・韓愈全集校注〔三〕1701 

・韓昌黎文集校注 巻二 68 (原文 巻十三02

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807-09元和二年40歳《釋言§1-1》〔#01〕Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之Blog10247

(韓愈は文名が高かくなっていった、一方で、嫉妬、中傷、讒言を受けそうなので、元和二年の春、宰相の鄭絪、翰林學士の李吉甫、中書舍人の裴に対して、弁明の書をつくったものである

元和元年(806)六月十日、わたしは江陵の法曹参軍から勅命によって国子博士に任ぜられた。

はじめて現在の宰相鄭綱閣下にお目通りした。

鄭細閣下は、かけなさいといって、それから、「わたしはきみのなになにの詩を読んだ。わたしはそのとき翰林院にいたのです。

 

 

 

 

韓昌黎文集校注 巻二 68 (原文 巻十三022

 

 

釋言

作者:韓愈 唐                 

・全唐文/0559-02

・韓愈全集校注〔三〕1701 

・韓昌黎文集校注 巻二 68 (原文 巻十三02

 

§1

元和元年六月十日,愈自江陵法曹詔拜國子博土,始進見今相國鄭公。公賜之坐,且曰:「吾見子某詩,吾時在翰林。

職親而地禁,不敢相聞。今為我寫子詩書為一通以來。」愈再拜謝,退錄詩書若干篇,擇日時以獻。


§2

於後之數月,有來謂愈者曰:「子獻相國詩書乎?」曰:「然。」曰:「有為讒於相國之座者曰: ‘韓愈曰:相國征餘文,餘不敢匿,相國豈知我哉!’子其慎之!」

§3

愈應之曰:「愈為御史,得罪德宗朝,同遷於南者凡三人,獨愈為先收用,相國之賜大矣;百官之進見相國者,或立語以退,而愈辱賜坐語,相國之禮過矣;四海九州之人,自百官以下,欲以其業徹相國左右者多矣,皆憚而莫之敢,獨愈辱先索,相國之知至矣。賜之大,禮之過,知之至,是三者於敵以下受之,宜以何報?況在天子之宰乎!

§4

人莫不自知,凡適於用之謂才,堪其事之謂力,愈於二者,雖日勉焉而不近。束帶執笏,立士大夫之行,不見斥以不肖,幸矣,其何敢敖於言乎?夫敖雖凶德,必有恃而敢行。愈之族親鮮少,無扳聯之勢於今;不善交人,無相先相死之友於朝;無宿資蓄貨以釣聲勢;弱於才而腐於力,不能奔走乘機抵巇以要權利。夫何恃而敖?若夫狂惑喪心之人,蹈河而入火,妄言而罵詈者,則有之矣,而愈人知其無是疾也。雖有讒者百人,相國將不信之矣,愈何懼而慎歟?」

§5

既累月,又有來謂愈曰:「有讒子於翰林舍人李公與裴公者,子其慎歟!」愈曰:「二公者,吾君朝夕訪焉,以為政於天下,而階太平之治。居則與天子為心膂,出則與天子為股肱。四海九州之人,自百官以下,其孰不願忠而望賜?愈也不狂不愚,不蹈河而入火,病風而妄罵,不當有如讒者之也。雖有讒者百人,二公將不信之矣。愈何懼而慎?」

§6

既以語應客,夜歸,私自尤曰:咄!市有虎,而曾參殺人,讒者之效也。《詩》曰:「取彼讒人,投畀豺虎。豺虎不食,投畀有北。有北不受,投畀有昊。」傷於讒,疾而甚之之辭也。又曰:「亂之初生,僭始既涵。亂之又生,君子信讒。」始疑而終信之之謂也。孔子曰:「遠佞人。」夫佞人不能遠,則有時而信之矣。今我恃直而不戒,禍其至哉!

