた。秦はまことに恩愛の少ない王朝であることよ、と。

-3

穎 始めは俘を以って見え,卒【おわり】には任使せらる,

秦の諸侯を滅し,穎 與【あず】かって功有り。

賞 勞に酬いず,老を以って疏【うと】んぜられ,秦 真に恩少きかな。」と。

 

 

《毛頴傳》現代語訳と訳註解説

(本文)

#15 §5-3

穎始以俘見,卒見任使。

秦之滅諸侯,穎與有功。

賞不酬勞,以老見疏。

秦真少恩哉。」

 

(下し文)

-3

穎 始めは俘を以って見え,卒【おわり】には任使せらる,

秦の諸侯を滅し,穎 與【あず】かって功有り。

賞 勞に酬いず,老を以って疏【うと】んぜられ,秦 真に恩少きかな。」と。

 

(現代語訳)

毛穎は始め俘虜の身で天子にまみえ、終わりには任用されたのである。

秦が諸侯を滅ぼすのに、毛穎はそれに関係して功があった。

けれども賞はその労に当たらず、やがて年老いて疎んぜられた。秦はまことに恩愛の少ない王朝であることよ、と。

 

(訳注)

毛穎傳

○毛穎 《「穎」は穂先の意》毛筆の異称。毛は筆の毛、当時は免の毛であったから筆の姓とした。穎は筆先の細い毛。これを名とした。

筆を人に擬して伝を立てたのである。着想から滑稽であり、叙事は更に諧謔味を帯び、韓愈の俳諧文の代表作である。特に諷諭の意を捜る必要はない。詩文を通じて、韓愈(退之)の文学には俳諧味がある。これはその一種の表現と見るべきであろう。

 

#15 §5-3

穎始以俘見,卒見任使,

毛穎は始め俘虜の身で天子にまみえ、終わりには任用されたのである。

77. 俘 俘虜。

 

秦之滅諸侯,穎與有功,

秦が諸侯を滅ぼすのに、毛穎はそれに関係して功があった。

78. 穎與有功 毛穎がそれに関係して功があった。与は関与。政治には常に文筆がかかわる。

 

賞不酬勞,以老見疏,秦真少恩哉。」

けれども賞はその労に当たらず、やがて年老いて疎んぜられた。秦はまことに恩愛の少ない王朝であることよ、と。

80. 不酬勞 功労に相応しない。