§7

徐又自解之曰:市有虎,聽者庸也;曾參殺人,以愛惑聰也;《巷伯》之傷,亂世是逢也。今三賢方與天子謀所以施政於天下。而階太平之治,聽聰而視明,公正而敦大。夫聰明則聽視不惑,公正則不邇讒邪,敦大則有以容而思。彼讒人者,孰敢進而為讒哉?雖進而為之,亦莫之聽矣!我何懼而慎?

§8

既累月,上命李公相,客謂愈曰:「子前被言於一相,今李公又相,子其危哉!」愈曰:「前之謗我於宰相者,翰林不知也;後之謗我於翰林者,宰相不知也。今二公合處而會,言若及愈,必曰:‘韓愈亦人耳,彼敖宰相,又敖翰林,其將何求?必不然!’吾乃今知免矣。」既而讒言果不行。

 

 

 

 

 

 

韓昌黎文集校注 巻二 68 (原文 巻十三02 

《釋言》(辯明)

 

 

 

 

 

《釋言》(辯明)§1-1

(韓愈は文名が高かくなっていった、一方で、嫉妬、中傷、讒言を受けそうなので、元和二年の春、宰相の鄭絪、翰林學士の李吉甫、中書舍人の裴に対して、弁明の書をつくったものである

元和元年六月十日,愈自江陵法曹詔拜國子博土,

元和元年(806)六月十日、わたしは江陵の法曹参軍から勅命によって国子博士に任ぜられた。

始進見今相國鄭公。

はじめて現在の宰相鄭綱閣下にお目通りした。

公賜之坐,且曰:「吾見子某詩,吾時在翰林。

鄭細閣下は、かけなさいといって、それから、「わたしはきみのなになにの詩を読んだ。わたしはそのとき翰林院にいたのです。

§1-2

職親而地禁,不敢相聞。

今為我寫子詩書為一通以來。」愈再拜謝,

退錄詩書若干篇,擇日時以獻。

 

《釋言》(辯明)§1-2

元和元年六月十日。愈、江陵の法曹より、詔ありて国子博士に拝せらる。

始めて今の相国鄭公に進見す。

公之れに坐を賜う。且つ日わく、吾れ子が某の詩を見る。吾れ時に翰林に在り。

§1-2

職親しくして地禁なり。敢えて相聞せず。

今我が為に子が詩書を写して、一通と為して以て来れ、と。

愈再拝して謝す。退いて詩書若干篇を録して、日時を択んで以て献ず。

 

   釋言

   此元和二年春作宰相鄭絪翰林學士李吉甫中書舍人裴也。 

   國語云驪使奄楚以環釋言註云以言解釋也。退之作釋言取此

元和元年六月十日、或無十日字愈自江陵法曹、詔拜國子博士、

始進見今相國鄭公。公賜之坐、或無下公字且曰、吾見子某詩。

吾時在翰林。職親而地禁。不敢相聞、今為我寫子詩書、為一

通以來。我下或有盡字而無為一通以字或無為我字而有盡字一或作二

愈再拜謝、退録詩書若干篇、擇日時以獻。若干或作著于獻下或有

之字入今按著于篇雖古語然施之於此似不相 且公亦未必特用此語以為竒也。

§-2

於後之數月、有來謂愈者曰、子獻相國詩書乎。

曰、然、曰、有為讒於相國之座者曰或無為字

韓愈曰、相國徴余文。余不敢匿、相國豈知我哉。子其慎之。或無之字

§-3

愈應之曰、愈為御史、得罪德宗朝、同遷於南者凡三人三人謂公及張署李方叔也

獨愈為先收用、相國之賜大矣。百官之進見相國者、或立語以退。

而愈辱賜坐語、相國之禮過矣。以或作巳四海九州之人、

自百官已下、欲以其業徹相國左右者多矣。 

皆憚而莫之敢、獨愈辱先索。相國之知至矣。

賜之大、禮之過、知之至、是三者於敵以下受之、

宜以何報。况在天子之宰乎。

敵以或作敵已國語自敵以下則有讎註敵體也今人多用敵已字者非宰下或有相字

§-4 

人莫不自知、凡適於用之謂才、堪其事之謂力。

愈於二者、雖日勉焉而不近。束帶執笏、立士大夫之行。

不見斥以不肖幸矣。其何敢敖於言乎。或無乎字

夫敖雖凶德、必有恃而敢行。愈之族親鮮少、無扳聯之勢。

於今扳音/不善交人無相先相死之友 

於朝禮記儒有爵位/相先患難相死無宿資蓄貨以釣聲勢宿資蓄貨或/作宿貨蓄資 

弱於才而腐於力。不能奔走乗機、抵巇以要權利。巇許宜反/要平聲

夫何恃而敖。若夫狂惑喪心之人、蹈河而入火、

妄言而罵詈者則有之矣而愈人知其無

是疾也雖有讒者百人、相國將不信之矣。愈何懼而慎歟。相國或作宰/相或無歟字

§-5

既累月、又有來謂愈曰、有讒子於翰林舍人李公與裴公者。

子其慎歟、愈曰、二公者吾君朝夕訪焉、以為政於天下、

而階太平之治、或作/居則與天子為心膂、 

出則與天子為股肱、四海九州之人、自百官已下、 

其孰不願忠而望賜。不下或有/能字非是 愈也不狂不愚、不蹈河而入火

病風而妄罵、不當有如讒者之也。雖有讒者百人、二公將不信之矣。

愈何懼而慎。

§-6

既以語應客。夜歸、私自尤曰、咄、咄字見晉殷浩語當没切 市有虎

而曾參殺人、讒者之效也。市有虎見戰國策蔥語曾參殺人見史記甘茂語

詩曰、取彼讒人、投畀豺虎、豺虎不食、投畀有北、有北不受、

投畀有昊。小雅巷/伯詩 傷於讒、疾而甚之之辭也。

又曰、亂之初生、僭始既涵。亂之又生、君子信讒。小雅巧言/之詩云云

始疑而終信之之謂也。孔子曰、佞人、夫佞人不能則有時而信之矣。

今我恃直而不戒、禍其至哉。

§-7

徐又自解之曰、市有虎、聽者庸也。曾參殺人、以愛惑聰也。

巷伯之傷、亂世是逢也。聰或作聴非是亂世一作世亂

今三賢方與天子、謀所以施政於天下、而階太平之治。

聽聰而視明、公正而敦大。夫聰明則聽視不惑、聴視或作視聴

公正則不邇讒邪、敦大則有以容而思。彼讒人者、孰敢進而為讒哉。進而或/作而進

雖進而為之、亦莫之聽矣。 我何懼而慎。或無而/慎字

§-8

既累月、上命李公相。客謂愈曰、子前被言於一相、今李公又相。

子其危哉、或無/哉字 愈曰、前之謗我於宰相者、翰林不知也。

後之謗我於翰林者、宰相不知也。今二公合處而會。

言若及愈必曰、韓愈亦人耳。彼敖宰相、又敖翰林。

其將何求。必不然。吾乃今知免矣。

既而讒言果不行。宰相或皆作相國乃今或作今乃又無矣字既下或無而字

 

 

城郭のデッサン001 

 

 

《釋言》現代語訳と訳註解説

(本文)

《釋言》(辯明)§1-2

元和元年六月十日,愈自江陵法曹詔拜國子博土,

始進見今相國鄭公。

公賜之坐,且曰:「吾見子某詩,吾時在翰林。

 

(下し文)

《釋言》(辯明)§1-2

元和元年六月十日。愈、江陵の法曹より、詔ありて国子博士に拝せらる。

始めて今の相国鄭公に進見す。

公之れに坐を賜う。且つ日わく、吾れ子が某の詩を見る。吾れ時に翰林に在り。

 

(現代語訳)

(韓愈は文名が高かくなっていった、一方で、嫉妬、中傷、讒言を受けそうなので、元和二年の春、宰相の鄭絪、翰林學士の李吉甫、中書舍人の裴に対して、弁明の書をつくったものである

元和元年(806)六月十日、わたしは江陵の法曹参軍から勅命によって国子博士に任ぜられた。

はじめて現在の宰相鄭綱閣下にお目通りした。

鄭細閣下は、かけなさいといって、それから、「わたしはきみのなになにの詩を読んだ。わたしはそのとき翰林院にいたのです。

 

(訳注)

《釋言》(辯明)§1-2

1. (韓愈は文名が高かくなっていった、一方で、嫉妬、中傷、讒言を受けそうなので、元和二年の春、宰相の鄭絪、翰林學士の李吉甫、中書舍人の裴に対して、弁明の書をつくったものである

2. 【題意】此れ元和二年の春、宰相の鄭絪、翰林學士の李吉甫、中書舍人の裴作るなり。國語に云う驪使奄楚以環釋言註云以言解釋也。退之作釋言取此

沈氏の注に、「『国語』に、礪姫(㍊ (晋の献公の夫人)奄楚(誓)をして環(誓)を以て釈言せしむと、注に、言を以て自ら解釈するなり、とあり。此れ二字の本づく所」という。献公の二十二年に礪姫が翼公子を逐って、その子葵斉(霊)を太子に立てた。公子夷吾は梁に逃れ、梁は秦に近くて、秦の授けを得やすかった。そこで礪姫は恐れて泰に奄楚をやって、玉環を贈り物として、釈言(言いわけ)をした。その後四年、夷吾は秦の助けで、献公のあとに君となった。釈言の出典はこれであるというのである。釈は説明の義である。

韓愈は文名が高かったので、中傷を受けた。そこで諌言を心配してこの文を作って言いわけをしたのである。

 

元和元年六月十日,愈自江陵法曹詔拜國子博土,

元和元年(806)六月十日、わたしは江陵の法曹参軍から勅命によって国子博士に任ぜられた。

 

始進見今相國鄭公。

はじめて現在の宰相鄭綱閣下にお目通りした。

3. 相国 官名、もと泰の宰相。丞相より尊い。丞も相もたすけるの義。国政を助ける意。

4. 鄭公 宰相鄭絪のこと。鄭絪752年-829年),字は文明,滎陽の人。父は鄭羨で,池州の刺史である。鄭絪は唐玄宗の天寶十一年に生れる,少くして學を好み,屬文を善くす,進士出身,宏詞科に登じ,秘書省校書郎を授り、鄠縣尉となる。最初、西川節度使と為り張延に書記に掌せられ賞せらる,名士に結交を喜んで張參の如し、楊綰、常袞等,五代無名氏らと《玉泉子》として劉景の《商山題詩》に記載され、鄭絪の賞識を受くる。唐の德宗の時期、補闕を歷任し、居郎に起し、翰林學士、司勛員外郎、知制誥等職し,唐の憲宗の監國で,中書舍人に遷される。唐憲宗立ち,中書侍郎同平章事を拜し,集賢殿大學士に加わり,門下侍郎に轉じ、弘文館大學士,杜黃と朝政を掌じともに裳同す。元和五年(810年),因みに相位する處にして謙默して事する所無し,貶秩を被り太子賓客と為る。三月に出でて嶺南節度使と為り、廣州刺史、檢校禮部尚書となる。以て廉政を著稱す。入りて工部尚書,轉太常卿,又為同州刺史、長春宮使,改東都留守と為す。入て兵部尚書を歷て,旋て河中節度使を為す。大和二年(828年),入て御史大夫、檢校左僕射、兼太子少保と為す。唐文宗即位し後、以て太子太傅致仕す。卒すは、唐文宗太和三年十月,年七十八。司空を贈られ,諡は曰宣である。

 

公賜之坐,且曰:「吾見子某詩,吾時在翰林。

鄭細閣下は、かけなさいといって、それから、「わたしはきみのなになにの詩を読んだ。わたしはそのとき翰林院にいたのです。

5. 翰林 翰林院学士。秘書詔勅を掌る

6. 職親 天子に再接に按するU親は近い。

7. 地禁 勤めの場所、か、普通人の出入を禁ずる宮中である。

辟雍00